~ちょっと休憩のこぼれ話~ 母の心配
ケインの母視点のお話です。何となく思い付いたので、ちょっとした息抜き程度に楽しんでいただけたらいいなと思います。
活動報告へのメールや、感想やブクマ、評価などをいただきまして、ありがとうございました。誤字報告も本当にありがとうございます。この場を借りてお礼申し上げます。
ケインが第二皇子殿下と同室に……?
その報せを聞いたカルセウス卿夫人アンナの脳裏に真っ先に浮かんだのは、近朱必赤という言葉だった。
朱に交われば赤くなる、墨に近付けば必ず黒くなる、とは、昔からよく言われている格言である。
何だか碌でもない事を皇子殿下に教えそうだわ……とアンナは頭痛を堪えるように、こめかみの辺りを指で揉んだ。
ケインの名誉のために言っておくが、ケインは大層優秀な跡取り息子である。
才気煥発で、剣技や洋弓、乗馬にも優れており、マナー全般も申し分ない。社交的で人当たりも良く、面倒見も良い方だから、下の者たちにも慕われていた。
今年入団した準騎士らの間で頭角を現わし始めたと人伝えに聞いた時も、ケインならばそうだろうとアンナはすんなりと納得した。
アンナにとってはまさに自慢の息子であり、それを否定するつもりは全くない。
ないのだが、ただ何と言えばいいのだろう。ケインはアンナが思いもつかぬ思考回路を持っていて、時々ぶっ飛んだ事をやらかすのだ。
子どもの内はやんちゃ過ぎるくらいが頼もしいんだと夫は口癖のように言っているが、それにも程度というものがある。
自慢の愛馬のたてがみをハゲチョロにされた時には、さすがの夫も度肝を抜かれ、口元を引き攣らせていた。
まあ、ケインの方もその馬に前髪を口でむしられて、斬新な髪型になっていたけど。
そう言えば、カルセウス家の家宝である兜の飾りを見事にぽきんと折ったのもケインだった。
その場で自己申告すればいいものを、ケインは絶妙なバランスで折れた飾部分を兜に乗せ、一見、何の変哲もない状態となっていた。
この兜は、アンシェーゼ建国当時に先祖が始祖帝からいただいたというもので、当時はまだ存命だった夫の父はそれはもうこの兜を大事にしていた。
毎朝、この兜を見に大ホールを訪れるのが義父の日課となっていたくらいである。
大事な兜にそんな異変が起こっているとは露程も知らない夫は、ある日、飾ってあった兜を満足げに見ながら、「これは子々孫々まで残すべき我が家の宝だな」などとご機嫌で言いながらその傍を歩いていた。
ちょうどその時、ご先祖の肖像画が目に入り、「あの先々々代の当主の顔は私に似ていないか」などと言って、大きく背を反らせたのがまずかった。
バランスを崩した夫は「おっと」と言いながら軽くよろめき、その肘がほんの軽く兜に当たった。いや、掠めたといった方が正しいかもしれない。
なのに、兜飾の先端が見事に折れて、床にごろんと転がったのだ。
「うっひょう!」
……あんな間抜けな夫の声を、アンナは生まれて初めて聞いた。
床に落ちた飾部分を這いつくばるようにして慌てて拾い上げ、夫は呆然とそれを見つめていた。
何と言ってもカルセウス家の家宝である。高齢の父に知られれば、ショックで昇天してしまうかもしれない。
夫はすぐに鎧兜の手入れをする職人を呼び、取り敢えずの応急処置をさせる事にした。
父親に知られないうちに、とにかくくっつけておこうと思ったのである。(この辺りの思考回路はケインとまるきり同じだった)
こそこそと職人を呼んで修理させているのをアンナが遠目から眺めていれば、いつの間にか小さなケインがアンナの膝のところまで来ていた。
どう言い繕おうかとアンナは迷った。
お祖父さまには内緒よ、なんて事を言えば、教育上非常にまずい気がする。
が、そんな心配は杞憂だった。ケインがあっけらかんととんでもない一言を呟いたからである。
「ちっ、駄目だったか」
その一言で、真の犯人は誰だったかをアンナは知った。
男の子はこんなものだと言われてしまえば、それも道理である。けれどケインがしでかす事は、時にアンナの想像を大きく超える。
アンナには、今も忘れられない思い出がある。
ケインがまだ三つくらいの頃、フェデル夫人のお茶会に招かれた日の事だ。
その日は数人の貴婦人が招かれていたが、アンナは特別にケインを連れて参加させてもらっていた。
フェデル夫人にはリリラという同い年の娘がいて、大人たちが庭園でお茶を楽しむ間、子どもたちは傍で遊ばせればいいからと夫人に言われたためだ。
空はどこまでも青く晴れ渡り、心地良い風が時折、風鈴を涼やかに揺らしていたのを今も鮮明に覚えている。
フェデル夫人の邸宅の辺りは湧き水が豊富で、きれいに手入れされた池の数か所からは地下水が沸き上がっていた。
緑の藻が生えた池の中からぽこぽこと白い空気の泡が水面に浮かび上がってくる様子はどこか幻想的で、その池の傍で優雅にお茶を楽しんでいた最中にその事件は起こった。
池の底から泡が上がってくる様子を夢中になって見つめていた小さなケインが、「ぽこぽこぽこ」と泡の真似をして言い始め、そのうちチリーンと風鈴の音が鳴ったのだ。
「ぽこぽこぽこちーん?」
隣に座っていたデリリア夫人がぐうっという変な声を立てた。口の中の紅茶を吹き出しそうになり、ものすごい勢いで手で口を押えている。
アンナはケインを注意しようとした。が、痙攣のような笑いが次から次へ込み上げてきて、歯を食い縛る事しかできない。
お茶会はしんと静まり返り(と言うか、もはや誰も口が開けない状態になっていた)、その中で小さなケインだけがぶつぶつと意味のない言葉を繰り返し始めた。
どうやら語感が気に入ったらしい。
ぽこぽこぽこぽこ、ぽこぽこぽこちーん、ぽこぽこぽこ……。
お茶会は今やカオスな光景となっていた。
淑女たるもの、こんな下らない、しかもそこはかとなく下品な言葉で笑い出すなど許される事ではない。
皆それぞれに込み上げる笑いと格闘し、ある者は必死で口元に押し当てたハンカチを握りしめ、ある者は無の境地に入ろうと閉眼して不自然に天を仰ぎ、ある者はひたすら俯いて瘧のように時折体を細かく震わせていた。
……地獄のような時間だった。
あのお茶会がどのように終わったのかアンナは覚えていない。
翌日アンナは、生まれて初めて腹筋が痛いという経験をした。どれだけ下腹部に力を入れていたかというのが、これでわかろうというものだ。
さて、アンナはケインを心から愛している。
自分にはもったいないほど出来のいい子だと思っているし、弟妹達もケインの事をとても尊敬していた。
でも、何と言うか油断がならない。生まれてこのかた、武勇伝に事欠かない子であったからだ。
ケインはそういった本性を母親が気付いていないと何故か思い込んでいるが、どうしてそのように思えるのかアンナには理解できない。
因みに、庭先の彫像の手首をぼきんと折ったのもケインである。
こればかりはどうくっつけようもなかったのか、折れた石の腕を仕方なくアンナのところに持ってきた。
騎士団でもあの子はきっと何かやらかすだろう。
それについてはアンナはもう、余り心配をしていなかった。心配してもどうしようもないからだ。
けれど、ケインが第二皇子殿下の同室者に選ばれた事だけはさすがに想定外だった。
聞くところによると、第二皇子殿下はお体が弱く、ずっと紫玉宮に引きこもっておられたらしい。
という事は、外の世界はほとんど知らず、真っ新な状態であられるという事だ。
その皇子殿下の同室者がケインだなんて、アンナにはもう途轍もなく嫌な予感しかしない。
そして冒頭に戻る訳であった。
さてそのケインはと言えば、休暇を利用して友人となった皇子殿下を家に連れてきた。
アントーレ騎士団の一個小隊が護衛に着き、物々しいことこの上ない。
馬車から降り立ったセルティス殿下を夫や子どもたちと共にお出迎えしたが、本当に麗しい、物語から抜け出て来られたような美しい少年だった。
立ち居振る舞いも優雅で気品に溢れ、さすが皇族の方だと感じ入ったアンナたちだったが、まさかお宅訪問の目的が『桃色本、中級編』であったなど、訪問を有り難がるカルセウス家の人間らには思いもつかぬ事であった。
因みに、お目付け役の監督生がいないこの晩、セルティス殿下は中級編の桃色本を見ながらケインと大いに語り尽くし、大変充実した一日を送られたようである。