茶トラの家は、皇弟の側近を家に迎える
その日ラヴィエ家は朝から大きくざわめいていた。
寄り親であるブロウ卿から、カルセウス卿という高位の貴族がラヴィエ家を訪れるので丁重に迎え入れて欲しいと連絡が入っていたからである。
なにぶん田舎者であるラヴィエ卿は高位の貴族の名など数えるほどしか知らず(皇帝の側近と言われているラダス卿やモルガン卿の名前なんかも、つい最近知った)、慌てて貴族年鑑なるものを書庫から引っ張り出して調べてみたところ、ものすごい名門貴族である事を確認して、朝からお腹が痛くなった。
そんな身分の高いお貴族様がうちに一体何の用だろう。
まさか乾パンを売って欲しいとか……?
脳みそが煮詰まるくらい考えたが、結局わからなかった。
一方のシアは、もしかするとレイの件かしらと思っていたが、カルセウス家が名門中の名門だと父から聞かされて自信が持てなくなり、レイとは関係ないのかもしれないと一人悶々としていた。
うろうろと落ち着きなく階下を歩き回っている父に相談すればいいのかもしれなかったが、実を言うとシアは、レイに求婚された事実を家族に告げていなかった。
だって、家名も知らない相手である。
しかも爵位なしの次男坊で今後の生活は未確定とまで言われていたから、さすがに両親にも言いづらく、取り敢えずレイから正式な使者が来るのを待っていようと思っていたのだ。
そんなラヴィエ家を訪れたのがケインであった。
皇后陛下からのとあるご提案を引っ提げ、はるばる皇都から馬車を走らせてセルシオ地方にやってきたケインであったが、初めて訪う事となったラヴィエ家を見て内心ひどく驚いていた。
その邸宅が、田舎にあるとは思えぬほど瀟洒で上品な建築であったからだ。
実はケインは無類の建築好きである。
趣のある荘厳なファサードとかを見つければその日は一日ご機嫌だし、緻密な計算がされた幾何学的なパターンの化粧張りを見ると、各面がどのように分割され、合理的な比例関係を作っているかをついつい検証してみたくなる。(セルティスには、そんなん面白いか? と言われた)
ついでに言えば、セクルトで見た力強く独特なフォルムをした聖堂も大好きだし、平面の直径と建物の高さが一対一の安定感のあるシーズの洗礼堂なんかも好みのど真ん中である。
ここの邸宅は、白を基調として柱やアーチなどには青灰色の石を配色しているんだなと、ケインは馬車から降り立って、まずその色のセンスを絶賛した。
暇があればこの邸宅の建築者と是非とも話をしたいものだが、まあ今はそんな事をしている場合ではない。
という事で、応接間に通されて当主夫妻と向き合ったケインは、何から話すべきかとちょっと考えた。
そもそもシアは、セルティスとの事をどこまで両親に話をしているのだろうか。
「こちらのオルテンシア嬢の事ですが……」
まずはそう切り出すと、母親が困惑も露わにケインを見た。
「あの子が何か……?」
「あー……、レイという男性の求婚を受けられた事はご存知、ですよね?」
ケインがそう言った途端、二人は目を剥いた。
母親は淑女の嗜みも忘れて口をぱっかりと大きく開け、ラヴィエ卿の方は驚愕の余り、椅子からずり落ちそうになっていた。
「な、な、な……」
言葉もまともに出て来ない。
と、がばっとソファーから立ち上がったラヴィエ卿が跳ね上がるように扉へと向かい、「シア! 来なさい!」と戸口から大声で娘を呼んだ。
夫人もどうしていいかわからないように立ち上がり、落ち着きなく手を握り合わせている。
そんな中、慌てて自室から駆けてきたシアは、室内に入るなり、「ケイン?」と仰天したように声を上げた。
「どうしてケインがこちらに……?」
ケインは驚かせて申し訳ないなと思いつつ、なるべく落ち着かせるように穏やかな笑みをシアへと向けた。
「今まで家名を名乗らなくて済まない。ケイン・リュセ・カルセウスだ。
この度は、レイの家からの使いで来た。そう言えば、わかってもらえるかな?」
ラヴィエ卿は『レイの家からの使い』という言葉にものすごく引っかかるところを覚えたが、それよりもまず、娘に確かめておかなければならない事があった。
「シア。レイという男からの求婚を受け入れたのは本当なのか?」
ラヴィエ夫人も食い入るように娘を凝視しており、問い詰められたシアは狼狽えるまま視線を彷徨わせ、か細い声で両親に謝った。
「黙っていて本当にごめんなさい。レイから妻になって欲しいと言われて……、そのお話をお受けしました」
「え……」
ラヴィエ夫人はふらりとソファーに座り込んだ。
「一体いつそんな話になったんだ……」
信じ難いと言うように呟いたのはラヴィエ卿だった。
「ダキアーノに婚約解消されてから、私はお前を社交には出していない筈だ。……まさか婚約時代からその男と付き合っていたのか」
思わぬ言葉にシアが泣きそうになりながら首を振った時、
「先日の仮面舞踏会です」
ケインが静かに声を滑り込ませた。
「シアが婚約解消した事をレイが知り、それでブロウ卿に頼んであの仮面舞踏会の紹介状をシアに届けさせました。
シアは婚約者を裏切るような事は一切しておりませんし、舞踏会でレイに声をかけられた時も本当に驚いていました」
そう言ってシアを見れば、涙を滲ませていたシアも慌てて頷いた。
ケインはシアの口から説明したいかなとしばらく待っていたが、シアが何も言わないので勝手に説明を続ける事にした。
「シア嬢とレイが会ったのはそれが三回目です。数年前にミダスで出会い、先日、窮児院で再会しました。
その時にシア嬢がまだ結婚されてないと知り、事の経緯を確かめるようレイに頼まれました。
調べた結果、アント・ダキアーノが不貞を働いた上に婚約解消に動いているようだとわかり、貴家に新しい寄り親を紹介するよう命じたのもレイです」
ラヴィエ卿夫妻はもはや声もない。
ラヴィエ家が窮地に追い込まれたタイミングで新しい寄り親の話が持ち込まれた事をどこかで不思議に思っていたけれど、あれは偶然ではなく、明確な意思を以て助けられていたのだと知り、呆然と娘の方を見つめるばかりだ。
「トリノ座の招待状は、レイに頼まれて私が用意しました。
レイは意中の女性をバルコニー席に誘い、それで口説いた訳です。
何だったかな……。『自分は愛人の子どもでこの先の生活については不確定の事も多い。でも、何があっても養うから妻になって欲しい』。確かそんな風にシアに求婚していたと覚えてますけど」
「え?」
聞き捨てならない言葉に、シアはがばっと顔を上げた。
「覚えてますって……。え……? それって、それってまさか……」
「申し訳ない。茂みに隠れて一部始終を聞いていた。ついでに言うと、レイの護衛騎士も二人私の傍にいたから、三人でしゃがみこんで聞いていた訳だけど」
済まなそうに肯定され、シアは思わず仰け反った。二人だけのあの甘酸っぱいシーンをずっと人に見られていたなんて……!
「いや、広間の隅っことかで告白してくれるんならまだしも、よりにもよってレイは庭園に面したバルコニー席なんかに行っただろう?
庭園の暗がりに不審な者でも潜んでいたら、何かの時に対応できない。つまり、レイの安全は何にも増して優先されなければならなかったから」
今、なんか恐ろしい言葉が出てきたぞ……とラヴィエ卿は心の中で呟いた。
この続きを聞くのがはっきり言って怖い。
名門カルセウス家の御曹司を使い走りさせられる家ってどこだろう? それに、その安全が何にも増して優先されなければならないって、一体どんな相手だ?
「レ、レイって、あのレイよね」
慌てて娘にそう確認してきたのは、ソファーで魂を飛ばしかけていたラヴィエ夫人だった。どうやら現実に戻って来たらしい。
「お母上が、その……愛人をされていて、爵位を持てない次男坊だと言ってなかったかしら……」
「母親が愛人……? 次男……、レイ……?」
ラヴィエ卿は眉間に皺を寄せた。
どこかで聞いた名前だった。カルセウス家よりも家格が高い家の人間で、愛人の息子でありながらその安全が何にも増して優先されなければならないような相手。
そうやって思い当たったのは、一人の皇族だった。
ざーっと音を立てて血の気が引くのがラヴィエ卿にはわかった。
そう言えば、シアはレイについて何と言っていたか……。
母親の違う兄が一人と姉が三人、弟妹が一人ずつ。それから、父親の違う姉……。
「う、嘘……」
ラヴィエ卿は、どひゃあと大声で叫びたい気分だった。
「あなた……?」
訝し気に声をかける妻に返事をする余裕もなく、ラヴィエ卿はだらだらと汗を流した。
「ま、まさか、セルティス・レイ皇弟殿下からのお使いで来られたのですか……?」
シアとラヴィエ夫人がぎょっとしたようにケインを振り向き、そのケインはちょっと困ったように微笑んだ。
「あ、違います」
良かった、違うんだ。そう三人がほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、
「こちらへは皇后陛下の使いで参りました」
三人は見事に石化した。
この家の人間って石化が標準なのかな? とケインは内心首を傾げた。確かシア嬢も、初めてセルティスを見た時に石化していた気がする。
「つまりですね」とケインは一つ咳払いをした。
「ラヴィエ卿がお気付きになったように、レイが皇弟殿下である事は事実です。
前パレシス帝の第二皇子で、母君は故ツィティー側妃殿下、父親違いの姉君がおられ、それが現皇后陛下、ヴィアトリス様でいらっしゃいます。
兄君はアレク皇帝陛下で、母親の違う姉君が三人おられ、妹君と弟君が一人ずつ。
殿下は基本的に真実だけをシア嬢に告げられています。シア嬢が大事でしたから、なるべく嘘を言いたくなかったのでしょう。
この先の生活については不確定な事も多いと言われたのは、臣籍降下も視野に入れられてのご発言かと思います」
「し、臣籍降下? な、何故……?」
目を白黒させてラヴィエ卿が問えば、
「つまりこの恋を成就させるためならば、皇族の地位を手放す事もやぶさかでないという意思の表れでしょうね」
ケインがそう続ければ、「え」とシアは絶句した。
「殿下はおそらく、シア嬢のためならば今の地位を失っても構わないと思っておいでです。
生半可なお気持ちでシア嬢に近付かれた訳ではありません」
そうしてケインは、押し黙ったままのシアに向き直った。
「あの日殿下が、シアにした話を覚えているだろうか。十二になるまで自分はずっと館に閉じ込められていたと。
殿下はあの容姿で聡明であられ、健康面でも問題がなかった。もし公に姿を現わしていたら、アレク殿下の対抗馬とみなされ、おそらくは今頃は殺されていただろう。
だから宮殿の奥深くに匿われてお育ちになった。それはお命を守る上で仕方のない選択だったけれど、殿下がお辛くなかった筈はない」
その言葉にシアはそっと瞳を伏せた。
「……あのお話を忘れた事はありませんわ。
外に出たい、外の世界が見たいと泣き喚いて駄々をこねたと言われていました」
「その殿下の孤独を慰めた小さな茶トラ猫は、殿下が大人になられた今でも、忘れがたくかけがえのない存在として心に残っている。
女性を猫に例える殿下の感性はどうかとも思うけど、殿下はシアの事をあの茶トラのようだと言っていたね。傍にいると寛げるというか、ずっと傍に置いて手放したくない感じだって。
あれがまぎれもない殿下のご本心だ。
シアにはそれをわかってもらいたいと思う。殿下のお立場や身分に居すくむ気持ちは理解できるけど、どうかそこに惑わされる事なく、殿下個人を見てやってもらえないだろうか」
言われたシアは、どうしていいかわからぬように床に落とした視線を彷徨わせた。
レイが自分の身分を言えなかったのは事情が許されなかったせいで、シアを騙す気など毛頭なかったとちゃんとわかっていた。
それにレイは、できる限りシアに誠実にあろうとしてくれた。おそらく嘘は一つもつかれていない。大切に思われている事も、疑うつもりはなかった。
けれど……とシアは思ってしまう。
「わたくしと殿下とでは身分が違いすぎます。殿下が身分をお捨てになるなど畏れ多い事ですし、かといってわたくしが殿下の妻となるなど、とても許されないでしょう」
「……皇帝陛下はこの話を進めるようおっしゃったそうです」
思わぬ言葉に、シアは弾かれたように顔を上げた。
「これは皇后陛下から直接お聞きした言葉です。
殿下を皇家から出すつもりはない。セルティスが望むなら、オルテンシア嬢を妃に迎え入れるようにと」
「恐れながら……」と、ラヴィエ卿が意を決したように口を挟んだ。
「我が家では到底釣り合いが取れません。身分の低い者が皇家に上がっても、周囲から馬鹿にされ、苛められるだけでしょう。
私はこの娘が可愛い。結婚生活が針の筵になるとわかっているところに、みすみす娘をやる気にはなれません」
父親としては尤もな言葉であり、傍にいる夫人も同意するように瞳を伏せる。
ラヴィエ卿の言葉に、ケインも小さく頷いた。
「おっしゃる通り、ただ迎え入れただけでは風当たりはかなりきついでしょう。
そうさせないためには、ある程度の根回しが必要かと思います。
そこで、皇后陛下からご提案がございました。
シア嬢を皇后付きの侍女として、皇宮に迎え入れたいとの事です」
あと二話でおしまいです。
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