皇弟は皇后に援護を求める
シアは呆然とセルティスを見た。あまりに急な展開で、頭がついていかなかったのだ。
けれど一つだけわかった事があった。この先二度と付き纏わない、会う事もないと言われた瞬間、心が切り裂かれたように悲鳴を上げた。
「レイと会えなくなるのは嫌……」
気づけば言葉が口から零れていた。
「レイから離れていったら、わたくしはもう二度とレイを見つけられなくなるわ。二度と会わないなんて、そんな悲しい事は言わないで」
シアは微笑みながら言おうとしたが、そうした未来が訪れると考えただけで、熱い塊が喉元に込み上げてきた。
元々自分はレイの家名を知らされていない。今回会えたのだってシアにとっては奇跡のようなものだった。
レイの事を考える度、妙に心がざわめいた。胸がどきどきと高鳴り、嬉しいような笑い出したいような、それでいてどこか切ないような気持ちをどこか持て余していたけれど、その正体が何だったのかシアにはようやくわかった。
自分はとうにレイに恋をしていたのだ。
初めて会った日から、レイはシアの特別だった。
だって出会いから物語のようだった。地面に倒れ込むところを颯爽と駆け付けて、腕に抱き止めてくれた。その後は一緒にミダスを散策する事になり、レイとのおしゃべりは楽しく、話しても話しても話題は尽きなかった。
あれほどに輝いた一日はなかった。レイの表情やその声音、交わした会話はいつまでもシアの心を去る事はなく、しばらくはミダスを訪れる度にレイの姿を無意識に探していた。
勿論シアには婚約者がいたから、それ以上レイとどうこうなりたいと思った訳ではない。ただ、折に触れてあの日の事を思い出し、大切な宝物のように時々心から取り出しては、婚約者から不当に扱われる自分を慰めていた。
あのまま会わなければ、レイとの事は美しい思い出としてシアの心の奥底に留められたままだっただろう。
けれどシアは再びレイと会ってしまった。
シアの苦境を知ったレイは手を差し伸べてくれ、だからこそシアはあの途方もない悪意に押し潰される事もなく、新しい寄り親にも恵まれて家族共々平穏に暮らせている。
実のところシアはもう、結婚に対する夢は微塵も持っていなかった。
お金以外に自分の価値はないのだと前の婚約者から散々そう思い知らされ、女性としての自信もなくしていた。
いつか結婚話が持ち上がるとしても、結局は自分の持参金が目当てなのかもしれない。そう悲観してしまうほど、アントのつけた傷は深かった。
でもレイだけは、シア自身を求めてくれているのだと素直に信じる事ができた。
シアが持参金付きだろうとそうでなかろうと、レイならばきっと気にしない。そしてレイの傍でなら、シアは自分に卑屈さを覚える事なく、晴れやかに笑っていられる気がした。
「わたくしもレイの傍にいたい……」
そう答えた途端、堪えていた涙が頬を伝い落ちた。
レイがどこの誰であろうと構わない。おそらくは家格が高い貴族の庶子なのだろうとシアは思った。
ブロウ卿に干渉できるほどの力を持つ家の息子で、けれど爵位は兄君が継ぐ筈だから、本来ならばレイは爵位を持つ女性の家に婿入りしなければならない筈だった。
「わたくしは爵位も何も持っていません。それでもいいのですか?」
だから返事を口にする前に、シアは一つだけ尋ねかけた。ラヴィエ家を継ぐのはシアの兄だ。シアと結婚してもレイは得るものが何もない。
「シア以外には何も望まない」
セルティスは真っ直ぐにシアを見つめて微笑んだ。
「私の家はとても複雑で、シアにも苦労を掛けるかもしれない。だけど、傍にいて欲しい。この先、何があってもシアの事だけは守るから」
「可愛がっていた茶トラのように、わたくしを一生、大切にして下さる?」
零れ落ちる涙を指の先で払い、微笑みながらそう言えば、「勿論だ」とセルティスは笑った。
「求婚をお受けします。貴族でなくなってもわたくしは平気。レイさえいて下さるなら、わたくしはそれでいいんです。
お金の事は心配しないで。贅沢をしたいと思った事はありませんし、本当に生活に事欠くようなら、生計を立てられるように父が手を貸してくれると思うのです。
それにもし苦労するとしても、二人でならきっと乗り越えていけると思いませんか」
「シア……」
二人はものすごくいい雰囲気になっていたが、生憎その場にいたのは甘い雰囲気の二人だけでなく、図体のでかいお邪魔虫が三人、茂みの中にいた。
さっきまで退屈そうにしていた護衛二人はすっかり眠気も覚め、口をおの字にして固まっているし、ケインはといえば、親友の恋の成就にカエル座りのまま小さくガッツポーズをしていた。
まさか、セルティスの理想通りの女性が現れるとは。
こんな事ってあるんだなと、ケインは呆れ半分感心した。
皇弟ではなく、一人の男としてのセルティスを好きになってくれて、度の過ぎた姉上至上主義にもどん引きせず、甲斐性なしでも構わないと言ってくれる女性。
そんな奇特な女性を見つけ出すとは、セルティスは結構、強運の持ち主なのかもしれない。
「シア。今は家名を言えないけれど、必ず君を迎えに行く」
セルティスはそう言って、懐から黒い天鵞絨の箱を取り出した。
「母の形見なんだ。いずれサイズは合わせないといけないと思うけど」
箱から取り出したのは、蜜がとろりと溶けたような独特の表情を見せる、透き通った琥珀の指輪だった。
セルティスの誕生に合わせてツィティー妃が作らせた物で、石そのものも良質だが加工も一流であり、値段がつけられないほど高額なものだ。
「これを持っていて欲しい。近いうちに正式に君の家に申し込みに行くから待っていて」
渡された指輪を、シアはそっと光に翳した。
「とてもきれい……。レイの瞳の色ですね」
指に嵌めるとサイズが一回り大きく、シアは丁寧にその指輪を箱の中に戻した。
「この指輪と一緒にお待ちしています。わたくしをどうか迎えに来て下さいね」
「ああ」
セルティスがシアを抱き寄せるのが分かったので、ケインと護衛二人は申し合わせたように固く目を瞑った。
流石にここまで覗き見しては悪い気がしたからだが、そろそろ足も疲れてきたから早いところ広間に戻ってくれないかなと、ケインは身も蓋もない事を心の中で考えた。
さて、シアの返事を聞いてすっかり夢見心地だったセルティスだが、この恋が前途多難である事はきちんと理解していた。
シアの手を放す気は絶対になかったが、何と言っても二人の間には大きな身分差がある。
皇弟の地位を返上してそこそこ暮らせるだけの爵位をもらってシアと暮らすという選択肢はないではなかったが、それは最終手段だ。
皇族として今まで民の血税で育てられてきたセルティスはそれに見合うだけの恩を国に返す義務があり、国を支える成人皇族が自分以外にはいない(父帝の従兄弟たちは、こう言っちゃなんだが余り役に立ちそうになかった)という現実もよく弁えていた。
という事で、こんな時に誰を頼ればいいか、セルティスはよく知っていた。
言わずと知れた皇后である。
という事で、仮面舞踏会から帰った翌日、セルティスは姉の許に突撃した。
「姉上、私だけの茶トラを見つけました!」
無茶ぶりもいいところだが、勘のいい姉にはこれで通じるとセルティスはふんでいた。
何と言っても山のような崇拝者を持ち、幅広い人脈を宮廷内に築き上げている皇后である。
いくらセルティスが隠そうとしても、セルティスがセルシオの地方貴族の問題にこそこそと関わろうとしていた事や、もしかすると昨日シアと会ってきた事だって、掴んでいるかもしれないとセルティスは思っていた。
「茶トラですか」
一方のヴィアは、何もかもをすっ飛ばしてそんな事を言ってくる弟に小さな苦笑を向けた。
ケインから、二人のためにトリノ座の仮面舞踏会の招待状を手配したと聞いていたが、どうやら弟は見事に恋を成就させたようだ。
「その方について、貴方が知っている事を全部話してちょうだい。
わたくしが知っている事も勿論あるけれども、貴方の口からもう一度すべてを聞きたいの。
どうやって知り合ったか、どのような人柄の方なのか、今後貴方がどうしていきたいのか、わたくしにきちんと話してみて」
そうやってすべての話を聞き終えたヴィアは、ひとまずは紫玉宮にセルティスを帰した。
セルティスの覚悟も確認したから、後は話を進めていくだけだとヴィアは思う。
実を言えばこの件に関しては、すでにおおまかな流れはできていた。
ケインから報告を受けて以来、ヴィアは独自のルートでシア嬢について調べさせ、家柄以外に瑕疵がない事を確認した上で、夫であるアレクにもすべて伝えていたのである。
いくらヴィアがセルティスを可愛く思っていても、セルティスが皇弟である以上、事を押し通せる事とそうでない事とがある。
どこまでを我慢させ、どこまでを国として譲歩できるかを、皇帝である夫と話を詰めておかねばならなかった。
「セルティスを皇家から出す気はない。あれは国にとってなくてはならない皇族だ」
ヴィアの話を聞き、アレクがまず口にしたのはその言葉だった。
一を以て万を知る天才肌の皇子だと、騎士学校時代の教官も言っていた。知識量が豊富な上、頭の回転が速く、かつ弁も立つ。瞬時に物事を決断し、実行に移す行動力もあった。
無論、セルティスが一貴族となっても国の役には立つだろうが、成人皇族として残しておいた方が何倍も国にとって有益である。このような皇弟を皇家から出すなど、凡そ馬鹿のする事だった。
「相手のシアとやらは、セルティスの身分を知らないんだな」
アレクがそう確かめると、ヴィアは「ええ」と頷いた。
「母親が愛人である事と、兄弟姉妹については教えているようですが、それ以外の情報は与えていないようでした。
ただ今回、寄り親の交代の件に関与しましたから、高位の貴族であるとは気付いているかもしれません」
「本当の身分を知れば、怖気づくかもしれないぞ」
アレクの言葉にヴィアは「そうですね」と呟いた。
「そこが一番懸念されるところです。シア嬢の不安を取り除いてやれるよう、傍に置いて細やかな言葉がけをしていく必要があるでしょう」
「……そんな事が可能か?」
ヴィアは、「ええ」とアレクを見上げた。
「ラヴィエの乾パンのレシピを作り上げたのは、そのシア嬢と聞いています。皇宮に呼び寄せる理由は十分にあります」
貴族女性が自ら厨房に立って焼き菓子などを作る事はあまり一般的ではないが、皇后であるヴィアは専用の厨房を持っていて、時に手ずから焼き菓子を焼いて子どもたちに振舞う事がある。
宮廷の人間はそれを知っているから、シア嬢が自ら軍食の開発に関わったと聞いても、それに対してあからさまな批判をする者はいないだろうとヴィアは思っていた。
「あと婚約解消の件ですが、シア嬢の周囲が少し落ち着きましたら、こちら側から顛末を明らかにしていった方がいいでしょう。
下手に隠して後でバレると、取り返しのつかないダメージとなりますから」
それを聞いたアレクは喉の奥で笑った。
「シアを捨てたその貴族は青ざめるだろうな。シアに対して行った非道が皇后にまで届いたとなれば、出し渋っていた違約金も払わざるを得なくなるだろう」
「あれは本当にひどい話ですわ。
話を聞いた時は三倍返しでもおかしくないと思いましたけれど、そこまですると三家とも潰れた上に死人が出そうですの。
二・五倍額ならば、借金まみれでも家名だけは残せそうですし、その程度が頃合いでしょうね」
とりあえずこの問題は早期に決着をつけ、次の段階に入らないといけない。
「それで婚姻までの流れですけど、まずは軍部の方でラヴィエの乾パンを周知させるよう、アモン様に取り計らってはもらえないでしょうか。
その上で、宮廷内や民にもラヴィエの名を周知させる方向でお願い致しますわ。ルイタス様やグルーク様が力になって下さればある程度の流れは固まると思いますし、わたくしも全力でシア嬢を守って参りますから」
という事で、皇帝と皇后の間ではすでにここまで話は動いていた。
これで昨日セルティスがふられたら、どうやって慰めたらいいかしらとヴィアは頭を悩ませていたが、弟は無事、愛する女性を振り向かせる事ができたようだ。
後はヴィアの仕事である。
まずはラヴィエ家に正式な使者を遣わさなければならないが、その人選についてはヴィアにはすでに考えがあった。




