皇弟は茶トラに求婚する
その日ラヴィエ卿は娘のシアを伴い、寄り親であるブロウ家へと馬車を走らせていた。
婚約解消に伴い、持参金の二・五倍額の違約金をラヴィエ家に支払うようダキアーノ家に申し入れたと、先日、ブロウ卿から報告が届いたからである。
面識のないブロウ卿からいきなり書状を受け取る事となったアント・ダキアーノは、最初、その書状を夜会か何かの招待状だと勘違いしたようだった。
ラヴィエ家より格上のレオン家令嬢との婚約を発表して以来、それまで付き合いのなかった貴族らからも招待状が届くようになり、得意絶頂の時期にあったからだ。
「直接書状をお渡ししたい」と使者が言い張ったために仕方なく応接の間に通して書状を受け取ったアントだが、内容に目を通すなり見る間に顔を青ざめさせ、「これはどういう事だ!」と使者を怒鳴りつけてきたと言う。
アントの中でオルテンシアとの婚約の件はすでに片が付いた問題だった。
レオン家との婚約を結ぶ時、ラヴィエ家への補償は受け取った総額の一・二倍分で済ませようと、ダキアーノ、レオン、カリアリ家の三家で取り決めており、その補償金はレオン家が支払う事で決着している。
格下のラヴィエ家が賠償について不服を申し立てるとはアントは夢にも思っておらず、一番気がかりだったのが、オルテンシアが婚約解消を受け入れずにアントに纏わりついてくる事だった。
だからこそ、ラヴィエ家に婚約破棄を通達してすぐにリリアーナとの婚約披露を行い、再縁組はあり得ない事を思い知らせ、後の事はラヴィエ家の寄り親であるカリアリ家に任せる気でいたのだ。
レオン卿の義兄でもあるカリアリ卿は、親に逆らえる寄り子などいないと豪語していたし、文句を少々言ってきたとしても黙らせると言っていた筈なのに、これは一体どういう事だろう。
アントはその足でカリアリ卿に苦情を言い立てに行き、事の次第を知ったカリアリ卿は慌てふためいてラヴィエ邸へと向かったが、そのラヴィエ邸ではまさかの門前払いを食らわされた。
こちらからわざわざ出向いてやったと言うのに、当主夫妻が玄関口で出迎える事もなく、執事からは慇懃に取次ぎを断られたのだ。
「すでに当家とは縁が切れております。お話があるのでしたら、当家の寄り親のブロウ卿のところをお訪ね下さいとの事です」
かっとなったカリアリ卿は感情のままに拳を振り上げようとしたが、脇に控えていた屈強な使用人が執事の前に立ちはだかり、二十名を超える護衛らまでがわらわらと周囲を取り囲んできたため、カリアリ卿はなす術もなく退散した。
逃げ去って行く馬車を二階の窓から眺めていたラヴィエ卿の方は、このままでは済まぬだろうと険しい顔でそれを見送り、館の護りを更に厳重にすべく、警護を強化させる事にした。
何と言っても財力には事欠かないラヴィエ家である。金を使うべきところと惜しむべきところを間違うつもりはなかった。
さてそんな賢明なラヴィエ卿だが、娘シアと訪れたブロウ家の応接の間で、いかにも高級品っぽい二つの紙箱を手渡され、少々困惑を隠せずにいた。
「こちらは一体……」
訝しげにそう尋ねれば、ブロウ卿は人好きのする顔に笑みを浮かべ、
「卿は、皇都のトリノ座という歌劇場で毎週末、未婚女性が楽しめる仮面舞踏会が開かれている事をご存知ですかな」
と訳の分からぬ事を唐突に尋ねてきた。
「トリノ座、ですか……。トリノ座かどうかは存じませんが、皇都の歌劇場では審査に通った者とその紹介者だけが参加できる仮面舞踏会があると聞いた事があります」
仮面舞踏会は身分や顔を隠して気軽に参加する事ができるため、いかがわしい行為を目的にやってくる富裕階級の者が後を絶たなかった。
こうした場は貴族たちの気晴らしの場でもあるので、恋の駆け引きやある程度の火遊びは自己責任だと目を瞑る舞踏会も多かったのだが、そんな中、未婚の女性たちが安全に参加できる舞踏会場を提供しようと新たな方式を取り入れた歌劇場があった。
「まさにその歌劇場だ」
ブロウ卿はにっこりと頷き、言葉を続けた。
「女性たちが安心して参加できるよう、トリノ座は安全にかなり気を砕いておるそうだ。
招待状には番号がふられていて、番号を調べればその者が誰の紹介で来た者かすぐに特定できるし、万が一にも間違いが起こらぬよう、男女が二人きりになれる密室型の休息所も作られていない。そのため、若い女性らには大層な人気となっているようだ」
「なかなか配慮のきいた歌劇場ですね」
とラヴィエ卿は応じた。というか、そのくらいしか言う言葉が見つからない。
「さて、本題に入ろう。
オルテンシア嬢は九つの時から今まで意に染まぬ婚約に縛られ、自由に舞踏会を楽しむ事がなかったと聞いておる。身分や立場を忘れ、普通の貴族令嬢が楽しんできたように、舞踏会を楽しんできてはどうかと思ってな」
そう言ってブロウ卿は、薄いピンク色の方の箱の蓋を開け、シアの前に差し出した。
中には、一面の仮面が丁寧に収められていて、シアは思わず引き寄せられるように中を覗き込んだ。
「何てきれい……」
額から鼻の上部までが隠れるようになっているその仮面は、白色がベースで、穴の開いた目のラインや仮面の縁全体に金糸で細やかな刺繍がなされていた。
右耳に近い部分には羽飾りのついた大輪の花も飾られていて、気品に満ちた華やかさがある。
初めて仮面を目にするシアはその美しさに目を奪われ、その様子にブロウ卿は満足そうに口元を綻ばせた。
「もう一つの箱の方は男性用の仮面だ。どちらにも仮面の下に仮面舞踏会の招待状が入っておる。
……お父上か兄上に連れて行ってもらいなさい。
今回の婚約解消にはいろいろ思うところもあるだろうが、アント・ダキアーノのような最低な男はさっさと忘れてしまう事だ。
舞踏会を楽しみ、少し気分を変えて来ればいい」
「そのような事までしていただく訳には……」
流石にそれは申し訳ないとラヴィエ卿は断ろうとしたが、実のところブロウ卿にとってそれは全く要らぬ遠慮であった。
そもそもこの招待状や仮面を用意したのはブロウ卿ではなく、その相手からはシアを必ず参加させるようと強く言われていた。
「断るという選択肢はないぞ。これは寄り親からの命令だ」
ただこのオルテンシア嬢に、あんな悪縁は早く忘れて幸せになって欲しいというのはブロウ卿の偽らざる本心であり、茶目っ気たっぷりにそう言えば、シアは慎み深く瞳は伏せながらも嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
実のところシアは、今まで舞踏会を楽しいと思った事は一度もなかった。婚約者のある身では他の男性と親しく踊る事も躊躇われ、アントと出席した舞踏会は特に最悪だったからだ。
自分には笑み一つ見せようとしないアントが他の女性たちとは楽しそうにダンスを楽しみ、シアはそれを一方的に見せられる。気を紛らわせようと、他の男性とのダンスに興じたら、生まれの卑しい女は身持ちも悪いのかと信じがたい言葉をぶつけられた。
美しく瀟洒な仮面を見つめながら、自分はようやくあの婚約者から解放されたのだとシアはぼんやりと心に呟いた。
今思えば、アントは殊更にシアを貶める事で、自分の優位を確信したがっていた。
そのような男と縁を切る事ができたのは、むしろ幸運であったのかもしれない。
「この仮面をつけて楽しんで参ります。本当に何とお礼を申し上げていいか……」
我慢を強いられてきたこれまでの日々や、ようやく自由になれた喜び、虚しさや安堵ともつかぬ感情が一気に喉元に突き上げてきて、シアは一瞬声を詰まらせた。
そしてそんな感傷を払うように、ふわりと笑みを咲かせれば、ブロウ卿は穏やかな眼差しで大きく頷いた。
「オルテンシア嬢はとても魅力的な女性だ。たくさん笑い、いい運を引き寄せなさい」
という事で、シアはそれからの数日を仮面舞踏会を楽しみにわくわくと時を過ごす事になった。
のんびりと浮かれていられる立場ではないと自分でも知っていたが、だからと言って塞ぎ込んでいても家族を心配させるだけだ。
注文と採寸を済ませていたコルネッティ商会のドレスも今になって届き、シアはそれを着て仮面舞踏会に参加する事にした。
因みに付き添いは長兄のジョシュアである。父に頼んだところ、この年で仮面舞踏会は恥ずかしいと速攻で断られた。
最初のダンスだけは兄と踊り、後はそれぞれにダンスに興じる事にした。
一人で大丈夫かと兄に聞かれたが、この大広間か庭に面したバルコニーのどちらかにいるから心配ないわとシアは笑った。
華やかな楽の音や女性たちの笑い声が肌に心地よい。こんな解放された気分で舞踏会に出席するのは初めてだった。
シアはダンスが得意である。
元々運動神経がいい上に、ダンスの練習にはかなりの時間を割いてきた。指先まで流れるような美しい所作でステップを踏む事ができるし、少々リードが下手な男性であっても余裕で合わせられる。
コルネッティ商会のドレスを優美に着こなし、蝶のように軽やかなステップを踏むシアは男性たちの注目を引き、シアはひっきりなしにダンスを求められた。
請われるままに手を取り、目を見つめ合って束の間の会話を楽しみ、そうやってどのくらい踊り続けたのだろう。
流石に疲労を覚えたシアは、少し休憩しようとバルコニー席の方へ移動しかけた。と、その時、聞き覚えのある声が「シア」と小さく名を呼んだ。
シアは驚いて振り向いた。
そこには濃紺の仮面をつけたすらりとした若い貴族が立っていた。髪は栗毛色だが、シアはそれがカツラである事を知っている。
仮面の下から覗く形の良い口元を見間違える筈がないし、何より二重の美しい琥珀の瞳はレイのものだ。
「レイ! こんなところで会えるなんて!」
嬉しさに声を弾ませて近付きながら、カツラをまだかぶっているという事は円形ハゲがまだ治っていないのねと、シアは一番にその事が気遣われた。ああいうものは精神的なものだから、治るのに時間もかかるのだろう。
さて、シアがそんな心配をしているとは夢にも思わないセルティスは、大股で距離を縮めてふわりと微笑みかける。
「すごくきれいだ。シアを見つけてすぐに声をかけようとしたんだけど、他の男たちに次々とかっさらわれて、ようやく摑まえる事ができた」
シアは我知らず頬が熱くなり、仮面をしていて良かったと心からそう思った。
「踊り続けて喉が渇いたんです。今、飲み物を取りに行こうかと」
「じゃあ、バルコニーの方に出よう。ゆっくり話もしたいし。構わない?」
シアは嬉しそうに頷いた。
勿論シアに異存があろう筈がなかった。
バルコニーに出る前、セルティスは給仕に飲み物を二つ頼み、夕闇が濃くなっていくバルコニー席に二人で腰かけた。
音楽は微かに聞こえるが、会場の喧騒は遠く、吹き渡る風が火照った頬に心地よい。
「そう言えば、レイにお礼を申し上げたい事が……」
そう口を開いたシアに、「何かあったっけ?」とセルティスは不思議そうに首を傾げた。
「乾パンのお礼の伝言ですわ。
あの伝言のお陰で我が家は救われたんです。ブロウ卿という方が我が家に声をかけて下さり、新しい寄り親にもなって下さって、本当によくして頂いていますわ」
「気にしないでと言いたいところだけど、私は何もしていない。ケインがすべてやってくれたんだ」
「同じ事ですわ。お二人がわたくしを助けて下さったんです。
ケインにもお礼を伝えていただけますでしょうか?」
セルティスは「わかった」と頷き、それを見たシアはもう一つ伝えておくべき事を思い出した。
「レイ。ご存知かもしれませんが、わたくし婚約解消されたんです。九つの時から十年間婚約していたのに、他にもっといい縁が見つかったからってあっけなく捨てられましたの」
「……その男にシアはもったいない。婚約解消となって良かったと私は思っているよ」
静かにそう落とされた言葉に、シアは小さく笑った。
「わたくしの二番目の兄と同じ事を言われるのですね。
レイ、聞いて下さる? 兄ったら、わたくしがショックを受けて部屋に閉じこもっていたというのに、翌朝、顔を合わせたら、いきなり『おめでとう!』って言ったんですのよ」
「婚約解消、おめでとうって?」
セルティスは小さく吹き出した。
「なかなか豪快な兄上だね」
「それを聞いて何だか心が軽くなりました。
傍目から見ると、わたくしは浮気された挙句に捨てられた惨めな貴族令嬢なのでしょうけど、周囲の目よりも大切なのはわたくし自身の気持ちですものね」
「もう大丈夫? 気持ちの整理はついたの?」
セルティスが柔らかく問いかければ、
「ええ。縁が切れて良かったんだって、最近は心からそう思えるようになりました。
頑張っていい家庭を作ろうと思っていましたけど、きっとわたくしの努力だけでは無理だったと思うんです」
そんな風に和やかな会話を続けている二人だが、実はすぐ脇の茂みの中には、大きな体を縮こませてそれを盗み聞きしている怪しい三人組がいた。
皇弟殿下のご親友と殿下の護衛騎士二名である。
いや、ケインだって何も好きでこんな事をしている訳ではなかった。
第一、この舞踏会の招待状を融通したのは自分だと言うのに、その功労者が何でこんな変質者まがいの事をしなければならないのだろうと、現在進行形で頭を捻っているところだ。
だが、事の経緯を知らせるようにと皇后から頼まれていたし、護衛は護衛で殿下から目を離すなと上から命じられているようで、それで仕方なくこんもりとした茂みの陰に身を潜めていた。
まあ、一人じゃないっていいよねとケインは心に呟く。
やるせない顔をしてカエル座り(踵を地面につけたまま、地面に尻はつけずにしゃがんでいる)している屈強な護衛二人を見ると、何故か心が軽くなってくるから不思議なものだ。
さて、カエル座りの三人組には気付かぬまま、セルティスとシアは二人だけ(五人?)の会話を楽しんでいた。
「シアを初めて見た時、茶トラだと思ったんだ」
「茶トラ?」
「私が小さい頃に飼っていた茶トラ猫。シアの髪と同じような毛色をしていて、目がおっきくてものすごく可愛くて、大切で堪らなかった私の友達」
まあ厳密に言えば、一番最初はタヌキと思ったのだが、流石にそれは言ってはいけない言葉だとセルティスにもわかっていた。
兄に似てちょっと無神経なところがあるセルティスだが、この程度は心得ているのだ。
「私が愛人の子どもだという事は前に話したと思うけど、私は母のために用意された館で十二までずっと隠れ暮らしていたんだ」
「隠れ暮らす?」
「うん。下手に目立てば父の正妻に殺されるから。
母も姉も私を守ろうとしてそうしてくれていたんだけど、生まれてからずっと閉じ込められていたらもう嫌になってね。
ある時、外に出たい、外の世界が見たいって泣き喚いて駄々をこねて、最後にはご飯食べるのも拒否して部屋に閉じこもった」
シアは呆然とその言葉を聞くしかなかった。
何て惨い事を……。シアが最初に思ったのはそれだった。
館に何年も閉じ込められて外に出るなと言われたら、誰だって嫌になる。ひと月、ふた月でも重苦しい気分になると言うのに、十二までそんな生活を送っていただなんて、レイはどれほど苦しかっただろうか。
「そんな時、姉が街で拾ってきたのがその茶トラ猫だったんだ。ようやく目が開いたばかりの小っちゃな子猫で、私はすぐその子に夢中になった。
ご飯を食べるのも遊ぶのも寝るのもずっと一緒だった。茶トラがいたから、世界から隔絶されたような孤独にいても、そんなに寂しさを感じなかったのだと思う」
目元に滲んだ涙を、シアはさりげなく指の先で払った。
「その茶トラにわたくしが似ていたと?」
「似てた。何かこう、傍にいると寛げるというか、ずっと傍から手放したくない感じ」
「え」
「以前サロンで、シアが『自分には婚約者がいる』って告げてきた時、何だか心がずうんと沈み込む気がしたんだ。婚約者がいる女性なら親しくなる訳にはいかないなって思ったし、ちゃんとその時に気持ちは封印する事にした。
でも数年ぶりに再会したシアはあの時よりも更にきれいになっていて、しかも未だに婚約者は態度をはっきりさせていないと言う。
だから、シアの周辺を調べさせた。ケインに頼んでブロウ卿を紹介させたのは、そういう経緯があったからだ」
シアは目を大きく見開いた。
「勝手にこんな事をして、いい気はしないだろうとわかっている。シアがこんな私を受け入れられないと言うなら、二度とシアに付き纏う事はしない。この先会う事はないし、お互いにそれぞれの人生を歩んでいくだけだ。
……だからと言ってブロウ卿がシアの家の寄り親を降りるという心配はしないで。
あの婚約の決着をきちんとつければシアの名誉は回復するし、この先いくらでも、望む縁談はシアの許に訪れるだろう。
シア。私はシアを望んでいる。
私は愛人の子どもで、この先の生活については不確定のところも多い。
だけど、何があっても君と君の子どもは養っていくし、生活に不自由をさせないと約束する」
そしてセルティスは言葉を切り、真っ直ぐにシアの目を見た。
「シア、愛している。どうか私の妻になってくれないか」




