皇弟は茶トラの窮状を知る
結果から言えば、三大騎士団の団長と幹部連中を集めた乾パン試食会は異様な盛り上がりを見せた。
そもそもが、売り物にならないと判断されてはじかれた訳あり商品で、本来ならば人様の前に出せるような品ではなかったのだが、その乾パンは分不相応なほど高価な大皿に丁寧に盛り付けられ、選び抜かれた十六人の男たちの前に運ばれた。
「ここにあるのは四種類の乾パンだ。
標準的な乾パンと、砂糖の代わりに黒糖を使ったもの、塩気を少し多めに作られたものと、ゴマを入れたものだ。ゴマと黒糖のは見てわかるだろう。まあ、適当に食べてくれ」
一通りの説明を皇弟殿下にされた後、まずは三大騎士団の団長らが大皿に手を伸ばす。
何で乾パンごときのために呼び出されないとならないんだと、仏頂面で適当な乾パンを口に放り込んだ団長たちであったが、咀嚼するや否や、味わった事のないさっくりとした歯ごたえと口中に広がる美味しさに心を奪われ、「これは何だ……!」と感動に身を震わせていた。
「何と!菓子にこれほどゴマが合うとは……!」
「これは塩気のきいたやつだな。だが、塩っぽさの後に強い甘みがぐんと口に広がって、これはうまい!」
「こちらは黒糖入りか。独特の苦みはあるが、それがまたいい」
口々に絶賛する団長らを見て、幹部らが次々に好みの乾パンに手を伸ばした。
いずれも乾パンを口に放り込むなり、「これで保存食か!」と感嘆の声を上げ、呆然と互いを見合っている。
あのクソまずい軍食に心底辟易としながら、騎士たる者、食事ごときに文句をつけてはならぬと自分をきつく戒めていたのが馬鹿みたいである。
世の中には、こんなに美味しい乾パンが存在したのだ。
すでに辺境のマルセイ騎士団ではこれが行軍食の定番になっていると聞き、幹部連中は羨ましさに身悶えた。中には、おのれマルセイめ……と筋違いの怨みを口にする者すら出てくる始末だ。
試食会の後の話し合いでは、全員一致でこの乾パンを三大騎士団の行軍食とする事が採決され、すぐにマルセイ騎士団に皇家の文官が派遣される事となった。
どうやらラヴィエ家という貴族が納品しているようだが、いきなり見知らぬ貴族と交渉するよりは、まずはマルセイ騎士団から詳しい事情を聞いた方がいい。
という事で文官が赴く事になったマルセイ騎士団だが、その騎士団は皇都の北西に位置し、馬で五、六日かかる不便なところにあった。
ついでに標高も高い。
ジャコモ山脈を背後に控え、ガランティアとの国境沿いにいくつか点在する軍事拠点の一つだが、その中でもマルセイは特に田舎色が強い事で有名だった。
山を下ったところに一応町らしきものがあるのだが、非常に控えめで、騎士たちの浪漫である歓楽街も田舎仕様。
まあ、それはどうでもいいのだが、そんな辺鄙な場所にある騎士団にいきなり皇都からの使者が訪れたものだから、団員たちは一様に戸惑いを隠せなかった。
こんな田舎に何の用? という気分である。
で、聞かれたのが軍の携帯食だった。
文官を迎え入れた髭もじゃの団長は、ああ、なるほどな……と得心し、「あれは画期的な携帯食ですなあ」と相好を崩して事の経緯を説明してくれた。
要約すれば、どうやらこの騎士団にあの乾パンを持ち込んだのは、この騎士団の第二大隊に所属するルース・ラヴィエという騎士らしい。
ラヴィエ家が例の乾パンの販売先を探していた時に、ちょうど領地に帰省したルースがその乾パンをつまみ食いして味にほれ込み、軍の携帯食に使えないかと団長にかけあってきたのが始まりのようだった。
親切な団長は、ルース・ラヴィエの直属の上司である小隊長をすぐに呼び出してくれ、文官はこの小隊長からラヴィエ家について詳しく聞く事となった。
小隊長曰く、ラヴィエ家はセルシオ地方の田園地帯にそこそこの所領を持つ下級貴族である。
領地で採れるものと言えば小麦くらいしかなく、二世代前までは貧乏な田舎貴族の典型のような家であったのだが、前当主の代から小麦の品種改良に取り組み始め、更には改良した小麦を使ったパンや菓子の開発にも手を伸ばして、これが大当たりした。
増えた財で土地も増やし、今ではセルシオ地方でも有数の裕福な貴族へとのし上がったというから大したものである。
領地が豊かになり、ラヴィエ卿が力を入れ始めたのが、領内に暮らす民たちの生活向上だった。
小麦を挽くための風車の増設や、氾濫をよく起こす川の堤防作りなど領内の整備に金を惜しまず、また数年前からは不作時の備えについて真剣に考え始めた。
収益が右肩上がりとはいえ、農業はどうしても自然に左右されるものである。
小麦の貯蔵方法について、どのように保存すれば害虫もつきにくく品質も落ちないかと検証していくいくうちに、長期保存のきく菓子についても考えるようになり、そうしてできあがったのがこの乾パンだった。
因みにこの乾パンのレシピを編み出したのはラヴィエ卿の娘であるらしい。
ラヴィエ家には子どもが三人いて、上二人が男で、一番下が女の子だそうである。初めての女の子であったため、家族皆でこの娘を溺愛しているようだと余計な情報まで小隊長に教えられ、文官は幾分うんざりとしながらその情報を紙に記して帰っていった。
という事で、国を挙げた大きなうねりの中に呑み込まれそうになっているラヴィエ家であったが、今のところ、彼らの周辺は大層静かである。
父親と嫡男は今日も元気に領地の見回りへと出かけていき、奥方と末の娘は庭で摘んだハーブや街で手に入れた香料などを手に、菓子作りの研究に余念がない。
やがてアンシェーゼの軍全体にその名を轟かせる事になる『ラヴィエの乾パン』が世に出てくるまであと僅か。
ラヴィエ家は束の間の平穏に浸っていた。
さて、持ち帰られた幾多の情報は速やかに皇帝の許に上げられ、その皇帝の命を受けた側近のグルークは、ラヴィエ家の乾パンを三大騎士団の軍食とすべく本格的にその調整に動き始めた。
三大騎士団の乾パンをすべて『ラヴィエの乾パン』で賄うとすれば、大量の乾パンを受注しなければならないが、すでにマルセイの受注も受けているラヴィエ家が、三大騎士団の分まですべて生産していく事は、規模からして不可能である。
問題は主に二つで、乾パン用に品種改良された小麦粉の生産と、大量の乾パンを焼き上げる製造工程だった。
ラヴィエ家で賄いきれないなら他所で作ってもらわなければならないが、小麦の品種改良にしても乾パンの製造にしても、開発には多くの手間と金がかかっている。
何の見返りもなしに技術だけを巻き上げては、ラヴィエ家は堪ったものではないだろう。
と言う訳で、ラヴィエ家が納得できるだけの金銭的補償について素案を固めておく必要があった。
そしてもし、三大騎士団全ての乾パンをラヴィエの乾パンに変える事ができたならば、いずれすべての軍にこの乾パンをいきわたらせたいとグルークは考えていた。
殿下が言われたように、騎士の胃袋を満たす事は軍の士気にも繋がる。いずれ起こりうる戦を想定して、早急に改善していくべきだろう。
と、そんな風にグルークが必死になって乾パンの導入に取り組んでいた頃、その乾パンを紹介した当のセルティスと言えば別の事に心を囚われていた。
六年ぶりに再会したシアの事である。
九つの時からの婚約が未だに履行されていないというのは余りにも不自然な話で、セルティスはこのままシアを放っておけないと考えていた。
何故これほどにシアが蔑ろにされなければならないのか、一連の経緯を調べるようセルティスはケインに頼み、そしてそのケインはすぐに動いた。
元々カルセウス家はその潤沢な財力で幅広い人脈網をアンシェーゼ内に巡らせている。
継嗣であるケインはそうした人脈を受け継いでおり、シアの家名とマルセイ騎士団との関連までわかっていれば、その先を調べていく事は比較的簡単だった。
ケインは、シアがセルシオ地方の下級貴族の娘である事を瞬く間に突き止め、更には、その地方に領地を持つ貴族に頼んで、シアの縁談についての事情を詳しく集めさせた。
そうしてもたらされた内容はケインにとっても耳を疑うようなもので、少々の事では動じないケインも、あり得ないだろうと思わず眉間に深い皺を刻んだ。
まず、ケインらがシアと呼ぶ女性だが、正式な名前はオルテンシア・ベル・ラヴィエと言い、再会する少し前に十九の誕生日を迎えていた。
家族は両親と兄が二人で、長兄は父とともに領地経営にあたっており、次兄はマルセイ騎士団所属である。
寄り親はセルシオ地方でそこそこの家格を持つカリアリ家という貴族だったが、要はこの寄り親に問題があった。
カリアリ家は上昇志向が強く、高位の貴族には媚びへつらい、下位の貴族には力で面倒ごとを押し付けるという、非常に困ったタイプの寄り親であったのだ。
オルテンシアと婚約を結んでいたのは、ケインも名前だけは聞いた事のあるダキアーノ家である。
典型的な没落貴族で、現当主であるアントは三大騎士団に入学する金もなく、レントという小さな地方騎士団で騎士の受勲を受け、今もそこの騎士団に属していた。
皇都中心部にあった広大な邸宅は三代前に手放しており、今は皇都の外れにあった別邸を本宅代わりとしている。領地などもとっくに売り払っているため、館には最低限の使用人しかいない状態だ。
家を建て直すために財力のある家との結婚を望んでいたが、かなりの名門とはいえ、首まで借金に浸かっているような家と縁を繋ぎたがる貴族などそうそういるものではない。
困り切った先代の当主は、セルシオ地方の寄り親をしていたカリアリ卿に縁組の仲介を求め、そうしてカリアリ家が目をつけたのが、一代前から急激に資産を増やしていたラヴィエ家だった。
本当ならばカリアリ卿自身が、名門ダキアーノ家と縁を繋ぎたがったようだが、借財の額が多すぎてカリアリ家では支えきれない。
だから妬ましさ半分で、この話をラヴィエ家に振ってやったようだが、いきなり末娘に縁談を持ち込まれたラヴィエ家の方は当然ながら困惑した。
金目当ての家に娘を嫁がせたくないと相当渋ったようだが、結局、寄り親からの圧力に逆らえず、泣く泣くこの縁談を受け入れたとの事だった。
ただ、そうやって自分都合で無理やり結ばせた縁であるにも関わらず、当のアント・ダキアーノはその事を感謝するどころか、金しか取り柄のない田舎娘だとオルテンシアを馬鹿にしきっていた。
高貴な血を引く自分が金のせいで卑しい女と結婚しなければならないと散々友人らに愚痴っており、オルテンシアがまだ幼く、結婚できないのをいい事に、もう少し自分に釣り合う家柄で金が出せる者はいないかとずっと探していたようだ。
ちょうどオルテンシアが十五になろうとする頃に、アントの父親のダキアーノ卿が亡くなったのも、アントにとって都合が良かった。
喪に服するために具体的な結婚話は立ち消えとなり、ようやく喪が明けた後も、アントはのらりくらりと結婚の日取りを決める事を避け続けた。
オルテンシアは適齢期をすでに迎えており、ラヴィエ家の方は当然寄り親に苦情を申し立てたが、カリアリ家は何ら動こうとせず、結局、具体的な結婚の日取りが決まらぬまま今に至っている。
そこまででも不快を覚える話だが、その話には更に続きがあった。
ここ最近、カリアリ卿の妹婿にあたるレオン卿が急激に財を蓄え始め、それを知ったアント・ダキアーノがレオン家の長女リリアーナに近付き始めたというのだ。
リリアーナは、伯父の寄り子であるラヴィエ卿の娘がアント・ダキアーノの婚約者であると勿論知っていたが、家格の低い家など踏み躙っても構わないという考えの持ち主であったらしい。
アントの血筋の良さを知るリリアーナは口説かれてすっかり舞い上がり、親の方も悪くない縁だと判断して、積極的にダキアーノ家と関わりを持とうとし始めた。
上級貴族が立場の弱い貴族を踏みつけにする事は往々にある話である。
だからこそ下級貴族らは寄り親の庇護下に身を置き、相応の付け届けも寄り親に行っているのだ。
だがカリアリ家は、寄り子であるラヴィエ家を守ってやる気など毛頭ないようだった。
ここ二か月ほど前から、アントは婚約者を伴って参加するような夜会にもリリアーナを同伴するようになっていたが、カリアリ卿はこれに対し一切の抗議をしていない。
それどころか、先日行われたリリアーナの誕生会では、アントにエスコートされているリリアーナににこやかに話しかけ、祝福の言葉を掛けてやっていたと聞く。
格下のラヴィエ家は寄り親から完全に見捨てられた形で、オルテンシアは時を置かずに婚約を解消されるだろうというのが大方の見方だった。
このような形で捨てられれば、シアがどれだけ惨めな境遇に置かれるか想像に難くない。
という事で、全ての報告を受け取ったケインは、その事実をそのままセルティスに教えてやった。
話を聞いたセルティスは珍しく顔色を変え、「……へえ」と低い声を落とした。
セルティスにとってシアは、初めて出掛けたお忍びで楽しい時を共有し、その後もずっと忘れられなかったかけがえのない女性である。
その女性をここまで虚仮にされて、黙っていられる筈がなかった。
「自分が何をしでかしたか、ここは徹底的に思い知らせてやるところだよな」
そっと瞳を伏せ、おきれいな顔にふわりとした笑みを浮かべたセルティスを見て、アント・ダキアーノの人生は終わったな……と、ケインはあっさりと心の中で呟いた。




