ケインは遊学する
という事で、その二か月後には早々とガランティアの地に降り立ったケインである。
卒業後は、嫡男の成人を祝う祝賀会が皇都の本邸と領地の邸宅(ほぼ城)とで行われ、ほぼ毎日のようにあちこちの社交の場に顔を出して、まるで暴風の直中に投げ込まれた気分で日々を過ごし、気付けば遊学が始まっていた。
アンシェーゼを発つ二日前にセルティスとは酒を飲み交わしたが、セルティスの方もケイン以上に忙しい毎日を送っているようで、「私の自由はどっちだ!」と訳のわからない事を叫んでいた。
そうして始まった遊学ではあったが、元々社交的で順応性の高いケインであれば、すぐに新しい生活にも馴染み、他国での社交を楽しむようになった。
遊学の様子を時々セルティスに手紙で書き送り、向こうからも思い出したように文が届くが、セルティスもそこそこ楽しく日々過ごしているようだ。
姉上大好きなところは一向におさまる気配を見せず(おそらく一生治らないであろう)、今はその対象が甥っ子まで広がっている感じである。
まるで育児日記のようにその成長ぶりを書いてきて、なかなかに微笑ましい。
そのうちアヴェア皇女もお生まれになり、初めての姪っ子の誕生にセルティスはもう大喜びである。
『アヴェアは生まれた時から髪がふさふさしていた』と手紙に書き送ってきて、そう言えばレティアス皇太子のつつましやかな髪の毛はあの後どうなったのだろうと、ケインにはそっちの方が気になった。
まあ、男の価値は毛髪量で決まる訳ではない。薄くても雄々しく育って下さいと遠い国からエールを送っていたが、後で聞くと要らぬ心配だったようである。
さて、アヴェア皇女がちょうど腹ばいでの匍匐前進を覚え始めたと思われる頃、ケインはペルジェで面妖なうわさ話を受け取った。何とアンシェーゼの宮廷で『姉上至上主義』という新語が流行り始めたというのである。
初めてそれを耳にした時、どこかで聞いた言葉だなとケインは首を傾げ、次の瞬間、それを流行らせた犯人の名前に思い当たって、思わず噎せ込みそうになった。
姉上至上主義を〝心躍る”と評した、どこぞの皇族で間違いない。
何故今頃になって流行らせるかなとケインは不思議に思ったが、その少し前、本国では前代未聞の事件が起こっていた。
当時、若く美しい皇弟殿下の周囲はその目に留まろうと大勢の令嬢たちがひしめいていたが、そんな中、ある大臣に結婚についてほのめかされた皇弟殿下は、皆が聞き耳を立てているのを確認した上でにこやかにこう言い放ったらしい。
『自分の妃となるからには、皇后陛下と並んで見劣りがしない程度には顔の造作が整っていないとみじめですよね』
その瞬間、場は咳一つ聞こえないほどに静まり返ったという。
縁談はばたばたと取り下げられ、麗しき皇弟殿下の評価は駄々下がりに落ちていくと思われたが、意外とそんな事はなかった。
ある集団から熱烈な賛同と支持を得たからである。
それが、世に言う『皇后陛下を称える会』の会員たちであり、その辺りから『姉上至上主義』という新語が爆発的に広まっていったと言われている。
会員メンバーであるケインが支部会を通して確認したから間違いない。
それにしてもここまで性癖を大っぴらにしたら後々妃選びに困らないかなと、ケインはさすがに心配したが、ちょうどタイミング良く、その強烈な姉上至上主義者と直に話す機会がやってきた。
他国訪問の許可をセルティスがついに兄皇帝からもぎ取って、ケインがちょうど滞在していたペルジェ国にやって来る事になったのである。
このペルジェ国、アンシェーゼの西方に位置し、かつては好戦的な三国の一つとしてアンシェーゼから警戒されていたが、七年前、国王が代替わりしてからは少しずつ国の方針を転換し、現在は非常に友好的な国となっている。
セルティスはアンシェーゼの西を守る騎士団を視察した後、その流れでこのペルジェに来た訳だが、アンシェーゼの皇族がペルジェを訪れた事は未だかつてなく、この訪問はペルジェの臣民の熱狂的な歓迎をもって受け入れられた。
皇弟殿下の歓迎行事が立て続けに行われ、セルティスにとっては初めての他国訪問で気が張る事も多かったと思われるが、そうしたプレッシャーを微塵も見せる事なく、セルティスは終始、皇族の見本のような優雅な立ち居振る舞いで周囲を圧倒した。
ケインはと言うと、その様子を呆れ半分に感心しながら眺めていた。
以前に比べ、セルティスの猫のかぶり方が格段に進歩している。
中身は結構がさつで、かつ相当過激な性格をしているのだが、それを片鱗も感じさせないのは称賛に値した。これはもしかして、皇后陛下の教育の賜物だろうか。(ただしセルティスは、皇族として不要な知識も皇后からいろいろと仕入れている)
非常に美しい外見もしているので、女性陣の間で人気はうなぎ上りで、行く先々できゃーっと言う悲鳴が沸き起こり、セルティスはトイレにも行きづらいと密かにぼやいていた。
モテ男はモテ男なりの贅沢な悩みがあるようである。
という事で大人気の皇弟殿下はあちこちから舞い込む社交に追われ、ようやくケインと二人の時間がとれたのは帰国前夜の事だった。
「ものすごい人気ですね。殿下の行くところ、女性陣が群がっているじゃないですか」
軽く杯を上げて乾杯し、からかうようにそう言えば、セルティスは幾分うんざりと顔を顰めた。
「今は結婚に全く興味がないと馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返しているんだけど、やたらまとわりついて来るんだ。
姉上至上主義全開で追い払おうとしているんだけど、実際の姉上を知らないからアンシェーゼほど効果がないし」
どうやら畏れ多くも皇后陛下を虫よけに使っておられるらしい。
「こっちはアンシェーゼの名前を背負っているから、あんまり素っ気なくもできなくてさ。だから愛想良くしているだけなのに、そこら辺りのさじ加減が難しいなあ」
そうぼやくセルティスに、ケインは苦笑した。
「でもまあ、ペルジェの王家には適齢期の王女が残っていなくて良かったじゃないですか。
この上、王家にまででしゃばってこられたら厄介ですからね」
アレク陛下の皇后候補だった第一王女を始めとした四人の王女はすでに嫁したか、婚約者がいる状態で、結婚を押し付けられる心配がない。
「まあな。グルーク・モルガン卿もそれを心配していた。
アンシェーゼと縁戚になりたがっている国は多いから、未婚王女がいる国にはあまり行かせたくないって。
他国では本国ほど守りを固められないから、何をされるかわからないとも言ってたけど。
……何をされるんだろ。何だか気にならないか?」
やや声を潜めてそう聞かれ、ケインは大きく頷いた。
「そうまで言われると、確かに気になりますね」
何となく色事の匂いがして、非常に興味深い。というか、妄想が止まらなくなる。
「それはともかく、妃選びに関しては慎重にしなければいけないだろうな。
兄上にはまだ一人しか男児が生まれていないから、何かあれば皇弟に機会があると思うような馬鹿な奴らも大勢いるし」
「まあ、殿下の場合、野心のない女性というのが譲れない条件ですよね」
関わりがないところで勝手に野心を抱いて自滅するのは自由だが、妃となった女性やその実家に変な事をされると、セルティスの立場までが危うくなる。
セルティスの側近としてそれだけは許し難かった。
「で、条件はともかくとして、殿下個人の好みってどうなんですか。
理想の女性像くらいあるんでしょう?」
そう聞けば、「アンシェーゼの皇弟じゃなくて、私個人を見てくれる子がいい」と、セルティスは即答した。
「私が今の地位や恩恵をすべてなくしても共に生きたいって言ってくれる子がいたら最高なんだけどな。
でも実際問題そういう現実が訪れたら、それはそれで悲惨な気がする」
ため息をつくセルティスに、「殿下、生活能力がなさそうですもんね」と、ケインも同意した。
「それ、以前姉上にも言われたなぁ。
引きこもりをしてた時、市井に逃げて一緒に暮らしたいって言ってみたら、お前は甲斐性がないから駄目だってさ」
「……」
「でもまあ、皇弟以外の生き方もできないくせに、相手には地位に囚われずに私自身を見て欲しいなんて、青くさい考えだと自分でもわかってるんだ。
だから取り敢えず、話していて楽しい子がいい。
明るくて前向きで、私の知らない世界をたくさん知っている子が理想的かな」
「なるほど」
セルティスはプライドばかり高くて他者を見下すような女性は嫌いだし、守られているのが当然といった受け身の女性では皇弟妃は務まらないと思っている。
容姿についてはどうなんだろうと思ったが、皇后陛下と比べて見劣りがしない程度の顔がいいなどと言われたら迷惑なので、その件には触れない事にした。
「ま、好みはどうしてもあるけどさ。皇族の結婚なんて一種の義務だから、あれこれ文句を言うつもりはないんだ。
今は結婚なんて考えられないからすべて断っているけど、陛下の命であれば従う覚悟はついている」
「……こればっかりはどうしようもありませんからね」
有事となれば、政略のための結婚から皇族が逃れる事は難しい。
現皇帝は最終的に望む女性を皇后に迎え入れたが、あれは例外的なものだ。寸暇を惜しんで国のために働き、有能な側近や臣下にも恵まれ、ようやく掴んだ幸運のようなものである。
「でもまあ、好きな女性ができたら、まずは皇后陛下にご相談なさったらいいんじゃないですか?」
だからケインは取り敢えずそう言っておいた。
「大恋愛の末にご結婚された皇后陛下なら、きっとお力になって下さると思いますよ」
「姉上に相談……?」
そう呟いたセルティスが、何か重大な事を思い出したように、かっと大きく目を開いた。
「結婚相手は絶対に、『皇后を称える会』の会員だ!
根底の部分でわかりあえないと、結婚生活はうまくいかないからな!」
……ある意味、ぶれないセルティスだった。
その後、セルティスの訪問国とケインの遊学先がかぶる事はなく、しばらく便りを送り合うだけ日々が続いた。
ケインがようやくアンシェーゼの地を踏んだのは国を出てから凡そ二年後のことで、その間にアンシェーゼの皇室は随分と変わっていた。
蟄居させられていたロマリス皇弟殿下が身分を取り戻され、シーズ国に嫁がれていたセディア皇妹殿下が結婚無効となってアンシェーゼに戻られていた。
皇帝夫妻には第二皇女フィオラディーテ様が誕生し、祝賀ムードが国全体に広がる中、帰国されていたセディア殿下が皇帝陛下の側近であるラダス卿に降嫁された。
めでたい事が目白押しである。
久しぶりに会ったセルティスに、「皇室も随分変わりましたね」と感慨深く呟けば、「いつの間にか大所帯になってさ。水晶宮に顔を出したら、もう大変」とセルティスは肩を竦めた。
「マイラとロマリスとレティアスとアヴェアが順々に私に飛び掛かって来るんだ。フィオラディーテはまだ小っちゃいから檻の中で大人しくしてるけど」
「檻?」
「赤子用の寝台だ。落ちないように柵があるんだけど、何だか檻に入れられた囚人みたいで」
ひどい言い様である。
「そう言えば、ちょっと先の話になるけど、うちで家族会を開く事になった」
「……家族会って何ですか?」
聞いた事もない言葉に、ケインは首を捻った。
「セクルトに嫁いだ姉二人を皇宮に呼び戻して、家族間の親睦を深めるんだってさ。
多分、姉たちは夫連れで来るだろうし、子どもも連れて来るようになると思う。こっちからは皇帝夫妻にその子ども、後はセディア姉上とラダス卿、私とマイラとロマリスかな。
ただ、セクルトからだと結構長旅になるし、夏場の暑い時期は移動も大変だから、九月か十月あたりになるんじゃないかと姉上は言っていた」
その話を聞きながら、この突拍子もない家族会を考えつかれたのはおそらく皇后陛下だなとケインは思った。
アンシェーゼの皇室は血で血を洗うような殺伐とした家系だったから、家族で交流を深めるという発想自体が皇家にはない。
「ご兄弟だけで八名、それにその配偶者とお子様が加わるとなると、かなりの大所帯ですね」
「八人のうち、二人は夫婦だけどな」とセルティスは笑い、「一体全部で何人になるんだろう」とぶつぶつと人数を数え始めた。
その日を心待ちにしているのが伝わってきて、ケインも何だか嬉しくなる。
あの皇后陛下が仕切られるのだ。きっとほのぼのとした明るい家族会になる事だろう。
「早く実現しないかな」
母と姉以外の家族を知らず、宮殿に閉じ込められて寂しく育っていた皇弟殿下は、今は晴れやかな顔でその未来を心待ちにしていた。




