一品目
今日はヒロイン視点です。
「……はぁ」
時は一八時に迫ろうとする中、私こと蒲生ひたちは目の前の人が電車を降りた為、空いた席に腰を下ろしていた。帰宅ラッシュにもれなく入るこの時間帯に座れることはこの上ない幸運だ。ざっと思い出しても一か月以内では同様の記憶は無かった。
立ち仕事のせいか、座ったたとたんに意識していなかった疲れがどっと出て私の瞼は重力に白旗をこれでもかと振り出す。
眠い。起きようと僅かに思うが、それでもうたた寝に近い心地良さには抗えず私は……。
「俺、---先輩と付き合ってるんだ」
「だから、付き合えない。すまん」
高校の時、私には好きな人がいた。
同じ部活の一つ年上の先輩の木崎咲真さん。
私と同じ、長距離走の選手で坊主頭で、少し強面だけど優しい人だった。目が猫みたいな人だったのが印象に残っている。
部員が少なく、長距離は私と先輩しか居なかったので部活の間はほぼ二人で走り込んでいたものだ。
一年間以上、一緒に練習している間に、いつの間にか惹かれ好きなっていた。理由は良く分からない。一緒にいる時間が長かったせいか、はたまた年上のというものになんとなく惹かれたのかは未だに分からない。
でも、先輩には付き合っている彼女さんが居た。
更に先輩よりも一つ年上の人、浅倉唯さん。
ちっぽけで痩せっぽちな私と違って女の子らしい体型で優しそうな人だった。これが私に似ていたら、なんとか振り向いて貰おうと頑張ったのだろうが、私とはあまりに真逆だったので挑む気にもならなかった。
それどころか、違いすぎて惨めになるほどだった。
それとなくアピールすることも出来ず、でも練習ではいつも一緒だ。私の気持ちを伝えて、そしてそれを先輩が気にして距離を置かれれば、たった一つの繋がりすらも途絶えてしまう。
悶々とする気持ちを押し込めていつも通りに接していたが、いずれ先輩は部活を引退してしまう。
逸る気持ちとそれを抑える気持ちが綯い交ぜになる中、何も行動が出来ずに遂に最後の練習の日を迎えてしまう。
そして、駄目だと分かっていながら、告白したのだ。
無論、結果は予想通り、でも、それでも私の目からは止め処なく涙が次から次へと溢れていった。それほどまで、好きだったことが嬉しくて、そして叶わなかったが故に悲しかった。
「……嘘でしょ」
私は電気屋に寄るために降りた駅の入口で呟くと同時に足を止めてしまった。
後ろの人が真ん中で突っ立っている私を迷惑そうに避けるのを自覚しながら、私は眼の前を数秒前に横切っていった人物の後を追いかけた。
少々猫背で片掛けのバックを背負い、深い緑のコートに、黒いズボン。大きめのブーツ。
顔はやや目つきの悪い猫のような両目、悪くもなければ良くもない凡庸といって良い容姿、普通であれば眼に入ることも気にすることも無いだろう。
だが、私に対しては劇的だった。
それは、私が過去に告白し、振ってくれやがった先輩、木崎咲真さん本人だったのだから。
どきどきと早鐘が鳴るように心臓が煩い。一秒も経たずに次の鼓動を繰り返す。今の私はまさにブラック企業さながらに心臓に無理を強いているのだろう。
しかし、誰に言い訳しているわけでもないが許してほしい。
焦がれるというわけでもないが、通年一定の脳のリソースを割いている人物がいきなり目の前に現れて平静でいろというのが無理な話だ。
東京で働いているという噂は耳にしていた。いつの間にか連絡が取れなくなっていたので、本人には確認が取れなかったが、同級生で今も連絡を取り合っている男の同級生が先輩と連絡を取っているので確度の高い情報だ。……うぅなんで私とは連絡を取ってないんだろう。
まぁいい。ここで素っ気ない態度でも取ってくれれば、中途半端に残った未練もようやく断てるというものだ。
「すいません」
声を掛ける。
気づかない、まぁ想定の範囲だ。今度は服を引っ張ってみる。
「すいません」
先輩……だと思われる人物は足を止め、こちらへと視線を向けてくる。というか正面から見て、確信した。この人は間違い無く先輩だ。
「……なにか?」
胡乱げな目で先輩は私を見やってくる。一応、反応はしてくれたようだが、私が誰か分からないでいるようだ。まったくもって失礼な人である。
「分からないんですか?私ですよ私」
「……ん?ん?」
「……本気で言ってます?先輩?」
あまりに気付かない様子に自然と私の声が低くなる。せっかくの再会、少しでも良く見てもらおうと思ってはいるが、ダメだ。どんどんとムカついていく。殴りたい。
「あ、……蒲生か?……間違ってたらすまん」
「ぁ……」
「えっと、あれ?間違ったか?」
「……」
不機嫌だった私だが、先輩が気付いたことで、口角がふにゃふにゃに成ったかのように緩みだしてしまった。やばい、すごく嬉しい。
「正解です。お久しぶりですね。先輩……えっと木崎さんっ」
普段はあんまり意識していなかったが、どうやら私はまだ先輩の事が好きだったようだ。学生時代に告白され二人ほどと付き合ったが、まだ先輩に未練があったとは、自分の事ながら諦めが悪すぎだろう。
「お、おう。久しぶりだな。お前もこっちに来てたんだな」
「えぇ、大学を卒業して上京してきたんですよ。でもこんなところで木崎さんと会うなんて思わなかったです」
少しばかり大人っぽさを出そうと先輩をさん付けで呼んでみるが、違和感が凄まじい。気を抜くと先輩と呼んでしまいそうだ。
「……そうか」
ふむ、なんやら困惑した様子。このまま別れようかどうか、考えているって感じかな。まぁ振った相手だと先輩なら気にしそうだし、ここは私から誘おう。……断られたらどうしよう。でも、メアド位は交換したい!
「先輩はもうお帰りですか?」
「ん、いや、ちょっと飲んでから帰ろうと思ってな」
丁度いい、電気屋さんに行こうかと思ったけど、それは別日にしよう。
「なら、せっかく再会したんだし、ご一緒しても良いです?」
断られないことを祈りながら、そして内心が出ないように私は微笑みながらそう告げたのだった。
「えへへ」
スマホを眺めながら、私はスーツを着たままでベッドの上をゴロゴロと転がっていた。
「えへへ」
ダメだ。嬉しすぎて、それ以外の感情が出てこない。スーツに皴がつくからハンガーに掛けなきゃいけないのに、どうも行動に移せない。
「……うぅダメだ!酔いのせいにしよう」
『今日はありがとうございました。また、呑みましょう』
どうにも我慢できなくなった私は思いついた文章を迷いながらも送信してしまう。
意識していることをバレやしないか、重く思われたりしないか、ウザいと思われないか、ぐるぐると意識し、スマホを離せなくなってしまう。
スマホを離したくなくて、ニュースサイトを適当に流し見する。
しかし、先輩が浅倉さんと別れてたなんて、あんなに仲良さそうだったのに、遠距離恋愛って大変なんだな。
「あぁ……ちょっとでもチャンスって思っちゃうって……」
別れたって聞いて先輩の心底悲しそうな顔を見て今は誰とも付き合ってなさそうな感じを見て、私が一番最初にチャンスだと思ってしまった。あんなに悲しそうな顔をしている先輩を前にしてだ。
そりゃあ、人の感情、恋愛なんて綺麗なものだけじゃないのは、分かっている。人の前では性格とか言いつつも顔やスタイル、お金とかで付き合ったり結婚する人だっているだろう。
そんな風に悶々としているとピロリンと携帯が音を鳴らす。
「わっと、痛っ!」
寝そべってスマホをいじっていた私は慌ててしまい携帯を顔へ落としてしまう。地味に痛い。
「あ……」
先輩からだ。先ほどまでの鬱屈していた心は先輩からのメールで払拭され、にやにやと笑ってしまう。
うぅどんだけチョロいんだよ私は……。
『お疲れ様。最後は悪かったな。リクエストが有ったら早目に言ってくれ。なんなら細かくても良いぞ』
気にしなくてもいいのに。
「というか、まだ好きなんだろうな……」
喧嘩別れじゃなくて、物理的な距離とすれ違いで別れたんだから、悲しさは一塩だろう。先輩のことだろうから、東京で経験を積んで一人前になって帰ろうとか思ってたんだろう。
しかも、それを朝倉さんに伝えてない可能性も考えられる。
「うーん」
落ち込んだ隙にどうすれば良いかと思考が回転を始める中、私は頭をぶんぶんと振って思考を隅へと追いやった。
今は次の飲み会を楽しむことに集中しよう。
あまりに嬉しくて楽しくて猫を被るのをすっかり忘れて焼酎を思い切り呷ってしまったが、先輩がそれほど引いていなかったのは幸いだった。……幸いだった。
あざとく酔っちゃたぁ。なんて言うのはキャラが違いすぎてやる気もないが、焼酎を呷る女子が少数なのもまた事実。
「それもこれもいきなり再会ってのが悪いよ」
私は枕に顔を押し付けながら足をばたばたさせた。今日の服装は完全に仕事モードである。そりゃあ仕事帰りなんだから当たり前だけど、久しぶりの再会なのに、これは無い。
ひとしきり自己嫌悪に浸り、私はもそもそと体を起こした。いい加減、スーツを脱ごう。
「今日はお湯を張ろう」
普段はシャワーだが今日くらいは湯船に浸かってゆっくりとしよう。
「ほんとに、お久しぶりでしたね。先輩」
スマホの電話帳に新たに登録された名前を見て私の頬が再び緩む。あぁ今日は良く眠れそうだ。