三杯目
グオーンと冷蔵庫特有の音を聞きながら、俺は顔を顰めていた。
視線は左右に限らず縦横を走り、伸ばしかけた手は中途で止まるのを繰り返している。早くしなければいくら冬とはいえ、冷蔵庫の温度は上がってしまう。しかし、妥協するのもまた憚られる。
数度繰り広げられた逡巡のうち、俺は手は意を決して目的の物へと伸ばされた。
「ふぃー」
喉が潤い俺は満足な息を吐く。
先ほどの冷蔵庫の件は別に献立を考えていたわけではない。夜勤明けで飲む酒を吟味していただけだ。疲れた体にのどごし重視のビールか、はたまた疲れを無視してホップを効かせたIPAか、それとも軽めにホワイトビール、いやいや敢えてのシードルと散々悩んだ俺は、IPAを選んでいた。
IPAとはインディアンペールエールと呼称されるビールの一種である。名前の由来はインド人が好む味だからとか、イギリスからインドへとビールを輸送する際に腐らないようにとアルコールとホップを効かせたからだとか言われているが、定かではないらしい。
重要なのはアルコール度数が高く、ホップが効いているということである。日本のビールはピルスナーと呼ばれるビールが主であり、きついのが好きな俺には少々物足りない。
そんな中で俺が出会ったのがこのIPAである。日本ではメジャーではないが、昨今のクラフトビールブームで大手もIPAを売り出しており、昔よりは手に入りやすく俺も実に嬉しい限りだ。
ちなみに今、俺が飲んでいるのはクラフトビールが主力としている会社のものである。シンプルイズベスト、香りづけが無いホップとアルコールは殴りつけてくるように美味しい。
「ん?蒲生からか」
そんな宅呑みを楽しんでいるとスマホに蒲生からのメッセージが送られていた。
「シフトが出たのか……これだったらっと、っていうかあいつ空いている日多くね?」
メッセージには蒲生が空いてる日とレバーペースト食べたいです。という実にシンプルなものだった。
そして、月の半分以上が空いているという蒲生に俺は蒲生の交友関係を心配しだした。……流石に俺から彼氏うんぬんは聞けないよなぁ。あいつは気にしてないというが、こっちは気にするし、というか気が有ると取られるのも……あれだ。うん。
「で、私が友達が居ないんじゃないかって思ったんですか?」
「え、あぁ……まぁ」
飲み会当日、店へと向かう道すがら俺は蒲生に思わず友達が少ない説を聞いてしまっていた。蒲生はじろりと俺を見やると深くため息を吐いた。
「はぁ、普通に友達と出掛けたりしますよ。まったく、日曜日とか土曜日は半分以上埋まってましたよね」
そういえばと思い。俺は蒲生からのメッセージを確認すると確かにその通りで、平日の飲める日が多いようだった。
「確かに、でも平日で次の日とか大丈夫なのか?今日とかなんて水曜日だぞ」
「うーん。職場の飲みとかだったら後半は死にそうですけど、先輩の飲みってご飯が七割、酒三割みたいなとこ有るじゃないですか、だから大丈夫かなって思いまして」
蒲生が言うとおり、俺が幹事の飲み会は基本食事に重きを置く傾向にある。あくまでメインは食事であり、酒はそれに合うもの選ぶ傾向が強い。なので大体の飲み会は二時間程度で終わりしている。日付が変わるまで飲むと酒や食事の味なんて分かったもんじゃない。
「そうだな。長くても三時間で切り上げるし」
「それくらいが良いですよ。なんで仕事が始まる三時間前まで飲まなきゃならないんですか」
蒲生の言葉に俺は絶句した。別に飲んでる時間に驚いたわけじゃない。……いや驚いたが。そうじゃなくて、始業の三時間前まで飲み続けられるこいつのザルっぷりの方が遥かに驚いた。焼酎の件からもしかしてと思っていたが、蒲生は俺よりも酒に強いらしい。
「ほどほどにな」
「そうしたいんですけどねー。職場の先輩がザルなんで付き合うこっちが大変ですよ」
「そ、そうか。……お、そろそろ着くぞ」
いつもの駅から歩いて十分程のオフィス街の一角にその店は有る。居酒屋街から離れており街灯も心無しか少ない。ふらっと居酒屋を探す人では見つけづらいだろう。
「らっしゃーい。お、木崎くんで二名だね」
「いらっしゃいませー」
暖簾を潜ると四十代半ばの女性店長と、二十代の男性の従業員が声を掛けてくれる。名前を呼んでもらえることから分かるだろうが、何度か利用しているので、すっかり覚えられているのだ。
俺は軽く会釈するとカウンターではなく、二人用のテーブルを陣取った。
「ほら、服」
「あ、すいません」
俺はハンガーを手に取ると蒲生を促してコートを預かる。最初に飲んだ時に気付いたのだが、こいつの背だとハンガーまで手が届きにくい店が結構多いのだ。
「はい」
「うっす」
「どうも……、またですかぁ?」
店長からおしぼりを渡され手を拭くなり、俺はすぐに顔を拭くそして、蒲生は先日の様に呆れ顔を晒していた。
「とりあえず生とレバーのポン酢和えお願いします」
蒲生の冷たい視線を無視して俺はさっさと注文する。ここの店に関しては俺のおすすめをまずは食ってもらう。鳥皮餃子とかは何回か来てから頼めばいい。
「一人前で良い?」
「はい、あと刺し盛りお願いします」
「何円分?」
「んー二千円で」
店長は軽く会釈をすると注文票を片手に厨房へと入って行った。そして、入れ替わりでビールが運ばれてくる。
「お待たせしました」
白と黄色のコントラストが美しい。思わずごくりと喉がなる。いかんいかん、さっさと一口目を飲んでしまおう。
「先輩では」
「おう」
「「おつかれ~!」」
キンとガラス同士が当たる音が響き、二人の喉が同じ音を鳴らす。疲れを洗い流すような感覚は何度体験しても飽きない。なぜ、この一杯目がこれほど旨いのかは謎だ。
「ふぅ~」
「ふぅ、雰囲気有るお店ですね」
ここはカウンター以外は座席となっており、BGMは和楽器がゆったりと流れ、座布団や和紙の間接照明。店長は着物、従業員は甚平といかにも日本然とした店づくりとなっている。メニューこそレバーペーストやサムゲタンが有るがそこは鳥料理の括りなのだろう。
「そうだな。落ち着いた感じがいいだろ?」
蒲生は俺の言葉に頷きこそすれ、視線は合わせない。その視線は目の前に広げられたお品書きに釘付けにされていた。
「気になるもんでも有ったか?」
「えぇ、鳥もなんですけど、このトマト巻とかも逆に気になりますね」
それに目を付けるとはやるな。でも入荷してない可能性が高いんだよなぁ。大体二割ぐらいしかお目にかかったことはない。
「あと、結構珍しい焼酎が置いてます。こりゃ楽しみです」
流石だな。蒲生よ。どうしてそんなに焼酎が好きなのかはさっぱり分からん。
「黒だの赤だの色々あるよなぁ。詳しくないから分からんけど」
とある焼酎の銘柄を思い浮かべる。色の名を頭に関しているが別に色自体は多くの焼酎と同じ透明だ。大吟醸とかそういう的な感じか?
「そうですね。焼酎好きな人ならともかくあまり飲まない人には難しいかもです」
「飲まないこっちとしては、金と茜とかって亜種なの希少種なのって感じだよ」
瞬間、蒲生の顔が跳ね上がり、それまでメニューを見ていた三白眼が俺の顔を凝視していた。
「ど、どーした」
声が上ずったのは許してほしい。あまりの迫力に俺は若干ビビッていたのだ。目は爛々とかギンギンとかとにかく今にも血走りそうな程、見開かれている。
「え、先輩の飲んでる店に金と茜が置いてある店が有るんですか!?」
「お、おう」
「はい、レバーポン酢和えと刺し盛り!」
男性従業員が威勢良く皿を置いたことで話題がぶつりと切られる。ありがたい。こいつのあまりの剣幕に押され気味だった。
「うわぁ、言って下さいよ。そこも連れてって下さい!」
あ、話題変わってねぇわ。どんだけ焼酎好きなんだよお前は。
「焼酎好きなんだな」
「いかにも酒飲んでるって感じが良いですね。蒸留している分、雑味が少ないのが私的に好みです」
俺は雑味が好きだからってのもあって焼酎やテキーラは苦手なんだが、そういう嗜好も有るのか。少しずつ飲んでみようかな。こいつの飲みっぷりを見てると焼酎も楽しめたら肴の幅も広がりそうだ。
「それと、金は分類上はスピリッツに入ります。たしか芋と冬虫夏草を付け込んでいるはずです」
嬉々として焼酎談義を始める蒲生は内容こそあれだが、好きな趣味を一生懸命話す女性といった感じで和む……わけはなく。女の皮を被った焼酎大好きおっさんである。
「ふぅん。スピッリツって飲んだことねぇな。ほら、話してばっかいないで、レバーけえ」
「あ、忘れてました。って方言出てますよ。ふふ」
同郷と飲むと何年経ってもついつい方言が出てしまうのは地方出身者あるあるだろう。俺は熱を感じる頬を無視してレバーを口にした。
とろりとしたまるで濃厚なチーズの様な感触が広がり、レバー特有のコクのある味が舌を弄ぶ。そしてビールを呷った。
「「くああああ……ふぅ」」
狙ったかのように蒲生と俺は似たようなリアクションをして悶えていた。やはり、ここの鳥レバーは最高峰の一つだと俺は再確認した。
「うまっ!めっちゃ旨いっす!……おいしぃいい」
蒲生は余韻に入る間もなくすぐさま次のレバーを口に放り込んでいた。そして、残ったビールをあっという間に片付けてしまう。
「すいませーん。焼酎ロックでお願いします」
どうやら、早く焼酎と合わせたくてしょうがないらしい。大好物を前にした子供の様に見えなくもない。
「あぁすいません。美味しすぎて……」
「そこまでの反応をされると連れてきたかいが有る。それで、ほいこっちも試してみ」
俺は刺し盛りを指さしニヤリと笑う。そこには鮮やかに盛り付けられた鳥の刺身がいくつかの部位ごとに並べられていた。
「おぉ、美味しそう。……ん、でもこれってどこの部位とか分からないですねぇ」
牛や豚と異なり、鳥はそもそも体躯が小さい上に、焼き肉店でも細かな部位ごとに食べる機会は無い。本来なら店長や従業員が説明してくれるのだが、常連たる俺は別だ。
「俺が知ってるから、説明は省いてんだよ。えっと、白いのがささみ、テロっていたのがレバー、ちょっと白いのが入った赤みがハツ、でこっちがハツの漬け。でこれがモモだな」
「へぇ、よく分かりますね。あれ醤油は?」
来たな。ここの店の鳥刺しは醤油で喰うのではない。醤油の店ももちろん多いが、俺がここのお店を押す理由、それは……。
「ここは醤油じゃない。塩で刺しを食う店なんだ」
俺は一味などの小瓶が置かれたスペースの真ん中に鎮座する陶器を手に取り、鳥刺しの皿の脇にことりと置き、蓋を空ける。中には少々赤みを帯びた岩塩が満たされている。
「塩は初めてか?」
「はい、まぁそもそも鳥刺しもそんなに食べたことは無いですけど、塩っていうのは初めてですね」
「そうか、そうか」
ならば驚きも一塩だろう。俺は蒲生のリアクションを想像しついつい笑いを浮かべてしまう。
「先輩、気持ち悪い笑いですよ」
「うるせぇ、さっさと食べろ」
失礼な事を口にする蒲生に俺は皿を押しやる。蒲生は何を先に食べるか悩んでいたが、徐にその箸がとある肉を伸ばされる。蒲生が最初に選んだ部位は。
「うわぁ、これ餅みたいにもちもちしてます。ささみって生だとこんな感じなんですね」
ささみか、まぁ赤みよりは最初に手が伸びやすいだろう。そう思いながら俺もささみを口に運ぶが俺はここで塩とわさびを組み合わせる。まず表面に塗された塩が、そして肉の感触、遅れてわさびのつんとして刺激が俺の味覚を刺激する。そして蒲生が言ったように餅のような食感は噛めば噛むほど味を滲ませてくれる。
「ふぅ」
「先輩、わさびが合うなら合うって言って下さいよ」
余韻に浸る俺に蒲生はむくれていた。とは言っても最初は塩で素材の味を堪能するもまた食べ方であると教えてやる。わさびは良くも悪くも刺激が強すぎて他の味を殺しかねないのだ。
「俺的には合うけど、両方試してからでも遅くないだろ」
そう言いながら俺は他の肉にも手を出していく。ハツは心臓だけあり、歯ごたえが非常に強い。それに漬けも有るため、違いが楽しめておいしい。モモは普段食べ居る部位だけあって、普段との違いが楽しめて良い。……レバーは神だ。皿から箸で摘まむが、下の皿に水分が一滴も付いていない。鮮度が高く細胞が壊れていない証拠だ。
躊躇うことなくレバーを放り込む。新鮮故に口の中でもレバーは解けない。
「……美味しいっ」
ごくごくと喉を鳴らしビールと共にレバーが臓腑へと染み込んでいく。
「レバーペーストとなめろうお待ち」
俺と蒲生が舌鼓を打ちながら会話に華を咲かせていると、刺身が来たタイミングで頼んだ蒲生が待ちに待ったレバーペーストが届く。レバーペーストは小鉢にねっとりと盛られている。そして隣の皿にはクラッカーが乗せられている。
そして、ここで俺のとっておきが同時に運ばれる。
「グラスワインです」
すっとグラスワインがテーブルへと乗せられる。その色は醒めるような赤色である。
「え、先輩ワイン飲むんですか?」
「ふっ」
レバーペーストに視線を釘付けになっていた蒲生は俺の赤ワインを見て驚いていた。
俺はグラスを例のポーズで持つと軽く振って口をワインで湿らせる。
「ジュースをワイングラスで飲む中学生みたいですよ」
「うるせぇ」
「ふふ……」
くすくす笑う蒲生に俺はなんだか無性に悔しくなりレバーペーストをクラッカーを塗り付けて、噛みつくと見せかけてペーストだけを舐める。
美味い。この店は非常に新鮮なレバーしかペーストにしない為、臭みを消すためのハーブやにんにくは最小限にしている。それ故に香料でごまかされていないレバーの味を楽しめるのだ。
「蒲生、最初はクラッカーと食べるんじゃなくて、少しペーストを舐めてみな」
「分かりました。……っ」
「どーした」
「……こ、これです!」
ペーストを舐めてぶるぶると震えた蒲生はガバッと顔を上げると喜色満面といった感じで破顔していた。
「うわぁ、これですよ。私が探していたのは!都内でまさか出会えるなんて!」
蒲生は勢いそのままにレバーペーストとクラッカーをもぐもぐと食べてしまう。その嬉しさを隠しもしないリアクションに俺の口角は思わずにやけてしまった。
「う、な、何ですか?」
「いや、そんなに喜ばれるとこっちも嬉しいわ」
蒲生は俯きながらも次のクラッカーに手を伸ばす。俺に喜びっぷりを見られた恥ずかしさは有るようだが、それ以上にレバーペストが美味しいらしい。そこまで喜ばれると連れてきた甲斐が有るというものだ。
「ほい」
「?」
「試してみろ。結構イケるぞ」
半分近く飲んだ赤ワインに進める。蒲生は怪訝な表情を浮かべながらワインを受け取った。
「先輩が言うなら……」
レバーペーストを口にし、蒲生はグラスを口へと運んだ。そして、何故か俺をじーっと見つめてくる。
「間接キスですねぇ」
「黙れ」
「はぁ、……ん、って美味ぇ!」
高校生みたいなノリの蒲生を一蹴し、俺は顎で蒲生をしゃくると蒲生はワインを口へと含んだ。ごくっと蒲生の細い喉が鳴り、そして蒲生は騒ぎ出す。
キャラが崩壊してるぞ。別に良いが。
「ワインって渋みが苦手なんですけど、これ、ペーストと合いますね!クラッカーの塩味もまた良いです!」
「だろ、店長さんに一度合わせたらどう?って言われて試したらカッチリ合ってなぁ」
「ありがとうございます。これは良い組み合わせを知りました。ふ…ふふ」
「これがもみじですか……ゼラチンに近いです」
「運が良かった。無い時も多いんだよ」
煮込まれた鶏の足が皿に盛られているという目にはアレな光景だが、味は絶品だ。皮は独特の歯ごたえで中身はプルプルとしたゼラチンの感触が楽しい。敢えて言うなら牛すじに近い感触だ。
醤油と鳥のだしというシンプルな味付けだが、そんなシンプルな味付けに耐えられるのがもみじの魅力だろう。
「ん、くぅ―――っ美味い」
「ん―――――効くぅ!」
俺と蒲生がそれぞれのリアクションを取りながら次々に肴と酒を片付けていく。一人呑みも良いが、二人も色々な味を楽しめるのが良い。
そうやって俺と蒲生の鳥祭りは進んでいく。
「そう言えば、今度友達と呑みに行くんですけど、女の子だけで行きやすいお店って有ります?」
ふむ、と俺は酔っぱらった頭で幾つかの店を頭の中で吟味し始めた。
次に向かう店の候補が幾つか浮かべながら、俺は蒲生との次の飲み会について考えるのだった。