#3
「ふぅ…少しはさっぱりしたが、やっぱり湯船に浸かれる方がいいな」
薄暗い獣脂ランプで照らされた狭い部屋の中で仁は上半身だけ服を脱ぎ、濡らした布で体を拭いていた。室内の床に置かれた木製の小さなタライの中には温くなったお湯が残っている。
タライの他には、ベッド、小さいテーブルと椅子、荷物を入れるための木箱があるだけだ。小さめの窓は鎧戸が降ろされていて外は見えない。窓の反対側の壁にはドアがあり、簡単な閂が降ろされていた。
窓から冷たい隙間風が入り込み、仁はぶるっと体を震わせる。
「うぉっ、やっぱまだ寒いな…仕事の話し合いは明日って事になったし、とっとと寝ちまうか」
そう言いながらさっさとシュミーズを身につけていると、ドアがノックされる。
「お湯を下げにきたよ」
「今あけるよ」
仁は女中らしい女の声に応え、服を着ながらドアの方に歩いて行き小さな閂を抜いてドアを開けた。そこに居たのは40代くらいの年配の女中だ。
「んじゃ、ちょっと失礼するね」
「ああ、ランプも下げちゃってくれ。もう寝ちまうから」
「良いけど、今下げても料金の払い戻しとかはしないよ?」
問題無いと仁が答えると。納得した女中は火を消してタライと一緒に持ち帰った。ランプの火が消えた室内をは真っ暗で、鎧戸からわずかに漏れる月明かりがあるが、ほとんど何も見えない。
ふあぁと軽いあくびをした仁はブーツを脱ぎ、そのまま堅いベッドに入り木綿のシーツを被ると目を閉じて眠りに入る。暫くすると安定した呼吸音が聞こえ始めた。
・
うっすらと目を開ける仁。寝始めてからまだ1時間も経っていないが、ゆっくりと起き上がりドアの方を見る。それから音を立てないようにブーツを履いていると、廊下を歩くきしみ音が聞こえてきた。
足音は仁の部屋の前で止まる。そっと立ち上がり、仁はドアから見てベッドの影になる位置に移動してしゃがみ込む。
── コンッ
かすかにドアが1度ノックされる。
数拍の後。
── コンコンッ
今度は2回、強めにノックされた。盗人の類いではないと判断したのか、仁は音も立てずドアに近づき小声で質問する。
「誰だ?」
「夜分遅く申し訳御座いません。ステラ様の家の者。といえばご理解頂けますでしょうか?」
外からは成人した若い女のような声が聞こえる。
「ステラぁ?知らないなぁ、そんなやつ」
「本日、酒場で話をされていたではないですか」
とぼける仁に対して、見ていたぞと弁解を許さない返事が返される。
「……それで、何の用だ?」
「お仕事の依頼の件で、内密にご相談がありまして」
「ふぅん。そうか、分かった。ここは暗いから下で話そう。そっちのほうが此処よりはマシだろう。先に行っといて貰えるか?」
「分かりました。お待ちしてます」
女はそう言うと、階下へ続く階段のほうへ歩いて行き、気配が消えた。
「さて、足音はあっちの職業っぽくなかったが…」
仁はそんな事をいいながら、枕の下に置いてあったウェストポーチを腰に巻き、上着を着て革手袋もはめた。他にも部屋の荷物入れにカバンが入っていたが、仁はそれらに手を付けずに一階の酒場に向かった。
ほぼ暗闇の廊下を勘だけで歩き一階のホールに降りる。酒場はすでに閉じられて室内は静寂に包まれており、大きく開かれていた入り口も戸板が掛けられて室内は暗かった。そんな中、一つだけ窓の戸が上げられ、そこから差し込む黄色い月明かりに照らされながら、窓の外にある月を見上げているような女性の姿が見えた。
仁に気がついた女性は椅子から立ち上がり、貴族風の挨拶をする。
「再度の挨拶にはなりますが、ジン様、夜分遅く申し訳ございません」
「ああ、アンタは?」
問いかけながら仁は女性が居るテーブルまで歩くが、周囲の気配を探るように視線を窓や出口に向けている。
「私はステラ様の教師を務めさせて頂いている、タチアナ・コンバラートと申します。まずはお掛けを」
危険は無いと判断したのか、タチアナの近くまできた仁は椅子に手を掛け、座る前に目の前の女性を観察する。
タチアナは白い肌をした妙齢の美女で、朱色の口紅が引かれた美しい口元には微笑をたたえている。金色の髪をアップに纏め、女性では珍しくジャケットに長いスカートというスーツを身につけていた。上下とも体にぴったりとしておりボディラインがよくわかるものだ。脱いで椅子に掛けられているコートも含めて、仕立ても布地も高価そうな物だった。
「でかいな…」
「は?」
スラリとした赤系のジャケットは胸元が大きく開き、そこから零れ出しそうな盛り上がりを見せる胸に襟元から下がるジャボも半ば埋没してしまっている。大きく前に張り出した双丘は細い腰と対照的で目を引きつけて放さなかった。細い腰から下は再び丸く大きく膨らみ、女性らしい色香を際限なく放っている。
「その大きさで垂れてないとか反則だろ」
椅子に腰掛け、そんな事をつぶやく仁。タチアナは不躾な台詞に嫌がる事も無く微笑んでから、椅子に腰掛けた。
「フフッ…有り難う御座います」
「こんな美人でプロポーション抜群なお姉さんに夜這いをかけられたんじゃ、断る理由もないわな」
「お好きなんですね」
タチアナが胸の下で腕を組み上体を反らして胸を前に突き出すと、仁は声をあげてテーブルから身を乗り出すようにして凝視する。
「そりゃもう、大好物さ。食べて良いの?」
「そういうのはもっと仲良くなってから。まずは仲を深めるために、お話をして親睦を深めましょうか」
「ちぇ、おあずけかー」
仁が勢いよく椅子に戻ると、椅子と床がギシリと音を立てた。顔を上げ、暫く無言でタチアナと目を合わせてから再度口を開く。
「…で、その自称ステラの家庭教師をやってるお姉さんはどんな話をしてくれるんだい?」
「若様からの仕事を受けて下さいますよう。お願いに参りました」
「残念、色気の無い話だな…」
仁は手のひらを上に向ける身振りで無念を表す。
「なんでわざわざこんな時間に?」
「私は若様の監視役として付いてきているのですが、仕事の方は手伝ってはいけない事になっていますので、内密にお話をしようと思いまして」
「ステラには内緒って事か。親とかは知ってるのか?」
「ええ、親方様もご存じです。はっきりとは口に出してはいませんが、回りくどい言い方で手伝ってやれ。と」
「ふーん…」
気のない返事をする仁の説得をタチアナは続ける。
「前回は人集めで失敗してしまいまして、何度も失敗するのはどうかと、今回はすこし親心を出されたようで…」
「ちょっと甘やかしすぎなんじゃないか?」
「そうかも知れませんね…」
タチアナは少し苦笑してから話を続ける。
「教師である私の不徳の致すところなのですが、あの方は狩人としての実力自体はそれなりなのですが、人の見定めがまだまだでして…それでも、なんとか父親の助けになろうと頑張っている可愛らしい方ですので、ついつい甘やかしてしまうのかもしれません…」
「ですが、一応教師として飴と鞭は使い分けているんですよ?そうそう、鞭といえば教鞭で折檻とかもしてまして、鞭打たれた若様の表情!それはそれはとても素敵な表情で…」
「お…おう…」
少し興奮して話し始めたタチアナに、仁は少し引く。
「彼のあの可愛い表情、あの目で懇願されるとなんでも聞いてあげたくしまいそうになってしまうんですよ?でもそこは心を鬼にして折檻するのですが、可愛らしい顔を苦痛に歪めながら目に涙を貯めて我慢する姿は───ハッ」
我に返ったタチアナは、ゴホンと咳払いをして話を続ける。
「じ…ジンさん達の実力は申し分無く、ご助力頂ければきっと若様の狩りも成功すると思います。父親への孝行をしたいと頑張っている若様を助けると思って、ご助力をお願いします」
彼女の豹変を冷めた目で見つめていた仁は、ふむ、と少し考える。
「駄目でしょうか?やはり竜を殺めるのは主義に反すると…?」
「うーん、そうだなぁ…」
暫く考え込む仁をタチアナは辛抱強く待っている。
「そういえば、なんで俺に仕事を依頼したと知ってる?」
「…話をしていた時、近くで聞いていました」
「その辺だろ」
近くのテーブルを指さす仁にタチアナは驚きを見せた。
「気づかれていましたか…」
「まあな」
「やはり、実力は相当なもののようですね…別途で報酬を、と言っても…」
「悩み所は俺の勝手な主義であって報酬じゃないしな。金は欲しいが」
「そうですか…」
少し考え込んだタチアナは、何かを思い出したのか妖艶な微笑を浮かべる。
「……では、こういう報酬はいかがでしょう」
タチアナはジャボを外してテーブルに置くと、ブラウスのボタンを外し始める。いくつか外して胸元が見えるように大きく開くと、仁は食いつくようにテーブルに乗り出して凝視する。
「うわっ谷間すげー!」
「ふふっ、やはりジン様にはこういった報酬のほうがお好みのようですね」
「好みも好み、大好物ですとも!」
ふんふんと鼻息を荒くする仁にタチアナは満足した笑みを浮かべ、自分の胸を揉んで大きく動かすと仁はさらに興奮した声を上げた。
「依頼を受けて頂いて、試験のほうも達成できたなら、コレを好きにしても良い。という報──」
「オッケー!」
「…………へ?」
最後まで話を聞かずにサムズアップした右手をぐっと勢いよく突き出す仁。そのあまりの返事の早さに呆然とするタチアナ。
「やるやる、その仕事引き受けた!ぐふふ…虫竜をちょっと小突いて帰ってくるだけであの巨乳が俺の物に!どうやって楽しもうか…やはりあれをこうして…」
「いえ、好きにしても良いとは言いましたが、あげるわけでは…」
タチアナの声は仁には届かず、ブツブツと何か独り言を言い続けている。下を向いて、怪しげに手を動かしながら妄想していた仁をタチアナは呆れた目で見ていたが、そんな仁が突然顔を上げた。
「今更無しってのは無しだよ?」
「え…ええ…」
「よっしゃー、やってやるぜ!」
手をふりあげ大きな声を上げる仁に驚いたが、タチアナは気を取り直して話を続けた。
「有り難う御座います。では、そういう事でお願いします」
「おう、まかしとけ!」
「色よいお返事も頂けましたし、今晩はこれで失礼しますね」
説得に成功したわりには複雑な表情をしたタチアナが、立ち上がって帰り支度を始めようとボタンに手を掛ける。
「ちょっと待った!」
声に驚き、びくりと大きく体を震わせるタチアナ。
「えっと…どうかしましたか?」
「その…なんだ…そう!前払いだよ前払い!ちょっとだけ報酬の前払いをお願いできないかな?頼むっ!」
パンっと両手を前で合わせて頼み込む仁。
「ふぅ…そんな事ですか。そうですね、少しくらいならかまいませんよ」
「マジ!?やったよ俺!ありがとうタチアナさん!」
タチアナは立ったまま両手を上げ頭の腕で組むと、胸を強調するように上体を軽くそらし、目を閉じた。
「どうぞ」
「では…」
仁は両手をあげてわきわきと予行演習を行いながら、ゆっくりとタチアナに近づいてく。興奮のせいか仁の目は血走っており、吐く息もぜいぜいと荒い。
手を触れられる位置まで近づき、仁は足を止めた。
「んっ…」
まだ触れられていないが、目を閉じたままのタチアナは近くにきた仁の気配を感じたのか、軽く嗚咽を漏らす。
「…触るよ…」
仁は相変わらず息を荒くしながら、豊かな双丘の重みを確かめるつもりか、両側の下から持ち上げるように手を近づけていく。
「はい、そこまででーす」
「あ痛 ──── っ!」
「痛たたたたた。痛いわー!」
仁の声に驚いて目を開けたタチアナに見えたのは、槍を手に持ち立っている愛莉珠と、手を打たれた痛みに床をのたうち回る仁だった。
「いつのまに…」
「ほら、お姉さんもとっとと服を着る!」
「ええ」
少し怒っているように見える愛莉珠からジャボとコートを渡されると、いそいそと服の乱れを直してコートを羽織った。
「仕事を受ける気になってくれたのはいいですが、エッチなのは駄目ですよ。兄様」
「愛莉珠…またお前か…良いところだったのに」
プンプンを湯気を出しそうな不機嫌顔の愛莉珠に対し、仁はとほほといった表情だ。槍で撃たれた手を冷まそうと、息を吹きかけている。
「えーと、私は帰った方がよさそうなので失礼しますね?」
「はい、有り難う御座いましたタチアナさん」
明るい声で挨拶した愛莉珠が言葉を続ける。
「でも、今後は兄様へのお痛をもう少し控えて貰えるともっと有り難いです」
「もっ…もちろんわかってるわ。えぇ」
後半の声も明るい声ではあったが、何かしらの凄みを感じたタチアナは逃げるように店の裏口から出ていこうとするが、一旦振り返った。
「では、そういうことで若様の件、よろしくお願いします」
「え、ちょっと、報酬の件はどうなるの?」
「そこの可愛い妹さんの許可が取れたら。という事になりそうですね」
「兄様?」
「え~~~~」
まだやるつもりですか?と問いかけるような愛莉珠に、報酬を諦めきれない仁は不満の声をあげる。タチアナはそんな様子を見て苦笑し、最後に再び礼をすると、裏国に続く通路に消えていった。
室内に残されたのは、立っている愛莉珠と、まだ床にあぐらをかいて座りながら手に息を吹きかけている仁だけだ。
「さて、お兄ちゃん。何か言うことは?」
「いーじゃんちょっとくらいさー」
「よくありません!大体、なんでいつもお兄ちゃんは私の見てるところで女の子にちょっかいを掛けるんですか?」
「見えてないところでやった方が良いのか?」
「見えないところは余計に駄目です!」
「え~~」
ブツブツと口の中で文句を言う仁を見て、愛莉珠はふっとため息をついた。
「でも、今回の竜狩りの仕事を引き受けてくれたのは少し嬉しいです」
「そうだな……心配かけさせて悪い。まあ、自分でも普通の狩り仕事くらいは気にしないようになれればなあ、とは思ってるんだが…」
あぐらをかいたまま開いた両手を見つめ、なにかを思うような表情をしていた仁の足に膝をつくと、愛莉珠は優しく仁の体に手を回し胸で抱きしめる。
「大丈夫だよ。少しづつでいいから」
「ああ…大丈夫。もうそんなに深刻な物でもないさ…」
「うん…」
仁も軽く愛莉珠を抱くと、すぐに手を離した。
「あ…」
「さて、部屋に戻って寝直すか」
少し残念そうな声を出した愛莉珠の背中をぽんぽんと叩き、離すように促す仁。
「今日は一緒に寝てあげましょうか?」
「バーカ、10年早ぇよ」
冗談に冗談を返した仁だが、次に続く愛莉珠の声はとても低く怒りに打ち震えていた。
「10年……やはり胸ですか…胸ですよね?」
仁をやさしく包み込んでいる愛莉珠の胸は、とても残念に見える。
「やっ、そんな事言ってないだろ?」
「そういえば今日もお兄ちゃんが仕事を引き受けた原因は胸でした…」
「いや、あれはだな、別に俺が要求したわけじゃなくて向こうが」
会話が怪しい方向に向かいだし、慌てた仁は必死に弁明をする。
「私が最初の方から階段で聞いていたのにも気がついていましたよね?」
「ああ、俺のあとに降りてきて隠れてる気配があったから、愛莉珠だとは思ってたけど」
「それで、私が見ているのを知っていて、あんな事を?」
「いやあれは、おっぱいと聞いてからもうなにがなにやら記憶がだね」
「残念なお兄ちゃんです」
優しく抱きしめていた両腕に力が込められると、ミシミシというきしみ音が聞こえてきそうなほど頭蓋を締め上げていく。
「ちょっとまった愛莉珠痛い、痛い、やばいってコレマジで、ミシミシ言ってるって!」
「反省して下さい」
愛莉珠はそう言うと、さらに頭蓋を締め上げていく。そして遂に ──
・
「ふへ?」
パキャッという何かが割れるような音と、悲鳴のような声が聞こえた気がしたオルテンシアは目を覚ました。目をこすりながら体を起こし、隣のベッドを見ると愛莉珠が居ない。
どうしたんだろうと少し考えるが、すぐに眠気が襲ってきたのか大きなあくびをする。
「まぁあの2人なら、殺しても死なないでしょ」
そう言って再びシーツを被ると、安らかな寝息を立て始めた。