#34
《幕間》
草原に子供達の声が響いている。子供達が遊んでいるのは草原というより広い庭のよう場所で、近くには石造りの家屋が建っており、周囲を囲む低い塀の外には整然とオリーブの木が並んでいるのが見える。雲が少なく照りつける日差しは強く、庭にある大きな月桂樹がくっきりとした黒い影を落としている。
草原を駆けているのは五,六歳くらいの三人の子供達で、競争でもしているのか、あるいは強い日差しから逃げようというのか、皆必死に大きな月桂樹の方に向かって走っている。前から飴色の髪の男の子、黒髪の男の子、胡桃色の長髪を編んだ女の子で、男の子二人は女の子より背が高く、体力もあるのか少し前を競り合うように走っていた。
「はぁ、はぁ、おい待てよ愛留斗!」
「はぁ、はっ!誰が待つかよ仁。はぁ、今回も俺の勝ちだな!」
二番目の男の子に声を掛けられ、息を荒げて必死に走りながらも先頭の男の子は返事を返した。
「はぁ、違うんだよ、はぁ、愛莉珠が、付いてきてない、はぁ」
「なにぃ!?」
二番目の男の子の台詞に驚いた先頭の男の子は足をふんばり、倒れそうになりながらも走っている勢いを殺して振り返った。振り返った男の子に見えたのは、すぐ目の前にせまる二番目の男の子と少し離れた所を必死の表情で追いかけてくる女の子だ。
「居るじゃねえか!」
「おっさきー」
「あ、おいこらズルいぞお前!」
二番手だった男の子が立ち止まった男の子を抜いて順位が入れ替わる。立ち止まった男の子は慌てて走り出すが、先頭に躍り出た男の子は抜かれる事なくそのまま月桂樹の根元までたどり着き太く節くれ立った大きな木の幹に手を付けた。
「よっしゃ!いちばーん!はぁ、はぁ」
すこし遅れて先頭だった男の子と最後尾の女の子も到着する。
「はぁ、また騙しやがって…はぁ」
「はぁ、はぁ、もうだめ、お水…」
最後尾の女の子は木陰に入るなりどさりと草地に倒れ込んだ。二番目に着いた男の子が慌てて近寄り抱き起こす。
「おい大丈夫か愛莉珠!?」
「あらあら、大変ね」
月桂樹が作り出す大きな影には先客がいた。木にもたれかかるように座っていた若い女性は読んでいた本を閉じ、脇に置いてあった籐で編まれた篭に入れた。女性が着ているのは袖なしのシュミーズドレスで、胸元こそ開いていないが肩紐だけでぶら下がっており、大きく露出した肩口の肌は健康的に少し焼けていた。立ち上がる際に結い上げられた髪から幾筋か垂れ黒い髪がうなじから肩に絡み、膨らんだ胸元と相まって健康的な女らしさを強調している。
女性は篭から革袋とコップを取り出し水を汲むと、倒れている女の子の側まで行き屈んで手渡した。
「はい愛莉珠ちゃん、お水」
「はぁ、有り難う…御座います。母様」
女の子は飴色の髪の男の子に抱えられたままコップを受け取るとこくこくと飲み始めた。それを見て安心した飴色の髪の男の子は女性に礼を言う。
「ありがとうおばさ…てっ」
男の子は軽い痛みを感じて頭に手をやるが、そこには何も無かった。キョロキョロと辺りを見回すが特に変わった様子は無い。だが、すぐ側に笑顔で座っている女性の右手は指が揃えられ肩の位置にまで持ち上げられていた。飴色の髪の男の子は一度首をかしげてから、気を取り直して礼を言おうとする。
「ありがとうお…てっぇ!」
男の子は再び頭頂に痛みを感じて今度は両手で頭を押さえた。男の子には女性の右手が動いたようには見えなかったが、先ほどより高い位置で構えている気がした。女性は微笑みをさらに深めて両唇を左右に大きく伸ばした。
「愛留斗くぅん、お…なんだって?」
口の端をぴくぴくさせる笑顔がなんとなく怖くなった男の子はびくりと体を震わせた。
「え…いや…その、…お…お…お姉…さん?」
「はい正解!私はまだオバサンじゃないわよー?」
女性は振り上げていた手を降ろすと飴色の髪をくしゃくしゃと撫でてやる。
「またそれやってんのかよ母ちゃん、俺にも水」
「あんたは直接飲みな」
黒髪の男の子が水を要求すると女性は持っていた革袋を男の子に投げ渡した。男の子は危なげなく革袋を受け止め、栓を抜いてごくごくと水を飲み終えると大きく息を吐く。
「はぁ…母ちゃんがそうやってみんなにお姉さんとか母ちゃんとか言わせてるから俺結構誤解されてるんだよ?年の離れたお姉さんがいるのねーとか、兄弟いっぱいいるのね?とか」
「いいじゃないまだ若いんだし。いい仁?女の子はね、オバサンって言われる度に一つ年を取って、可愛いって言われる度に一つ若返るの。覚えておきなさい」
「はいはい…」
黒髪の男の子は飲み終わった革袋に栓をしてから飴色の髪の男の子に放り渡す。受け取った男の子も革袋から直接水を飲み始めた。
飴色の髪の男の子の膝に頭を乗せていた女の子は、革袋から水を飲んでいる男の子の顔をぼんやりと眺めていた。その顔の向こうにはゆらゆらと揺れる葉が見え、隙間からはきらきらとした光の粒が光ったり消えたりして瞬いている。
「おっきな木だね〜。世界樹みたい」
「ばかだなぁ、本当の世界樹はもっともっと、も〜〜〜っと大きいんだぜ」
黒髪の男の子は手を大きく振りながら大きさを強調しようとしている。
「え〜〜、仁だって見た事無いくせにぃ…そうだ!ねぇ母様、私もう一度世界樹の話を聞きたい!」
「世界の始まりのお話し??」
「うんっ!」
「いいわよ。ただしお食事しながらね」
「やった〜!」
別の遊びがいいと文句を言う黒髪の男の子に敷物を敷かせ、女性は篭に入っていたサンドイッチと水を注いだコップを子供達に手渡していく。日差しは強いが大きく枝を広げた月桂樹が日差しを弱め、たまに吹く風が過ごしやすい環境を作っていた。女性はサンドイッチを食べ始めた子供達から視線を外して月桂樹の方を見る。節くれ立った太い幹はかなりの樹齢で、数十年は軽く超えていそうだ。根元を見ていた視線を徐々に上げると大きく枝分かれしており、広がる枝と光を反射して碧く生い茂る葉が風に揺れていた。女性は視線を上げたまま話し始める。
「最初、世界には何も無く、ただ世界樹と呼ばれる大きな大きな、この世界よりも大きな木があったの。世界樹の他には何も無く、真っ暗な世界が広がっていたらしいわ。ずっと一人だった世界樹はある日寂しくなって、実を付ける事にしたの」
「なんで寂しいと実を付けるのさ?」
「ほら、普通の木だって実を付けて種を落とすと子供ができて増えるでしょ?世界樹もそう考えたのかもしれないわね。まあ実はちゃんと生って、熟して、落ちた。落ちた実は世界樹の根に当たるとはじけて、種と実と皮に分かれてしまった。分かれた実からは原初の神が生まれ、皮からは原初の竜が、そして種からは原初の剣が産まれました。余った種は大地となり、熟した実は溶けて海に、皮は世界を取り囲み空になりました」
話を聞くのに乗り気では無かった男の子二人も食べる手を止めて話に聞き入っている。
「同族は出来ませんでしたが自分以外の生命が生まれた事に喜んだ世界樹は、新しく生まれた原初の三人を歓迎し、祝福した後、お願いをしました。もっと生物を、と。原初のモノである三人は生みの親たる世界樹の頼みを聞き入れたのか、三者で相談してまずは仲間を増やす事にしました。原初の神は残っていた実から始まりの神々を、原初の竜は残っていた皮から始まりの竜族を、原初の剣は残っていた種から始まりの植物を沢山生み出しました。原初のモノ達は自分達が生んだ始まりのモノ達にもお願いします。もっと生物を、と。始まりのモノ達も願いを聞き入れ新たな生命を作り出しました。神々は自分達を模して人間を作り、竜族も自分達を模して動物を作り、植物はさらに種類を増やしました。」
「竜ってあれだろ、たまに空を飛んでるでかいやつ!かっこいいよなー」
「馬鹿かお前、かっこいいとか言ってるけどあれは人を襲うんだぞ?」
「こっちから悪さしないかぎり襲ってこないさ」
竜の話で盛り上がる男の子達を余所に、いつの間にかサンドイッチを食べ終わり女性の足下に寝転がって話を聞いていた女の子が質問する。
「えーと、人間を作った神様は親の神様がいて、その神様は世界樹の子供だから、人間は世界樹のひ孫?」
「ばっかだなぁ、大昔の話だぜ?ひ孫どころかひひひひひひひ…ひひ孫だろ」
「ぶー」
黒髪の男の子が茶化すと女の子は頬を膨らませて抗議した。
「ふふっ、そうね、直接のお爺ちゃんじゃないけど、人間は世界樹のひ孫にあたるかもね。そして世界は生き物達に満ちあふれ、世界樹は大いに喜び、生き物達に祝福を与え、皆に囲まれ幸せに暮らしました。というか暮らしてます。って事になるのかな?まだどこかにあるらしいし」
今度は飴色の髪の男の子が質問した。
「世界樹はどこにあるんですか?」
「この星、地球には無いって言われてるわね。まだ見つかっていないだけか、どこか遠くの星にあるのか、神々の世界にあるのか…」
「神様は何処にいるのー?」
「始まりのモノ達は月にいるって言われてるわよ。白い月には神々が、金色の月には竜達が、水色と緑の月には植物が居るんだって。あと、人間に混じってこっそり暮らしてる神様もいるらしいわよー?」
「すごーい!会ってみたい!どこに居るの?」
「うーん、こっそり住んでるらしいから私たちにはちょっと探し出せないかなー?でも遠くの国には王様の代わりに神様が納めている国があるらしいわよ」
「俺は月まで行って世界樹を探してみたいなぁ」
黒髪の男の子の台詞に飴色の髪の男の子が食って掛かった。
「馬鹿かよ。いけるわけないじゃん」
「何だよ愛留斗、冒険とか興味ないのか?男のくせに」
「僕は家業を継ぐんだよ。あと愛莉珠を放って行けるか」
「愛莉珠は行きたいよなー?」
「うん、私も世界樹見てみたいー!」
「愛莉珠ダメだよ、危ないから」
「え〜〜。いつもうるさいんだからぁ。お兄ちゃんはもういいよ。仁お兄ちゃんと行くから」
咎められた女の子は女性の足下から離れると黒髪の男の子に抱きついた。
「んなっ!?愛莉珠っ!?」
抱きつかれた男の子はまだ手に持っていたサンドイッチとコップの水をこぼしそうになるが、なんとか耐えると残ったサンドイッチを慌てて口の中に放り込み水で喉に流し込むと、目を見開いてガタガタと震えていた飴色の髪の男の子に向かって自慢げな笑みを向けた。
「愛留斗はいつも言う事が細けーんだよ。だから愛莉珠にも嫌われるんだ」
「そうだそうだー!」
「そんな事はないぞ愛莉珠!?お兄ちゃんはいつも愛莉珠の事を心配してだなぁ…」
「もう子供じゃないんだから一人でも平気だよぉ」
つーんと目を瞑り横を向きながら言う愛莉珠。口を挟まずに見守っていた女性が口元を綻ばせ、目を細めて三人を見ている。
「んじゃ愛莉珠、手始めに裏山を探索すっか」
「うん!」
黒髪の男の子は女の子の手を取ると、庭の出口の方に駆け出した。それを見た飴色の髪の男の子も残っていたサンドイッチを口に放り込んで後を追う。
「こらまて仁、勝手に決めるなっ!」
「なんだよ、結局お前も来るんじゃん」
「お前なんかに愛莉珠を任せられるかっ」
「こら、三人とも外に行くなら帽子を持って行きなさい。後、暗くなる前には戻ってくるんだよ」
「「「はーい」」」
3つの声が元気よく重なって聞こえてくると、敷地の外に向かっていた子供達は一旦母屋に入り、暫くすると帽子を持って門から出て行った。門の所で女の子だけが振り返り手を振ってきたので女性も笑顔で答えると、女の子は元気に男の子の後を追って門から走り出て行った。
「さて、お腹を空かせて帰ってくる子供達の晩ご飯でも作りますか」
女性はそう言って立ち上がると服に付いた草を手で払い、篭を持ち上げる。不意に周囲が暗くなったかと思うとすぐに元に戻る。女性が空を見上げると大きな竜が三頭飛んでいるのが見えた。竜はじゃれ合うようにもつれ合いながら飛んでいる。
「竜の子も人の子も本質は変わらず。かぁ…」
その女性は強い日差しの中、じゃれ合いながら飛んで行くような三匹の竜の姿が地平線の向こうに消えるまで眺めていた。