#33
ぎぎと木がきしむ音が静寂に包まれていた宿の廊下に響いた。明り取りの窓から差し込む瑠璃紺の蒼い光だけが僅かに照らす廊下は薄暗く、かろうじて壁にぶつからずに歩ける程度の明かりしか差していない。
僅かに開いた扉から顔を覗かせた愛莉珠は扉の正面の床に転がる黒い物体を見ると小さく溜息をついた。暫くその物体を見ていた愛莉珠は何も起こらないので安心したのか扉を開け廊下に出る。大きめの木桶と両手一杯の布を抱えつつも器用にドアを指だけで引っ張って閉めると、黒い物体を横目で見つつ階下に降りる階段に向かい歩き出した。
「愛莉珠…」
背後から聞こえた小さな声は掠れていて聞こえにくく、怯えているように聞こえた。名前を呼ばれた愛莉珠は足を止めたが、振り向くこと無く目を瞑り眉間に軽く皺を作る。
「起きていたのですか」
「ああ…」
声はそこで止み、それ以上話は無いと判断したのか愛莉珠は再び足を動かしはじめた。
「愛莉珠っ…!」
先ほどよりは大きい、懇願するような声に愛莉珠が振り向くと、真っ黒だった物体の一部が肌色の顔を見せて愛莉珠の方を見つめていた。その表情は今にも泣き出しそうだ。
「ああっ、もう部屋を出る度に鬱陶しい…少しだけ話してあげますから付いてきて下さい」
愛莉珠は両手に持った桶と布を持ち直すと階下に降りていった。廊下に蹲っていた人影が慌てて立ち上がると愛莉珠の後を追いかけた。
宿の中庭は廊下よりもかなり明るかった。中庭に出た愛莉珠は室内との明暗差に目を細めると空を見上げた。建物に四角く区切り取られた空には雲一つなく、薄藍色の満月とその影に隠れて半分程度しか顔をだしていない浅葱色の月が見えた。離れた位置には連なった二つの月より二回りほど大きい白い月も見えるが、こちらは三分の一程度欠けていた。
「ほらお兄ちゃん、今夜は月が綺麗ですよ」
「ん…」
愛莉珠に続いて中庭に出た黒い人影─ 仁 ─も眩しそうに手をかざしながらちらりと空を見たが、すぐに愛莉珠に視線を戻した。急かすようにじっと見つめる仁に愛莉珠は溜息をつく。
「もぅ…そんなに急かさないで下さい」
「だってお前が何も教えてくれないから!」
「お静かに!せっかく眠ったシアさんが起きてしまいますよ?」
焦れた様子で声を荒げて大きな声を出す仁を窘めると、愛莉珠は中庭の隅にある洗い場に手桶と布を置いた。手桶の水を捨てると無骨な水道管からちょろちょろと流れ続ける水を手桶に溜め、持ってきた布を擦って洗い始めた。仁は近くの木に立ったままもたれ掛かるが、落ち着きもなく足先で地面をコツコツ蹴り続けている。
「で、どんな様子なんだ?いい加減教えてくれても良いだろう?」
「あのねお兄ちゃん…」
愛莉珠は手を止めること無くふぅと深く溜息をついた。
「見て欲しくないって部屋を出てって貰ったのに、中の様子を伝えたら意味が無いって何度も言ってるじゃありませんか。しかもあんなに近くに居て!兄様だったら中の様子くらいまるわかりでしょう?本来だったら街の外まで追い出すか、1日昏倒して貰うところです」
「いや…流石にそこまでしなくても…」
愛莉珠は最初よりも幾分大きな音を立てながら布を洗っていたが、桶から取り出してぎゅっと絞ると仁に向かって差し出した。
「干して下さい」
仁は愛莉珠から布を受け取ると、中庭に貼られていた物干し用のロープに布を引っかけて広げていく。ベッドシーツ程度の大きさがある大きな布だった。愛莉珠は二枚目の布を洗い始める。
「ここからでも部屋にいるシアさんの呼吸が落ち着いてるのが分かるでしょう?」
「う…いやまあ…それは分かるけど…」
「嫌らしい…女の子の寝息を聞くとか変態ですね。お兄ちゃん」
「あのなぁ!」
「部屋の前で聞き耳を立てていたお兄ちゃんには丸わかりだと思いますが、症状も落ち着いて三十分程前から眠っていますよ。シアさんが起きてみないと分かりませんが、苦しんでいる様子が無いので峠は越したと思います」
「そうか…ちょっとだけ安心できた」
ふぅと大きく安堵の溜息をつく仁を見て愛莉珠は少し微笑むと、二つ目の布を絞って仁に手渡し最後の布を洗い始めた。
「私が部屋を出る度に付きまとって様子を聞き出そうとするとか、お兄ちゃん女々しくてちょっと格好わるいですよ?こういう時は内心で心配してもドシッと余裕をもって構えてくれないと」
「いや…まぁそれは分かってるんだが…どうしてもあの時の事を思い出して…」
「お兄ちゃん…」
愛莉珠は手を止めて仁の方に顔を向けた。春先のためか虫の声も聞こえず、水音が止んだ庭はしんとした静寂に包まれた。
「二度とあんな目に…自分の無力で友達を失わないように力を着けて、何でもできるつもりになってたけど……今回は自分の無力さを思い知らされたよ。ははっ」
自傷気味に乾いた笑い声を上げる仁を見つめていた愛莉珠は、仁から視線を外すと再び桶に入った布を洗い始め、再びバシャバシャと水を叩くような音が聞こえ始める。
「そうですね、確かにお兄ちゃんは何でも出来てしまいそうですけど今回は何も出来ませんでしたね。そもそも何でも出来るって言うのが思い上がりなんですよ。母様との手合わせで一本も取れないのに」
布を干し終わった仁は愛莉珠に少しムッとした表情を向けた。
「それと今回の件は関係ないだろ」
「母様から一本も取れないのに何でも出来るって思ってたんですか?」
「ぐっ……分かったよ。悪かったね、思い上がってましたよ。俺は」
「ふふっ」
ばつが悪そうに愚痴る仁を見て愛莉珠は可笑しそうに笑う。
「笑うなよ!人が落ち込んでるのに」
「ふふっ、ご免なさい。いじけてるお兄ちゃんが子供みたいで可愛かったから…」
「悪かったね子供で。まったくシアも愛莉珠も俺を子供扱いばかりしやがって」
愛莉珠は洗い終わった最後の布を桶から取り出して絞り、絞られた水が桶に落ちてぴちゃぴちゃと水音を立ててる。
「お兄ちゃんはあの時と同じだと思ってるみたいだけど、私は全然違うと思ってますよ?」
「そうか?結局自分は無力で、何もできずに取り返しの付かない事態に…」
「全然取り返せるじゃないですか」
呆れきった表情の愛莉珠は、絞りきった布を仁に差し出した。
「え…?」
呆けた表情で愛莉珠を見ながら仁は渡された布を反射的に受け取る。
「そもそもシアさん生きてますし、また次もありますし」
「次?」
「忘れたんですか?封印はあと4つあるんですよ?」
「そうか…そうだよ!確かに今回は何も出来なかったけど次までになんとかすれば!」
「まずはシアさんの回復を待ってからですけどね。何も出来る兄様ですから次は期待してますよ?」
「ああ、なんとか頑張ってみるよ」
仁は少し元気を取り戻したのか表情を柔らかくすると、受け取った最後の布をばさりと広げて干し綱に掛けた。干す動作で自然と上を向いた仁の視界に二つの月が映り込む。明るく光る水色と白い月に仁は目を細めた。
「愛莉珠、今日は月が綺麗だな」
眩しそうに月を眺める仁の後ろ姿見て愛莉珠は少し困った顔をしたが、その表情を優しい笑みに変えると仁の横に寄り添い、その腕に優しく手を添え月を見上げた。
「そうですね、お兄ちゃん」
それからしばらく二人は互いに声を掛けることも無く、寄り添って夜空の月を見つめていた。
◆
「お久しぶりですジンさん。同席よろしいですか?」
「ああ」
顔も向けずに返事をした仁は、肉の入ったスープ皿から肉を掬って口に運ぶ。
ユーリとルーはテーブルの空いた席に座ると、忙しく走り回っている店員を捕まえて果実酒を注文した。外はすでに暗く、ランプで照らされた店内は仕事帰りらしき客で溢れかえり賑やかな喧噪に包まれている。
「オルテンシアさんが伏せっていると聞いたのですが、まだ良くはなりませんか」
仁は食事の手を止めるとユーリに少し困ったような顔を向けた。
「昨日の今日なのに情報が早いなぁ。大分良くなったみたいだけど、まだ部屋に籠もってるよ。今は愛莉珠が付いてる」
「心配ですね…」
「人間に心配される神様ってのもアレだと思うけど、ルーさんなら部屋に入れて貰えるんじゃ無い?見舞ってやって」
ルーは少し驚いて何度か瞬きをした後、口端を上げて目を細めた。
「ああ、部屋から追い出されたジンさんは、やれる事も無くここで不貞腐れていると…」
「ぐっ!わ〜るかったね不貞ってて!」
仁は不機嫌そうに眉を顰めると荒っぽい動作で食事を再開する。がちゃがちゃと食器の音を立てながら一気に皿の中身を食べきり、最後に残ったスープは皿ごと持ち上げてごくごくと飲み干した。飲み干した皿はがつんと荒っぽい音を立ててテーブルに置かれる。
そんな仁をユーリは困った表情で、ルーは疲れた表情で見つめている。
「これは…こちらの方が重症のようですね」
「仲間外れにされて拗ねているだけに見えますけどね」
「お前ら、見舞いに来たのか俺をいじりに来たのかどっちだよ」
「もっ、もちろんお見舞いですよ。ではルー、少し様子を見てきて貰えますか?」
「はい」
ルーが席を立とうとがたりと椅子を引く音が鳴った。
「あら、ユーリとルーじゃない。久しぶり?そんなに経ってないかな?」
「へ?」
全員が声のした方向を見ると、食堂からよく見える位置にある二階への階段から普段と変わらない様子のオルテンシアが降りてきているのが見えた。壁際にある階段は手すり部分が細い木組みで出来ているためオルテンシアの全身が見えており、大きな三つ編みにされた薄桜色の長い髪が背中で揺れているのが見える。服装は普段からよく着ている白磁色のワンピースに灰色のカーディガンを羽織っていたが、胸の部分は大きく開いていて首筋から胸元までがよく見えている。左右のこめかみ付近から細く編まれた髪が胸の辺りまで伸びており胸元を彩っていた。
「シアっ!」
がたんと椅子を蹴飛ばしながら仁は走り寄ると、そのままの勢いで階段途中で立ち止まっていたオルテンシアを抱きしめた。
「キャッ!ちょっと仁何するのよ!危ないわよコケちゃう」
仁は飛びついて傾いた体勢を立て直し、オルテンシアの両肩を掴むと正面だけではなく背中側も異常が無いかよく確認しようとオルテンシアの体を動かす。
「気分は大丈夫か?どこも変になったりしてないよな?体に異常はないか?」
「ちょっ、仁、大丈夫、大丈夫だから止まって!」
慌てた様子で叫ぶオルテンシアの声を聞いたからか、仁は両肩に手を置いた状態で正面からオルテンシアを見つめた状態でぴたりと動きを止めた。そして再び両手をオルテンシアの背中に回し、ぎゅっと強く抱きしめた。
「仁、キツイ!…クルシイ……ぎぶぎぶ」
抱きしめられて苦しげな悲鳴を上げながらオルテンシアは仁の背中をタップする。
「シア…」
騒がしかった喧噪が止む。
「…心配………心配したんだからな」
一度腕の力をゆるめた仁は、オルテンシアを優しく抱きしめ直した。
「うん…」
オルテンシアも仁の胸に顔を寄せると両手で仁の背中を抱きしめた。
「心配かけてごめん」
静まりかえっていた食堂に突然、ヒューヒュー、ピュ〜〜〜と甲高い口笛が鳴り響く。
「よ、ご両人、お熱いこって」
「若いっていいねえ」
「妬けるねぇ、俺のシアちゃんを奪いやがって」
「独占はよくねーよ独占は」
「ハゲてしまえっ!」
「え、いや、あはははは」
再び店内にもどった喧噪の中、仁は慌ててオルテンシアから離れると引きつった表情で頭を掻きながら階段を降り始める。だがオルテンシアはその場で店内の客に笑顔で手を振っていた。
「みんな大丈夫!女神の愛は一人の男のみならず神属の民全員に向けられています。だから家庭と狩猟を守護する女神、オルテンシアをどうぞ痛っ」
戻ってきた仁がぴしりとオルテンシアの頭に手刀を入れる。
「選挙じゃないっての。ほら行くぞ」
仁はオルテンシアの手を引っ張ってユーリ達がいるテーブル席に連れて行こうとする。
「えーもう終わりかよー」
「もっと乳繰り合うところを見せろー」
「シアちゃん、一緒に飲もうぜ」
「おう、こっちこいや女神様」
「え?いいの?よーし行っちゃおうかなー。ん?」
呼ばれた方に行こうとしたオルテンシアは後ろから肩を叩かれて振り向いた。そこには眉間に皺を寄せてぴくぴくと眉を動かす愛莉珠が無言で立っていた。
「ほら行きますよシアさん」
「ご、ごめーん、今日はお客さんが来てるみたいだから。あはは、はは」
オルテンシアは周囲の客達を宥めながら愛莉珠に押されて席に移動する。二人はすでに手を離していた仁の目の前を横切った。
「兄様、後でお話がありますから」
「はいっ!?」
目の前を通るときに小声で愛莉珠にそう言われ、奇声を上げた仁は通り過ぎた愛莉珠の後ろ姿を見つめる。黒い陽炎のようなオーラが見えた気がした。
周囲の客がオルテンシアに向ける声もユーリ達のテーブルに着くと徐々に止み、客達はそれぞれの仲間内での会話に戻っていく。そしてテーブルに着いたオルテンシアと愛莉珠の前に数点の料理が並べられる。
「あ、まだ頼んでないんですが──」
「快気祝いだよ」
愛莉珠の問いに答えたのは女中のカロリーナだった。カロリーナは年季と共に深く刻まれた皺をさらに深くして微笑む。
「シアちゃん、元気になって良かったね。治るまでゆっくりしてってね」
「有り難うカロリーナさん」
「俺には何も無しかよ」
「うっさいよジン!あんたまた床を壊したでしょ。シアちゃんが病気じゃなかったら出てって貰う所だよ。シアちゃんに感謝しな」
「ちっ」
カロリーナがユーリ達が注文した果実酒をテーブルに置いてから厨房に戻っていった。仁達三人はその後ろ姿を複雑な表情で見送った。
「怖いだけかと思ってたけど優しいところもあるんですね」
「そうね、ちょっとだけ怖くなくなったかも…」
カロリーナの後ろ姿を見ながら感想を述べているオルテンシアにルー達が声をかける。
「オルテンシアさん、お元気そうですね」
「ご病気だと伺ってましたが、回復されたようで何よりです」
「いやー、病気って程でも無かったんだけど。なんか心配掛けちゃったみたいでごめんね」
あははと軽い笑い声を上げるオルテンシアを愛莉珠は軽く睨んだ。
「何があははですか。本当に最初はどうなる事かと気が気じゃ無かったですよ」
「本当に」
「あはは…あ、スープ冷めちゃうから先に頂いちゃうわね?ほら愛莉珠も食べないと冷めちゃうわよ」
「……そうですね。折角のご厚意ですから暖かい内に頂きましょう」
オルテンシアが食事を始めると、仁はふぅと息を吐いて椅子に深く座り込んだ。
「お二人がそんなに心配するということは、相当酷い症状だったのですね」
「ああ」
「こうやって見てるとお元気そうですけどね」
ルーが果実酒の入ったカップを両手で持ち、ちびちびと飲みながら食事しているオルテンシアを観察している。
「やっぱりあの腕輪がなにか悪影響を与えたんですか?」
「今回の件は最後まで私たちも関わる約束ですから、入手した腕輪をどうしたのかも教えて頂きたいものです」
「そ…そういえばそんな約束だったっけ…」
仁は目を逸らしてぽりぽりと頬を掻いてから言葉を続けた。
「結局あの腕輪を使って封印は解けたんだよ。シアには力も戻ってきたんだが副作用があったらしくて…」
「副作用…?どのような?」
問われた仁は肩をすくめてオルテンシアの方を向いた。
「んっ……わらし?」
「シアさん、物を口に入れたまま喋らないで下さい。兄様みたいになってしまいますよ?」
「どういう意味だよそれ…」
オルテンシアは慌てて口の中の物を飲み込んだ。
「いやー、それだけはカンベンだわー。で何?」
「そっちもどういう意味…ってまあいいや。結局シアはどういう理由で1日以上も寝込んでて、どうやって治ったのかって話しだよ」
「あー、あれね。あの腕輪を着けてたぽい人の記憶とかが数百年分一気に流れ込んで来てねー、そっちの記憶が私の意識に影響を与えないよう抵抗してたのよ。ま、もう終わったけどね」
オルテンシアはそこまで言うと、横にあったスライスされたパンに緑色のディップを付けて囓り始めた。愛莉珠はそんなオルテンシアを少し困った表情で心配そうに見つめている。
オルテンシアが食事を再開して止まった会話をユーリが再開する。
「数百年分の記憶……ですか。それを1日で擦り込まれるというのも凄いですが、あのキムズズメーダ神がやる事ですから内容の方も──」
「ユーリさん」
「はい?」
呼ばれたユーリが愛莉珠の方を見ると、愛莉珠はゆっくりと首を左右に振った。オルテンシアも愛莉珠を見て少し表情を曇らせ口を小さく動かしたが、言葉として発せられる事は無かった。
「ごほん、えーと、ではですね、あの腕輪はどうなったのですか?」
「見る?」
そう言って腰の後ろに下げている包みを取ろうとするオルテンシアを仁が慌てて止めた。
「いや待てシア。流石にここじゃ人が多すぎる。見せても良いが用心してもっと人が少ない場所にしてくれ」
「だってさ」
「わかりました。ではもう封印は解かれてオルテンシアさんは力を全て取り戻したという事ですか?」
オルテンシアは皿に残った最後のスープをスプーンで掬って口に流し込むと、使い終わったスプーンを皿に投げ入れてからんと軽い音を立てた。愛莉珠が軽く睨むがオルテンシアは見えないふりをして話を続けた。
「それがそうでもないのよねー。まだ封印が残ってて、五分の一も戻ってきたかどうか……」
「そうですか。では以前に仰っていた神の遺物を探索する力というのはまだ必要なのですね」
「そー。おおまかな位置しか分かんないのよ。またあの草原みたいな所から探し出すのかと思うとうんざりだわ…」
「あれだけ苦しんでも次を探すんだな」
あっけらかんと話すオルテンシアを仁は呆れたように見て降参とばかりに両手を挙げた。
「最後までやるわよ!途中で止めたらあの変態に負けた気がするじゃ無い!それに腕輪を探して何週間も草原を歩き回った時間に比べたら一日苦しむほうがよっぽど楽よ」
愛莉珠も同意とばかりにうんうんと首を縦に振る。
「あれは…私ももう一回やるのは遠慮したいですね」
「そうそう、俺もその探査能力を持った人に超期待してるから。いつ頃紹介してくれるのさ?」
「そうですね…今から調整して一ヶ月後にピブワンのどこかの都市で…という感じでしょうか?」
「なんだそれ?やけに長いな。そんな事しなくても場所だけ教えてくれたらこっちから会いに行くのに」
「以前にもお話しましたが手間の掛かるお人で、ぱっと行ってぱっと会えるような人では無いんですよ」
「なにそのユーリと似たようなお偉いさんが出てくるフラグ臭」
「ぷっ…そうですね、そんな感じです。あと探知能力に関してはどの程度の物か私もよく知らないので保証は出来かねます。私の知る限りだと都市間の距離で細かい位置が分かるような力は無いと思うので、実際に手伝って貰うには一緒に行動する事になると思いますが…その辺りの説得はジンさん達にお任せします」
「ま、駄目元でやってみるよ」
悪戯っぽい笑みを浮かべているユーリをあまり気にもせず、仁は椅子にだらしなくもたれかかり気楽そうに手を振って答えた。
「ではそちらの調整をしておきます。少々日数がかかりますが、みなさんその間はどう致しますか?」
「そうだな…まだ路銀に余裕はあるけど、あんたから借りた金も返さなきゃいけないし働くかな…」
「兄様の転落人生がこの借金で始まるのですね…ぐすり。借金に次ぐ借金で負債は雪だるまのように膨らみ、借金取りから逃げ回る生活に…およよ」
「なにその悲惨な人生。なんねーから。最悪踏み倒すし」
「踏み倒さないで下さい。宜しければ私から依頼したい仕事があるのですが」
仁は椅子に座り直すと左手で頬杖をつき、右手の指でテーブルをとんとんと叩き始めた。
「また俺達をひっかけるつもり満々だろう?コンロンカに対してあんなブラフ打ってどうすんだよ?」
ユーリは一瞬だけ怪訝な表情を浮かべたが、それもすぐに消えた。
「それは…そうですね、仕事を受けて頂ければ私の狙いも少しわかると思います」
「どんな仕事なんだ?」
「とある人にある物を届けて──」
「おいシアちゃん、話は終わったのか?」
話を聞いているのかいないのか、テーブルの上で陶器のグラスをコロコロと転がして遊んでいたオルテンシアに赤ら顔の男が声を掛けた。その男は四十くらいの顔つきにもじゃもじゃとした豊かな髭を蓄えた大男で、大柄な筋肉質の体が押し込まれた厚手の服には所々黒っぽい泥で汚れたいた。
「なに、お兄さん?」
「シアちゃん、病気だったけど良くなったって聞いたよ。暇そうにしてるし、快気祝いに奢ってやっからあっちで一緒に飲もうぜ」
「え?奢り?行く行く」
「あ、シアさん!」
オルテンシアは差し出された男の無骨な手を握り返して椅子から立ち上がり、愛莉珠が制止する暇も無く隣の人だかりの中に消えていった。
「ひょー、女神降臨だー」
「オルテンシア様最高────!」
「回復おめでとう!」
「「「乾杯───!」」」
途端に店の半分を占拠するような人だかりができ、グラスをぶつけ合う音と共に零れたビールや果実酒の水滴が空を舞う。
「ああ…もう…まだ話は終わってないのに…」
人混みの向こうに隠れて見えないオルテンシアのものか、グラスを握った手が振られているのが人混み越しに見えた。
「今後の予定はあんたたちに任せたから、結果だけ教えてー」
愛莉珠の呟きが聞こえたのかオルテンシアが返事をした。
「病み上がりなのに、飲み過ぎてまた倒れても知りませんよ?」
「だいじょーぶだいじょーぶ。ほら、おかわり!」
「おうよっ!次だ」
「ほら一気、一気、一気…」
オルテンシアがいる集まりから注文がどんどん飛び、酒と食べ物を持った女中が何人も忙しく出入りし始めた。
「ああもう…」
「病み上がりなのに、あんなに飲んで大丈夫なんですか?」
ルーが心配そうな声で愛莉珠に声を掛けた。
「多分…」
「ま、酒を飲めるくらいに元気になったって事かな」
「そうかな…?そうですよね」
「ほら、兄ちゃん達もそんなチビチビやってないで飲めよ」
別の男がビールの入ったグラスを持ってきて仁達に手渡す。
「あの、私、お酒はちょっと…」
「良いから良いから」
無理矢理手渡されたグラスを受け取り、愛莉珠は困った顔を見せた。
「もう、愛莉珠も仁も湿っぽい顔してるわねえ」
テーブルの上に乗ったオルテンシアは人混みの向こうから仁と愛莉珠を見下ろしている。酒が入ったせいか健康的に肌の赤みが増していた。
「いい、これは私の快気祝い。治ったの。もう元気なの。分かった?分かったらそこの四人全員立つ!」
仁達は四人とも狐につままれたような表情の顔を見合わせると、全員同時にぷっと吹き出した。
「はいはい、分かりましたよ女神様」
「仕方ないですね」
「オルテンシアさんって、いつもこんな感じなんでしょうか?」
「どうでしょうね。とりあえずもう元気にはなられたようだ」
四人ともグラスを持ったまま立ち上がりオルテンシアの方を向いた。
「よーし、んじゃもう一回乾杯するわよー!唱和よろしくねー」
「「「おうよっ!」」」
何人もの勇ましい声が重なる。騒がしい店の中、人波の向こうでテーブルの上に立つオルテンシアにはグラスが届かないので仁達は四人でオルテンシアの方に向かい四人でグラスを合わせようと待っている。
「私たちの旅に!」
「「「俺達の旅に!」」」
オルテンシアの声に続いて全員が声を合わせて返答し、一瞬だけ店内が静寂に包まれた。
「乾杯───!」
「「「乾杯─────!!」」」
乾杯の音頭と共にオルテンシアは仁達に高々とグラスを持ち上げ、中身を一気に飲み干した。店内には陶器製のグラスが打ち合わされるカンカンという軽い音が響き渡り、勢いあまってグラスから飛びだした飛沫が大量に飛び交っている。
仁達も合わせるようにオルテンシアに向かってグラスを持ち上げてグラスを互いに打ち鳴らす。周囲の男達も祝いの言葉を述べながらガンガンと仁たちのグラスを叩いてきた。
「私達の旅…か…」
乾杯の余韻が冷めてからビールを一口飲んだ仁は、テーブルの上に立ったまま冒険譚のような物を語っているオルテンシアを見ながら独りごちた。
「そうですね、まだ始まったばかりの旅ですね」
隣に立つ愛莉珠もグラスを手に少し頬を赤くし、微笑ましそうにオルテンシアを見ていた。
「そうだな、願わくばこれからも………」
雲一つ無い夜空の頂点付近には金色に輝く上弦の月が一つだけ浮かんでおり、夜の帳が降ろされたヴェスビオの街を照らし出していた。だが、月よりもさらに明るい街は空から見ると暗い平原に浮かぶ太陽のようにオレンジ色に輝いている。その輝きと喧噪は金色の月が西の地平に近づくまで止む事は無かった。