#32
紺青から紺瑠璃色に変りつつある東の山嶺から太陽が昇り始める。周囲の平原は広く、見渡す限り地平線だが東側だけは地平線の向こうに空に溶け込みそうな色をした山脈がぼんやりと見えている。紺瑠璃色に染まった空は太陽の出現と共に深い藍色だった世界を曙色に染めていく。山嶺の陰から顔を覗かせ始めた太陽は大気の揺らぎのせいか山脈との境界部分の形がゆがんで見えており、大地との別れを惜しむかのように山脈を捕まえようとしているように見えた。
そんな太陽の頑張りも虚しく太陽は少しずつ上に引っ張られるように動き、その動きに合わせて曙色だに染まっていた周囲も徐々に淡黄色になり、それから白へと変わっていった。
草原のただ中にある遺跡にも朝日が差し込み、毛布にくるまり寝ていたルーの顔を照らし出す。
「ん…」
ルーは眩しいのか目を瞑ったまま眉を顰め、ぴくぴくと狐耳を動かす。それから指で目をこすり眠たげな目を少しだけ開けて周囲を見渡した。
隣ではユーリが毛布にくるまってまだ寝ており、少し離れた位置にある毛布の塊はオルテンシアのようだ。カチャカチャと金属音がする方向に目をやると愛莉珠が食事を用意している様子が見えた。ルーは上体を起こすと、口に手を当てて小さく欠伸をした。
「ふぁ…おはようございます、アリスさん」
「おはようございます、ルーさん」
寝床から起き出したルーは手櫛で髪を梳きながら歩いてくると、愛莉珠がかき混ぜている鍋を覗き込んだ。野菜と香辛料の香りがする。
「スープですか」
「ええ、具は乾燥野菜と干し肉を刻んだものですが。お嫌いでなければルーさんもどうぞ」
「でも…」
ルーは後ろで寝ているユーリとオルテンシアの方を見るが二人はまだ起き出す気配はない。ルーのお腹からくぅと小さな音が聞こえると愛莉珠は
くすりと笑い、返事を待たずに木製の器にスープをよそい、スプーンと一緒に手渡した。
「どうぞ」
「ありがとう」
ルーは苦笑しながら受け取ると、近くの石に腰掛けて一口飲んだ。
「あ…美味しい…」
「ありがとう御座います」
愛莉珠も自分の分を器に入れると鍋を火から遠ざけ、ルーの近くに腰掛けてスープを飲み始めた。
「料理もお上手なんですね」
「人並みには何とか」
「これだけ出来れば大した物ですよ。私なんて煮炊き位しか出来ませんし、味なんて二の次って感じですから」
「あはは…」
困った様な表情で苦笑いする愛莉珠を見ながら、ルーは残っていたスープを皿から一息に飲み干した。愛莉珠がスプーンを使って少しずつ飲んでいるのを見てルーは小声で独りごちる。
「あれだけ強いのに、こうやってるとお嬢様にしか見えないんだから詐欺みたいよね」
「…?」
独り言が聞こえなかったのか愛莉珠は小首をかしげるが、ルーは気にせずに立ち上がると愛莉珠に食器を返した。
「ありがとう、美味しかったです。所でジンさんが見当たらないようですが…」
「兄様なら昨日獣人と戦った所に行ってますよ」
「ん…?何をしに?」
愛莉珠はルーの問いかけに困った表情を浮かべるだけで返事はしなかった。ルーはよく分からないと眉根を寄せた後に立ち上がった。
「では、少し様子を見てきますね」
「あ、兄様に朝ご飯が出来たって伝えておいて下さい」
「ええ」
ルーは愛莉珠に返事をし、ユーリの様子をもう一度見てから昨日の戦場跡に足を向けた。
ルーが昨日の戦闘場所に来てみると、瓦礫の少ない開けた場所の隅でスコップを使って土を盛り上げている仁が見えた。仁が作ったのか、短い草に覆われた地面の一部に茶色い土の山が出来ている。その様子を見たルーは一瞬呆れた表情を見せたが、すぐに表情を険しくすると眉間に深く皺を刻み込んだ。立ち止まって様子を見ていたルーは再び仁に向かって歩き出す。
「墓ですか」
「あぁ」
盛り土が終わったのか仁はスコップを地面に突き刺し、あらかじめ用意しておいたのか大きめの四角い石を抱えると、盛り土の中央まで運んで中心に置いた。不機嫌そうに眉を顰めたままその様子を見ていたルーは、一度周囲を何度も見回してからその表情に見合った声音で仁に話しかけた。
「分かっているとは思いますが、その獣人たちは昨日私たちを殺そうとしたのですよ?」
「そうだな、気を悪くしたなら謝るよ」
「ええ、悪くしました。ちょっと掘り起こして切り刻んでいいですか?」
仁は子供に我が儘を言われて困っているような表情を見せ、地面に刺したスコップに手を付いてもたれ掛かる。
「俺の気はもう済んだから、やりたいなら止めないけど…ホントにやるの?」
「やるわけ無いじゃないですか面倒くさい」
ルーは戯けたように肩をすくめて軽く言うと、口調を真剣な物に変えて話を続けた。
「ですが埋めてやるほどの憐憫は沸きませんね。その辺の野獣に食わせてやる位が順当です。コンロンカの獣人なんて全員殺してくれたらよかったのに」
「そりゃまた物騒な話だな……」
吐き捨てるように言ったルーに仁はそう応え、スコップにもたれたまま首だけ上げて空を見上げた。徐々に青みが増していく澄み切った空に、小さな雲がぽつりぽつりといくつか浮いている。ルーも釣られたように顔をあげ、暫く空を見てから呟いた。
「聞かないんですね?」
「なにを?あ、スリーサイズなら是非聞きたい所だけど──」
「馬鹿っ!理由ですよ、り・ゆ・う!」
話を茶化す仁にルーが少しイラついた表情で大きな声を上げると、仁もすこし真面目な表情でルーを見返した。
「興味はあるけど聞いても話しても楽しそうな話とは思えないしな。美人と話すならもっと楽しい会話がいいね」
「そうね、楽しくない、下らない、何処にでもよくあるような話ですよ……」
仁は言葉も無く苦い笑みを浮かべるルーを暫く見つめていた。南風が暖かい空気を運び、仁とルーの髪を僅かに揺らす。
「……………たんですよ」
「?」
ルーの言葉がよく聞き取れなかったのか、仁は小首をかしげる。
「両親を殺されたの。村ごとボーって焼かれて」
「そっかぁ…」
手を動かしてボンっと何かが爆発するような表現をしながらそう言ったルーを、仁は同情するような悲しげな目で見つめた。
「そっかぁ…」
もう一度そう呟くとまた顔を上げて空を見上げる。暫くすると先ほどのような南風がまた吹き二人の髪と服を揺らした。すると風に押されたようにルーが仁に近づき数歩の距離を詰め、仁に顔を近づけ上目遣いに見つめる。短く切られた京緋色の髪が風に揺れて仁の顔をくすぐる。仁がむずがる表情をするとルーは楽しそうに唇の両端を上げた。
「慰めてくれないの?」
「何も知らない俺が言っても詮無いさ」
「あーあ」
ルーはくるりと体を反転させて密着していた仁から離れた。
「普通の人は『大変だったね』とか『ご愁傷様』とか『復讐なんてよくないよ』とか言う物よ。同情でもしてちょっとは獣人を殺してくれるかと思ったのに」
「ご期待に添えなくて悪いね。あ、もちろん可哀想だとは思ってるよ?ただ俺みたいに温々育ってる奴に言われてもムカツクかなーって思って」
「そういえば死体どころか血を見ただけでも倒れるって聞いてたから、超お坊っちゃんで貴族の馬鹿ガキみたいなのを想像してたなー」
「で、実際会ってみてどう思った?」
「村の悪ガキって感じね」
「ははっ、違いない」
「温室育ちにしても、襲ってきた相手をちゃんと埋めてやるのは普通じゃないわね…これ毎回やってるの?」
ルーは呆れたように大きな土塁を指差した。
「ん…いや、初めてかな。自分がなんとかできる範囲では殺しも、殺させもしないようにしてたんだけど…」
「今回は流石に手が回らなかった?」
「ん──、まぁそんな感じ」
困った表情で言いよどむ仁を訝しげに見ながらルーは質問を続けた。
「で、またなんで埋めてやろうなんて思ったの?野ざらしは可哀想だとでも思った?」
「……」
仁は少し考えると盛り土の中央まで歩いて行き、石を優しく撫でてやる。
「こんな奴らでも、死んだら悲しむ誰かが居るんだろうな…って思ってね。せめて墓くらいは合った方がマシかなって思っただけさ」
「こんな仕事してる連中にそんなのいるとは思えないわね。もしそんな人がいても大切な人を殺した連中が作った墓なんて嬉しくないでしょ。私だったら掘り出して別の場所で眠らせてあげるわ」
「目印くらいにはなるさ。獣にも食われないしな。まぁ意味なんか後付けで、俺がやりたいからやっただけって事でいいよ」
「はぁ………もういいわ。なんだか強者の余裕ってやつを見せつけられたみたいで自分が惨めになってくる」
ルーは大きく溜息をつくと額を抑えて下を向くと、近づいてきた仁がルーの頤にそっと手を宛てて上を向かせる。今度は仁の方から顔を近づけて正面からルーの目を見つめた。
「あ…」
「ルーさんみたいな美しい女性を悩ませた償いをさせてほしい、今度時間を取って貰えたら──」
「アリスさん──」
「ごめんなさいごめんなさいまだ何もしてませんしてませんともー」
仁はその場にがばっと素早くひれ伏すと顔を地面に伏したまま謝罪の言葉を続ける。突然土下座を始めた仁に驚きながらもニタニタと嫌らしい笑みを浮かべるルー。
「いやちょっとルーさんの目にゴミがだなー」
「──が、ご飯が出来たから戻ってこいって言ってたわよ」
「っていねーのかよ!!酷いよルーさん!」
上体をがばっと上げて涙目で抗議する仁。
「あはは、今度からお痛されそうになったらこの手で逃げれば良いのね。アリスとオルテンシアがジンを弄って楽しむ気持ちがちょっとわかった気がする…」
「ヤメテ!!いやまじ心臓に悪いから!もぅ…」
楽しそうに笑っているルーを見ながら仁は立ち上がり、スコップを抜き取って肩に担いだ。
「んじゃまあ、飯を食いにもどりますか」
「ええ。私は先に頂いちゃったけどね」
仁が歩き出すとルーもその後を数歩遅れて続いた。ルーは機嫌が良さそうなステップで歩いている。
「ところでルーさん」
「ん?何?まだ話し足りないの?」
ルーは少し楽しそうな声で答えた。
「普段の丁寧な話し方もいいけど、今の砕けた話し方のほうが俺は好きだよ」
「あっ!」
ルーは慌てて口に手を当てると頬を赤く染めた。
「もうっ、馬鹿ですねっ!ジンさんは!」
「残念。もう戻っちゃった」
石でも投げてきそうなルーから逃げるように仁は野営地に向かって駆け出した。
◆
「今日は暖かいわねー」
オルテンシアは暖かい朝の日差しを受けて気持ちよさそうに目を閉じると、大きく深呼吸した。
ここは仁達がヴェスビオの街で定宿にしている釣り合う宿り木亭。その一階にある食堂兼酒場で、道路に面した部分は壁がほとんど無くオープンテラスのようになっていて朝の白い光が店の中を明るく照らしている。店の前の道路は裏通りではあるが働きにいくのか人通りもそれなりで、宿屋の店員が小さな台を出して通行人相手にパンと珈琲を売っている。仁達は日差しがよく届く出口近くのテーブルに座り、食事を取りながら外の様子をなんともなしに眺めていた。
「もうそろそろ春だからな」
仁は口の中で嚙んでいた物を飲み込むと、テーブルの中央の皿からクロワッサンを一つ取って齧り付いた。
テーブルに座っているのは仁、愛莉珠、オルテンシアの三人で、各自の前には飲み物が入ったカップがあり、テーブルの中央に置かれた皿にはクロワッサンがまだ二つ残っている。オルテンシアも珈琲を少し飲むと一つ手に取ったが、すぐに食べずに手の上でコロコロと揺らしている。
「甘いのは嬉しいけど、やっぱり何個も食べると飽きるわね」
「何かパテでも貰ってきましょうか?」
「入ってるのがブルーベリージャムだからなぁ…合わなそう」
オルテンシアは諦めたような表情でクロワッサンの端っこをパクリと囓り取る。
「しかしこの国の朝食はパンとパスタばっかりだな」
「あんた達の国…なんつったっけ?そこはどんな朝食なの?」
「イノーデラですよ。イノーデラでも朝食は大体パンですが、果物やチーズ、サラダなんかも一緒に食べますね」
オルテンシアは半分程度になったクロワッサンを片手で弄びながら、食事を想像するように目を閉じて椅子ごとガタガタと前後に体を揺らす。
「ふーん。このまま世界食べ歩きの旅ってのも悪くないかもね」
「ま、急いでお前の封印を解く方が先だけどな。手に入れた奴はどうするんだ?まだ解いてないんだろう?」
「うん、昨日は戻ってきたばかりで疲れてたしね。この後部屋に戻ってやってみようと思ってるの。どうなるか分からないから仁も来てね」
オルテンシアは椅子を揺らすのをやめ、テーブルに乗りだして嬉しそうに微笑んだ。
「大爆発でもしたら押さえ込めって?郊外でやったほうが良いんじゃないか?」
「え〜〜やだよメンドくさい。あの変態も危険は無いみたいな事言ってたから大丈夫でしょ」
「正規の手順を踏んで解放するのですから、あの時みたいに力が暴走したりはしないでしょう」
「あの時?」
「あ〜〜、あの時な」
愛莉珠と仁だけが分かる会話をしてオルテンシアが唇を尖らせた。
「何よあの時って?教えなさいよ」
「シアが封じられていた神殿、結構壊れてたろ?」
「あー、なんか大分壊れてたわね。まさか…」
「シアが封印されていた部屋への扉を守っていた竜はなんとか気絶させたんだけど、扉が開かないように封印されててさあ…愛莉珠に頼んで扉ごと叩き切って貰ったんだ」
「無茶するわねぇ…」
呆れた表情を見せるオルテンシアに仁は手を大きく動かしながら説明する。
「そしたらもう扉からすげー力が溢れ出て大変だった。ドーン!って。地震みたいにガンガン揺れたし」
「あの時は神殿がある山ごと吹き飛ぶかと思いましたね」
「そうそう、頑丈な作りで良かったよなー」
「ですねー」
「頑丈なのは神殿よりもその後何事も無かったかのように私を助けに来たあんたらよ…」
あははと揃って笑い声を上げる仁と愛莉珠を横目に、オルテンシアは脱力してテーブルにつっぷすように頬杖をついた。
♦
「さて、やってみますか」
オルテンシアが部屋の中に入りながら明るい声を上げた。部屋は狭く、簡素なベッドが二つ、荷物を入れる鍵付きの箱、小さなテーブルと椅子が置いてあるだけで窮屈に感じられる程だ。
オルテンシアはベッドの一つに乗ってあるがをかくと腰の後ろにくくり付けていた棒状の包みを外し始めた。愛莉珠と仁も続いて部屋に入ると愛莉珠はオルテンシアの隣に、仁はオルテンシアと向き合うようにもう一つのベッドに腰掛けた。オルテンシアは楽しげに鼻歌を歌いながら腰の包みを外すと自分の前に置き、腰にさげた別のポーチから遺跡で手に入れた腕輪も取り出すとその横に置いた。布に包まれたままの物は長さ40cm、直径4cmくらいの棒状で、曲刀のように少し反りが入っていた。
「さて、どっちからいこうかしら」
「どっちからって、腕輪をはめるだけだろ?」
「まーそーなんだけど」
オルテンシアは腕輪を手に取った。腕輪は角が丸い石が数珠つなぎになっており、黒と茶色の縞模様が微妙な色合いの変化を見せている。輪の直径は4cm程だが伸縮性のある紐で結ばれているのか、オルテンシアが指で輪を広げたり縮めたりして広がる大きさを確かめている。暫く弄ぶと手のひらに載せて仁の方に突き出した。
「はい」
「何?」
「付けてみて」
「はぁ?やだよ。何が起こるかわかんねーじゃん。自分で試せよ」
「嫌にきまってんじゃない!あの変態が作った物よ?なんかやらしい効果があるに決まってる!」
「そんなもん人に付けさせるなよ!しかもなんだよ嫌らしい効果……やらしい…?」
激しい勢いで言い返していた仁だが途中から何かを考え込むように言葉がゆっくりになる。そしてニヤリと口端を上げた。
「ふむ、危険かもしれないから先に俺がつけやるよ」
それを見たオルテンシアは慌てて腕輪を引っ込める。
「やっぱヤダ。なんかやらしい事考えてるでしょ?アンタ」
「やだなー、そんな事あるわけないじゃん」
自分の躯を守るように抱いたオルテンシアは、ケタケタと乾いた笑い声をあげる仁から遠ざかるように身をよじった。
「いーえ、その笑い方は絶対なんか考えてた」
「見え見えですよ兄様。大方呪われたふりでもして私やシアさんに抱きつこうとでも考えたんでしょう」
「ぎくっ」
「全く…懲りないんだから…」
オルテンシアは呆れたように溜息をつくと腕輪を一旦置き、布に包まれたままの棒の一端を持つと、布を縛っていた紐を慎重に外した。紐を外す時に擦れたのか、握っていない端の布が捲れて白い彫像のような物が露わになるとオルテンシアはぞくりと身震いをした。それは少し光沢がある白い木材で掘られた裸婦像で、髪の長い女性が両手を頭の上で縛られ吊されている格好だ。オルテンシアは像を目の前に持ち上げてしげしげと眺める。
「綺麗よねー」
「じ…自画自賛ですかシアさん…自分ですよね…それ?」
「多分ねー。うーん、でもちょっと胸が小さい気がしてきた…お尻もなんか大っきいような…」
ベッドの反対側から見ていた仁には彫像の背中側が見えており、髪が大きく左右に分かれ流れるデザインになっていたので背中やお尻が丸見えだった。
「いや、こんくらい大きい方が俺は好きだな」
そう言って仁は指で彫像のお尻をつるんと撫でると、オルテンシアがびくりと背を反らせた。
「ひゃうんっ!」
── ドズゥゥゥン!
石を積んで作られた壁際の床にパラパラと石が床に落ちる音がしたと思うと、その上にドサリと仁が落ちてくる。
「痛たたたっ…ひっ」
飛び起きるように上体だけを起こして腰を押さえている仁の目の前にヒュっと音を立てて白銀の穂先が振ってきた。
「今ここで死にたいようですね?…兄様。あれほど触るなと言っておいたのに」
ベッドの上で仁王立ちになった愛莉珠が片手で握った槍を仁の目の前に突きつけている。黒いオーラを背後に背負った愛莉珠の口元は微笑みを浮かべているが、重そうな瞼に半分閉じられた目は全く笑っていない。
「いや、ちょっとまて悪い!悪かった!それとシアの感覚が繋がってるとか忘れてただけだってマジで!」
「本当…ですか…?」
「まてまて近い近い!真剣はヤバイって刺さるって!」
眉間から3㎝ほど離れていた槍の穂先が段々と近づいてくるので仁は慌てて座ったまま後ずさるが、すぐに背中が壁にぶつかって止まってしまう。後ずさっている間も不思議と眉間と剣先の距離は変わらず、逃れようと壁に頭を付けると剣先が眉間に当たり少し肌にへこみが出来た。
「ちょっとシアからも何とか言ってくれよ?俺このままだと死んじゃうよ?」
「ふぅ…もーすっごい悪寒が走ったわよ」
オルテンシアは悪寒を振り払うように自分の躯を抱くと大きく身震いすると、槍と壁に挟まれて身動きが取れない仁を汚物を見るような目で見つめる。
「まぁいっぺん頭蓋骨を貫かれてみるのもいいんじゃない?きっとアンタのことだから死なないし、いっぺん死んでみたらその馬鹿も治るかも知れないし」
「シアそれ前半と後半で言ってること変わってるし!」
「一度殺してみたら馬鹿が治りますかね?直りますよね?きっと。そうですよねシアさん?」
愛莉珠は左半身を前に出すと、右手だけで握っていた槍に左手も添えた。
「あー、うんそうね。やっちゃって良いわよ愛莉珠」
「お前らなぁ!悪ふざけもいい加減に」
仁が右手を上げて手を開いた。
── ドンドンドンッ!
薄い木材を何度か叩いたような音がすると三人とも驚いたようにびくりと身を震わせた。愛莉珠は慌てて槍の穂先に覆いを付ける。
「あんたら五月蠅いよ!さっきの音はなんだい?また何か壊したんじゃ無いだろうね?」
ドアの外から年配の女性の声が聞こえてくる。ドアはさらに何度か叩かれた。
「ほら開けな。開けないと勝手に開けっちまうよ?」
「はい、今開けます!」
愛莉珠が慌てて閂を抜いてドアを開けるとそこには女中の格好をした恰幅の良い四十代くらいのふくよかな女性が立っていた。その女性はズカズカと部屋に入ってきたので愛莉珠は慌てて脇にどいて女性を通す。
「ごめんなさいカロリーナさん。いつもご迷惑をおかけしまして」
「今回はどこも壊しちゃいないようだけど…」
ぺこぺこと頭を下げる愛莉珠の横を抜けて部屋の中を見渡していたカロリーナは仁がぶつかった部分の壁を見ると視線を止める。石造りの壁はヒビこそ入ってはいないが所々が欠けて今だにパラパラと崩れていた。そこから視線を下に向け、座り込んでいる仁を見ると首を左右に振りながら大きく溜息をついた。
「はぁ、またジンが悪さしたのかい?」
「ええ、困った兄様でして…」
カロリーナは壁を撫でて壊れていないか確かめている。三人ともその様子を心配そうに見つめ、そろって冷や汗を流している。
「折檻もいいけどそのうち壁をぶち破るんじゃ無いだろうね?まったくあんたら狩猟者どもは馬鹿力でしょうがないよ。いくらお得意様だからってこれ以上問題を起こすようじゃ出てって貰うからね。ジンも大人しくするんだよ?」
カロリーナに鋭い目つきで睨まれた仁は正座したままこくこくと首を振った。カロリーナは一通り室内を見て納得したのか出口まで戻ると、愛莉珠に向かって右手を突き出した。その動きにも三人はびくりと体を震わせる。
「その壁。後で塗り直すから。四十リーブラね」
愛莉珠が慌てて財布から大きめの銀貨を四枚取り出し、その手に乗せた。カロリーナは銀貨をよく確認してからポケットに仕舞う。
「もう面倒かけるんじゃないよ!」
カロリーナは最後にそう言いドアを勢いよくバタンと閉めた。ドスドスという階段を降りる足音が小さくなっていく。
「はぁ…あのオバサン愛莉珠より怖い…」
緊張して強ばっていた体から力を抜き、へにょりとベッドに倒れ込んだオルテンシア。愛莉珠も疲れたのかベッドにバタリと倒れこむ。
「また追いだされるのかと思ったぜ…何もしてないのにもう疲れたな」
「兄様が嫌らしいことをするから悪いんです」
ベッドにうつ伏せに倒れたまま話す愛莉珠の声は妙にくぐもっていた。
「だから本当に忘れてただけだっての。覚えてて死ぬ気で触るんだったらもっとこう…ねちっこく触って楽しむわ!」
「妙に説得力のある言い訳に聞こえるのは疲れてるせいかな…」
「次に死ぬ気で何かしようとする時は、辞世の句を詠んでからにして下さい。その間に止めますから」
「なにそれ俺が歌を詠み始めたら犯罪するみたいな扱い!詠まないけど!」
仁は脱力して床に横になったまま呟いた。
「どーすんのこれ、続き、やる?」
「なんか疲れたしちょっと寝る」
オルテンシアはシーツを頭まで被るともぞもぞと動いて横になった。
「お昼ご飯食べてからにしますか…」
「そだな…」
◆
「さて、仕切りなおしね」
昼食後、三人は再び集合して同じ配置に座るが、仁は午前中と違ってオルテンシアには手の届かない位置に座っていた。
オルテンシアは腰に付け戻していた彫刻像を再び外してベッドに置くと、そのまま布を広げていく。半分ほどが白い彫刻部分で、彫刻の足下からは黒光りする丸い持ち手のような物が伸びていた。少し反りがある持ち手は柄頭が少し膨らんでおり、装飾が掘られた握りの部分には滑り止めのように五つの溝が掘ってある。持ち手の軸が太いが、像が先端に付いた魔術師が持つ短杖のような形状だ。オルテンシアは布で像の部分を包んで持つと、持ち手側をよく見えるように持ち上げた。
「どう見てもこの溝よねー、それじゃ嵌めてみるわよ」
オルテンシアは置いてあった腕輪を右手で拾って輪を広げると、左手で持った短杖にかけるように近づけていく。仁は真剣な表情でその様子を見つめていたが、愛莉珠は顔を覆った指の隙間から横目で見ていた。
オルテンシアは先端の膨らみを超えた部分、溝より手前で右手を離した。縮んだ腕輪の直径は持ち手部分より短く、ずれること無く張り付いている。白い石のような物が繋げられた腕輪は石と石の間隔が広がり、黒い棒に白い斑点模様を作り出した。
「ここまでは変化無し…と」
オルテンシアは腕輪を指で挟むとそのままずらして溝に嵌めようとする。誰かがゴクリと喉を鳴らす音が聞こえたがオルテンシアは指を止めること無く動かし、腕輪はカタンと小さな音を立てて一番外側の溝に嵌まった。
「あれ?」
数秒まっても特に何も起こらず、オルテンシアは短杖を縦に持ってしげしげと眺める。
「何も起こらないわね」
「そうですね…」
「お」
取り付けた腕輪が光り始めたのを見て仁が声を上げた。
「おお」
腕輪から漏れ出した光が短杖本体にも伝わり全体が光に包まれると、その光がオルテンシアに流れ込むように伝わっていく。オルテンシアは苦しむこと無く気持ちよさそうに目を閉じた。愛莉珠も顔から手を外して驚きの表情でその様子を見ていた。
「どんな感じですか?」
「んー、無くなっていた体の一部が戻ってくるような感じかなぁ?」
「腕輪にあった淵源がシアに流れ込んでいる感じはするな」
会話をしている間に腕輪の発光は弱くなっていき、最後に二、三度瞬くと消えてしまった。
「あーあ、たったこれだけかぁ」
「ま、五分の一だしな」
「それでも普通の人よりはかなり淵源が多くなりましたけどね。神族はシアさん以外だと二人しか会ったことないですが、やっぱりシアさんも同じくらいの淵源を持ってたんですか?」
「ママとあの変態?そうねぇ、三人とも特に力が強いってわけでもないから大差無かったと…痛っ!」
オルテンシアが額を押さえて苦痛の声を上げた。左手で持っていた短杖も手放して両手で頭を抱えるように蹲る。
「シアっ!」
「シアさんっ!大丈夫ですか!?」
二人は蹲るオルテンシアに近づき心配そうに声をかける。
「なんか……が流れ込んで…嘘っ!?嫌ああっああああっ!」
オルテンシアは体をびくんと跳ねさせ絶叫すると、ベッドに仰向けに倒れ込み手足を突っ張らせるように伸ばしてシーツを握りしめる。
「なんで…こんな…ぐっ…うっ…あっ、やぁ!」
仁はオルテンシアに駆け寄り右手でオルテンシアの後頭部を支え、左手を額に宛てて何かを探る様に目を閉じた。
「なんかちょっと異物が混じってる感じだが……シア、大丈夫か?」
仁はオルテンシアの苦痛をなんとかしようと力を操作しようとするが一向に具合が良くなる気配は無く、オルテンシアの悲痛な声は止むことが無かった。
「くそっ!どうやったら直るんだよこれ!何でも出来るんだろ俺は!」
「ぁっ…だい…丈夫、なんとか…んぁ…んんっ!ちょっと…コレをぐっ…持ってた人の…記憶が…流れ込んでいるだっ!…け…」
オルテンシアは苦しそうに表情を歪めながらも慌てふためく仁を慰めるように答えたが、時折体を痙攣させながら息も絶え絶えの様子だ。
「記憶…?」
「んっ…悪いっ…けど…仁は出てっ…んぁっ…ってぇ…」
「出てけったって…」
仁は口ごもった。ベッドの上で何かに耐えるようにぎゅっと縮こまりながら時折体を震わせるオルテンシアの様子はとても痛々しく見える。
「いい…から…ああっ!出て…けぇ!んあぁ!」
「兄様!」
切実な様子で叫ぶオルテンシアに気圧されたのか愛莉珠が仁を引っ張って外に追いやろうとするが、仁は出て行きたくないのか抵抗する。
「ちょっと!おい!何も出来なくても側に居てやるくらいいいだろう!」
「女の子が苦しんでる姿を見て楽しむ趣味でもあるんですか?私が付いてますからここは我慢して下さい」
仁は愛莉珠に無理矢理引っ張られ、扉を開けた廊下へ追いやられてしまう。
「おいシア!本当に大丈夫なのか?」
「…あっ…ゴメ…ン…ねっ…ひぁんっ!」
部屋の外から声をかけた仁にオルテンシアの返事がかろうじて聞こえた。
「すみません兄様、心配なのは分かりますが………何かあったら呼びますから、ご自分の部屋か一階の食堂に居るようにして下さい」
半分閉じられたドアから顔をだしていた愛莉珠はそう言うと部屋の扉を閉じた。が、閉じきる寸前に仁が指を挟んで閉まりきるのを防いだ。
「………………………………」
「?」
扉はほとんど閉じられていてお互いの顔も見えない。何も言わずそれ以上の行動を起こそうとしない仁を不審に思ったのか、愛莉珠が声をかけた。
「………兄様?」
「………愛莉珠……また…………また、俺は何も出来ないのか?」
ドアの内側に居る愛莉珠に今にも泣きだしそうな仁の声が届いた。
「いいえ、今回は手遅れじゃありませんよ。シアさんだって立派な神族です。私も付いてますし、この程度でどうにかなるわけ無いですよ」
愛莉珠の言葉にドアを掴んでいた仁の手に力が入り、メキメキと音を立てて掴んでいる部分の扉が潰されていく。
「きっと苦しんでる姿を兄様に見られたくないんです。兄様だって自分が苦しむ姿を私やシアさんに見せたくはないでしょう?今回はシアさんの気持ちを汲んであげて下さい、兄様」
愛莉珠がそう言うと、ドアを掴んでいた仁の指から力が抜かれた。
「シアの気持ち…か……」
仁はドアを掴んでいた手を離して引き抜いた。
「分かった。ここで待つよ。でもヤバそうになったら入るからな」
「…はい…」
愛莉珠はそんな仁の言葉に苦笑いを浮かべて扉をそっと閉じた。
ドアの前にうつむき加減に立っていた仁はふらりと体を傾かせると扉とは反対側の壁にもたれ掛かり、そのままズルズルと床に座り込む。
暫くその体勢でいた仁はおもむろに握りしめた右手を振り上げ──
「クソがっ!!」
思い切り振り下ろされた腕は大きな音を立てて床板をぶち抜いた。
「なんで…なんでいつもこうなんだよ…」
俯いて座り込んだ仁の黒い上着にぽたり、ぽたりと滴が落ち、染みを広げていった。