#29
白い光に照らされた周囲は大きな灰色の石材で覆われており、地下のためかじんわりと湿った空気はカビ臭く、淀んだ空気を吸い込むと重たい感じがする。通路側の先頭に居るルーの頭上にはふわふわと頼りなく光る球が浮いており、周囲を淡い光で照らしていた。その光球によって照らされた通路の高さは2mほどあるが幅が1mもなく圧迫感が強い。通路は緩やかな下り坂が正面に真っ直ぐ続いていて奥が10mほど照らされているが、その先は闇に包まれてよく見えなかった。
「シアさん、足下気をつけて下さいね。濡れてて滑りますから」
「大丈夫だって…うわっっと!」
「おっと」
滑って石段の上から転げ落ちそうになったオルテンシアを愛莉珠が下から支えた。地上から通路に入る入り口の階段は一段あたり50㎝ほどの段差があり階段と呼べるかどうかも微妙な物だったが、その階段を6段降りた所からは横穴の通路になっていた。降り注ぐ雨は強くなってきており階段付近は直接雨が降り込む為か、仁達は少し通路側に入ったところに固まっている。外に張ったタープ類は戻った時の為にそのまま残してきたが、盗難を避けるために他の荷物類は全て背負ってきていた。
「言ってる側からそれか。気をつけてくれよ」
「うっさいわねぇ。分かってるわよ」
文句を言うオルテンシアを仁は片手を振って抑えた。
「んじゃ、全員降りたし奥に行くか。ルーさん、先導お願いします」
「はい、では私が合図するまではその場を動かないようお願いします。基本は手で合図しますので」
ルーは待機、来て良し、罠有り等のハンドサインを説明していく。
「後列用にもう一つ明かりを出すわね」
「いえ、私は必要ありませんので、使えるのならこれを使って下さい」
オルテンシアが明かりを作ろうとすると、ルーは自分の上に浮かんでいる物を指差してそう言った。
「大丈夫なのか?」
「はい、夜目が利きますので遠くにこのくらいの光があれば大丈夫です」
「それじゃ、そっちのは仁に付けるわね」
「念のためにシアの所にも一つ灯りを出しておいてくれ」
「分かったわ」
オルテンシアが小声でブツブツと呟くと傍に新しい光球が生まれた。そして、手を軽く振るとルーの傍に浮いていた光球がゆっくりと仁の方に移動する。
「聞こえないように唱えるようになったか。感心感心」
「あんな恥ずかしい台詞を大声で言える訳無いじゃない」
「あれ、光系ってキーワード決めたの俺だっけ?」
「はぁ?なによそれ!あんたが決めたんでしょ!覚えてないくらいなら全部マトモなのに変えて貰うからね!」
眉をつり上げたオルテンシアが仁に掴みかからんばかりの剣幕で声を上げるが、通路の前の方にいる仁との間にユーリと愛莉珠がいるために近づけず、愛莉珠に押しとどめられている。仁は少し疲れたような表情でオルテンシアを見て、軽く溜息をついた。
「分かったわ分かった。今度ちゃんとしたのに変えてやるからそう興奮するなって」
「やったー!これであの恥ずかしい台詞群から解放されるわ!」
喜んだオルテンシアは笑顔でクルクルと回り出し、顔面から壁にぶち当たった。
「はぐぅ」
「ほらほら、狭いんですから気をつけて下さい」
蹲るオルテンシアを愛莉珠があやしていると、ユーリが驚いたように仁に問いかけた。
「キーワードと言うと、オルテンシアさんの神聖文字魔法のですか?」
「そうだな」
仁は面倒そうな表情を一瞬見せると先頭に居るルーの方に体を向けた。ユーリは背中を向けた仁に向かって言葉を続ける。
「ではジンさんは魔法も使えるんですね?あれだけの格闘術の腕前だというのに」
「ちょっとかじった程度にはな」
仁は背中を向けたままひらひらとユーリに手を振ってみせる。
「そうなのですか。風の噂で聞いたことがあるのですが、どこぞの国に強大な魔法の才能を持っていたのにそれを捨ててしまった人がいるらしいですね。力持たざる者からすると勿体ないと思う話ですが…」
「へー、そりゃ勿体ない話だな。さて、くっちゃべるのもこの辺にしてそろそろ進むか。ルーさん、先導お願いします」
「よろしいのですか、ユーリ様?」
ユーリはまだ話足りない様子だったが、仁の様子を見て諦めたような溜息をついた。
「ふぅ……仕方有りません、進みましょう」
「はい。では先行しますので、合図を送ったら前進をお願いします」
ルーは壁や床、天井を見渡し、床や壁に顔を近づけて注意深く調べながらゆっくりと進んでいき、明かりから離れた暗い場所まで進むと振り向いて「来い」のサインを送ってくる。合図を受けた仁達はルーの背後まで歩いて近づいていった。暗い場所に居るルーの瞳は光を反射してギラリと光っており、瞳孔はネコ科の動物のように大きく広がっていた。
「なるほど、その目なら暗くてもよく見えそうだ。キラキラ光って綺麗な瞳だね」
「馬鹿な事言ってないで、一応静かにお願いします」
ルーは仁からついと視線をつっとそらし、また前方の通路を調べ始めた。
「あれだけ入り口で大声上げてて何も無かったんだ。大丈夫じゃないのか?」
「音や声に反応する罠もあります。それに入り口が封鎖されていたとはいえ、何が居るかわかりませんので…」
「それもそうだな。流石専門家だ」
「私たちも何度か遺跡の探索もしましたが、他の人が調査済みの所ばかりだったので、ここまで用心深くはしてなかったですしね」
「ここは入り口に封印までしてあるような所ですからみなさんご注意願います。それと、大丈夫だとは思いますが壁にも触れないようお願いします」
全員が肯定の意を示したのを確認するとルーは再び罠を調べながらの前進を続ける。ルーの調査を待っている仁達は狭い通路の中央に並んで立っていた。順番は前から仁、ユーリ、オルテンシア、殿が愛莉珠という順番だ。
「魔法の中には罠を調べる物もあると聞いたことがあるのですが、御二方は使えないのですか?」
ルーに注意されたばかりだがユーリがぼそぼそとした小声で後ろにいるオルテンシアの方をむいて話しかけると、オルテンシアは首を左右に振った。
「探査系は全然」
「ジンさんは?」
「体力馬鹿に魔法を期待されてもなー」
「ふむ」
仁は前を向いたまま後ろに居るユーリの方にぶらぶらと手を振って答えた。仁からこれ以上情報を引き出せないと判断したのかユーリはまたオルテンシアの方に振り返って話を続ける。
「それと先ほど聞きそびれてしまったのですが、オルテンシアさんを封じたキムズズメーダって、あの子宝の神キムズズメーダですか?」
「何が子宝だか、あれはただの変態エロ中年よ!」
「シッ!」
興奮して声が大きくなったオルテンシアを仁が短く叱責した。
「それで、なぜ力を封印されてしまったのですか?キムズズメーダの目的は?」
「ほら、ルーさんが呼んでるから進むぞ」
仁が足早に歩き出したのでユーリやオルテンシア達も一旦会話を止めて後を追った。ルーに追いついて見えてきたのは人口の石組みで出来た地下通路の終わりと、その先に続く岩むき出しの洞窟だった。洞窟は通路の進行方向に広がるように伸びており、通路よりいくらか高い天井からは太い鍾乳石が何本も延びており、そこから滴り落ちる滴が石筍に当たる水音が断続的に聞こえてくる。
「すぐそこある!」
オルテンシアが広がった通路の横をすり抜けるように走りだすが、すっと横から手が伸びてくる。
「ちょっと待てってば」
「ぐへっ」
走りながら突然外套の襟首を掴まれたオルテンシアは体だけが前に進んで後ろに倒れそうになるが、仁が外套を掴んでいるので転倒せずに済んでいるが、外套の襟首が首に食い込み苦しみに喉元を手で押さえて暴れ回る。
「ちょっ、苦しっ!死ぬ!死んじゃう!」
「それだけ元気がありゃ死なないだろ」
仁が掴んでいる手を一旦高く持ち上げて立たせてやると、オルテンシアはすぐに仁の方に向き直って声を荒げた。
「あんたねぇ、女の子はもうちょっと優しく扱いなさい!あと私は神なのよ!女神様!もっと丁重に扱ってよね!」
「いや、まだ罠とかあるかもしれないし危ないだろ?」
「だからってあの止め方はないでしょ!もっと優しく、痛くないようにしてよ!」
言い争いを続ける二人を避けるようにルーがユーリの側に寄ってくる。
「ご苦労様ですルー。ここから先は大丈夫そうですか?」
「この少し先まで調べました」
そう言いながらルーが見つめている洞窟の先は歩きやすいようにか、洞窟の中央部分の地面だけは岩が綺麗に取り除かれていた。
「通路も短い物でしたし、ここまでの感じだと罠とかは無さそうですね。少し先が広い空間になっているようなので、あるとすればその直前くらいでしょうか?」
ルーが指差す洞窟の奥はよく見えないが、明かりに照らされている洞窟の天井と壁だけが途中から見えなくなっているので広がった場所があるように見えた。
「この先から妙な気配を感じます。おそらく私たちの目当ての物があるのもそこですね」
「そうですね、私も何らかの淵源を感じ取れますが恐ろしい感じではなさそうです。ルー、申し訳ないのですがもう暫く先導お願いします」
「はい」
ルーは前方でまだ言い争いを続けている仁とオルテンシアの脇をすり抜け慎重に地面を調べながら進んでいく。そのまま洞窟の奥、広がっていると思われる暗闇の中に入っていき姿が見えなくなった。数分後に戻ってきてハンドサインを示そうとしたが、大きく溜息をついてすぐに手を下ろした。
「だから自分の事を淑女って言うならもっと女らしい所作や雰囲気をだな…」
「何言ってんのよ!どっからどう見ても私は淑女でしょうが!」
「いてっ」「いたっ」
槍の柄がこんこんと二人の頭を軽く叩いた。
「ほら、兄様もシアさんもいい加減に喧嘩を止める。ルーさんが呆れてますよ」
「はぁ…みなさん、もういいですから来て下さい…」
ルーは疲れ切ったようにうなだれて溜息をついた。
洞窟の先は少し広い空間になっていた。オルテンシアの作り出した明かりで全体が見渡せる広間の大きさは直径20m、高さは4m程で、それまでと同じく鍾乳石が大量に天井から延びている。足下から延びる石筍は通路と同じように一部分が綺麗に切り取られていたが、切り取られてから年月が経ったためか再び石筍が育ち多少の凹凸が出来ていた。
広間の入り口付近にいるユーリが不思議そうに周囲を見渡している。
「なんだか神々しい気配に満ちていますね」
「ここはいわゆる神域ってやつになるのかな」
「何か祭られているようですしね…しかしあれは…」
円形の広間は行き止まりのようで他に横穴は見えないが、石筍を切って作られた道の先には透明で綺麗な水をたたえた小さな泉があり、その中に人間のような石像が立っているのが見えた。鍾乳石から落ちる滴が泉に落ち、ぴちゃんと涼しげな音を立てた。
「広間の中も一通り調べましたので、罠は無さそうでしたので皆さん近寄って貰って構いませんよ」
「よーし!」
今度は大人しくしていたオルテンシアが許可は出たとばかりに中央にある石像に一番に駆け寄る。泉の前に立ち象を間近で見たオルテンシアは驚きに目を大きく開いた。
「あ…これ、私だ…」
泉の中央に立つ白磁色の石像は長い髪を持った美しく清楚な女性の姿で、体の線が出ないゆったりとした長いトーガは首元から足下まで全てを覆い泉の中まで続き、その上から神官が着るような贅沢な模様が施された外套を羽織っている。慈しむような笑顔が見て取れる顔は俯きがちで、胸の前で合わせた両手で持っている何かに向けられているようだった。
「へー。これがシアか…」
「これはこれは」
「綺麗ですね…」
泉の周囲に全員が集まり石像を見つめている。
「まぁ確かに見た目は似てるが…雰囲気違くね?」
「どこがよっ!?」
オルテンシアは仁の襟首を掴んで前後に激しく揺さぶりながら力説する。
「この神々しい佇まい、清楚な服装、慈愛に満ちた表情。どれを取ってもそのままでしょ!」
「いや、だからな、こんな風に、暴力を振るうように、見えないというか、服装が、違うというか」
オルテンシアは仁からパッと手を離すと大きな溜息をついた
「はぁ、っんと見る目がないわねーあんたは。愛莉珠なら分かってくれるわよねー?」
「そっ、そうですね…服装が今と違いますがそっくりだと思います」
「でしょー?まあ確かに昔もこんな服は着てなかったから、これはきっと作った人の趣味ね」
少し困ったような表情で視線を逸らしながら答える愛莉珠にオルテンシア以外の全員が同情の視線を向けていた。
「まあ、シアの石像の感想はともかくとしてだ」
「そうね…」
仁の言葉に応え、オルテンシアは軽い水音を立てて泉の中に踏み込んだ。
「あっ!」
ルーが声を上げてオルテンシアを止めようと前のめりになるが、仁が腕をルーの前に出して動きを止めさせると、首を左右に振った。
オルテンシアはくるぶし辺りまでを水に沈めて小さな水音を立てながら歩を進める。数歩ほどで中央の石像の前まで進むと、自分よりも少し背が低い石像の顔をまじまじと見る様に覗き込んだ。暫く顔を覗き込んでいたオルテンシアの眉根が徐々に寄ってきたかと思うと、急にポケットから布を取り出し、泉の水で湿らせると石像の顔周りを拭いていく。顔周りを拭き終わると次は袖から出ている手の部分を拭き始め、頭、肩と全身を拭いていく。
その後、全身を拭いて満足したのか正面から石像を眺め、両手を組んでうんうんと何度か頷いてから「ご苦労様でした」と呟くと、胸の前で合わせられた石像の両手から何かを掴むと、仁達の方を振り返って右手を高々と上げて笑顔を見せた。
「お宝ゲットぉお!」
「ぷ、最後が締まんねーな」
「そこがシアさんらしいんですけどね」
オルテンシアがバシャバシャと水音を立てて駆け戻ってくる。
「なによー、やっと取り戻したんだから良いじゃない。あんたたちももっと喜びなさいよ!これよこれ!」
オルテンシアの見せる右手には丸い石が繋がった手首にはめる腕輪のような物だった。数珠つなぎになった石は黒と茶色の猫目石のような模様で、縦縞で微妙な色合いの変化を見せている。
ユーリとルーも近づいてきてオルテンシアの手の中を覗き込む。
「綺麗ですね」
「これに力が封じられているのですか…広間の外からも分かりましたが、間近で見るとすごい淵源ですね」
仁がオルテンシアの手にある腕輪を指でつつく。
「やっぱり手にしたくらいじゃ封印が解かれたりしないんだな」
「そうね、きっとこれに取り付けるんだと思うけど…」
そう言いながらオルテンシアは左手で腰の後ろを触る。そこには布に包まれた40㎝ほどの少し反りがある棒状の物が括り付けられていた。
「何にせよ、これでやっと一つ目ですね。おめでとう御座います。シアさん」
「よかったな。シア」
愛莉珠と仁が祝辞を告げると、ユーリ達も続く。
「おめでとう御座います」
「お疲れ様でした、オルテンシアさん」
「ありがとう、みんな!うん、私は頑張った!」
ガッツポーズを取って一人で気勢を揚げるオルテンシア。
「自分で言うなよ」
「あはは」
「では、我からも祝いの言葉を贈らせて貰おう」
「……!!」
急に泉の奥のほうから男の声が聞こえてきた。慌てた仁達が声のした方向を向くと広間の最奥、壁際に濃紅色のコートを着た男が立っており、同色の三角棒を胸に添えて恭しい挨拶のポーズをしていた。
「…出たわね変態…」
「ふふ、久しぶりの再会だというのに手厳しい挨拶だな。我が愛しのオルテンシア」
警戒した様子で身構えたオルテンシアが柳眉を逆立て睨み付けた。仁達は背負っていた荷物を投げ捨てるように降ろして身構える。
コツコツと靴音を立てながら近づいてくるその男は、彫りの深い整った顔つきで鋭い目つきをしており白い肌に短い白髪をオールバックにしていた。年齢は40〜50歳くらいに見えるが、白髪と鼻の下にある整えられた白い髭が年齢を判別しにくくしている。テール・コートは全体的に濃紅色だったが襟や袖口は黒地に金糸による刺繍がふんだんに施されていた。だがその刺繍は豪華なだけではなく優雅さも感じさせる仕上がりになっており、首元でひらひらと動く大きな白いジャボと深紅の対比が清廉さを感じさせている。右手には頭に被っていただろうコードと同色の三角帽子を、左手には黒光りする細いステッキを持っていた。
派手な服装以上に目を引くのは両耳の上辺りから生えている雄山羊のような立派な角で、太く節くれ立ちゆるやかに反り返る角は不思議と神々しさを感じさせた。
「そんな…さっき調べた時は誰も居なかったはずなのに…」
「お知り合いですか?」
オルテンシアは男から視線を逸らさずユーリの問いかけに答える。
「出切れば二度と会いたくなかったけどね」
「これはなんとも手厳しい言葉。だが、そんな強気なところも愛おしい」
「勝手に言ってろ!」
近づいてきた男はオルテンシアを舐めるように眺め、唇の間からにょろりとヘビのような長い舌を覗かせるとべろりと唇を舐めた。すると蛇の尻尾のような物が男の背後から現れて体に巻き付く。蛇の尻尾は光沢を帯びた黒地に黒紅色のまだらが入り、腹側は濁った乳白色、尻尾の先端はガラガラヘビのように節くれ立っておりそこだけは濃い褐色をしている。尻尾は男を締め付けるような動きをせず、全身を撫でるような動きで男の体に纏わり付いている。
「あまり良い友人ではなさそうですね」
男はオルテンシア、仁、愛莉珠に視線を向けた後、言葉を発したルーとユーリに顔を向ける。
「以前より取り巻きが増えているようだが、新しい信徒か?」
「信徒じゃないわ、友人よ」
「神の子らを友人に持つとは、お優しい貴方らしい」
外見が自分と同じ半獣人に見えるためか、ルーが好奇心に満ちた目で男を見ている。
「舌と尻尾…あの男は半獣人ですか?蜥蜴か蛇のように見えますが…角持ちですから多種混合かな…でもどこかで見たような…」
「あの変態がそんな生優しいもんだったら俺達も楽だったんだがなぁ…」
男の方を迷惑そうに見ていた仁が答えると変態と呼ばれた男は心外とばかりに眉間に皺を作り眉尻を下げる。
「変態とは心外だな仁よ。だがご婦人の前で礼を失していた事は謝罪しよう。久しぶりに我が愛し人に会えた嬉しさで我を忘れていたようだ」
男は再び軽く頭を下げると再び顔を上げ、ユーリとルーに気品のある笑みを浮かべた。
「初めまして、我の名はキムズズメーダ。僭越ながら子孫繁栄と淫蕩を司る神だ」
「へ?」
ルーがぽかんと口をあけて数度瞬きした。ユーリも驚いた表情で目を見開いて男を凝視している。
「宜しければ、お二人のお名前を教えて頂けるかな?」
驚いて固まっていたユーリはキムズズメーダに声をかけられ、一瞬の躊躇い、後に慌てて跪くき姿勢を正すと礼を持って自己紹介をする。
「し…失礼致しました。私はユーリ・デリザ。彼女はルー・クラヴィエと申します」
「初めまして、キムズズメーダ様」
「ではユーリとルー。折角知り合いになれたのだ、今後ともよろしくお願いする。気が向いたら我が祭られている祠にでも足を運んでくれ。知人の願いであれば願いを断るのも無下というもの。叶えられる願いであれば聞き届けよう」
「はぁ…こちらこそ神と知り合えて光栄に思います」
「ありがとう。お二人には挨拶だけで申し訳ないが早速本題に入ろうではないか…」
「二人とも…なんか私の時とちがくない…?」
「それで変態、今日は何の用だ?」
「だから我は変態では無いと言っておるだろう」
「今日は人間並に服を着てどうしたんだ?露出狂は廃業か?」
キムズズメーダはその場でステップを踏むように軽く一回転する。長い尻尾も動きに合わせて優雅にくるりと回った。
「今日はしっかりと着飾っておるだろう?時と場所くらいわきまえとるわ」
「露出狂なら仁も良い勝負行ってるかもね」
「………で、何のようだ?」
「お前に用はない。オルテンシアよ…」
キムズズメーダは右手に持っていた帽子を左手に持ち替えオルテンシアを正面から見るが、見つめられたオルテンシアは顔をしかめて目を合わさないよう横を向く。キムズズメーダは楽しそうに笑みを浮かべると指を三本立てた。
「今日は三つほどの目的がある。一つは最初に話したように一つ目の呪物の祝辞を伝えるため。二つ目はオルテンシアが翻意したか確かめるため」
「あんたなんかお断りよっ」
キムズズメーダは一本ずつ指を折りながら説明していく。横を向いて目を瞑っているオルテンシアを眺めながら笑みをさらに深め、最後の一本をゆっくりと折りたたみながら続けた。
「そして三つ目は、前回伝え忘れた封印解除の方法を伝えるため…」
「えっ!?」
オルテンシアが驚いた声を上げてキムズズメーダの方を向いた。だが、大きく開かれていたまぶたは徐々に下げられ、最終的には半眼でキムズズメーダを凝視している。仁も眉根を寄せて訝しげな表情でキムズズメーダを暫く睨み付けた。
「随分と大盤振る舞いじゃない。苦労して奪い取った物を返す手伝いをするなんて」
キムズズメーダは大きく溜息をつくと疲れたような表情で首を振る。
「真に君の力を奪い取るのは苦労したとも。封印術に長けた者を探し歩き数百年がかりで頼み込んでやっと作って貰った呪物を使ったのだ。だがまぁそれも過ぎた話だ。君の体や力を封じても我の愛を受け入れてくれる事は無かった。あのときは本当に落ち込んだものだ。そして君が封印されている間に考えを変えたのだ。押して駄目なら引いてみてはどうか、とな。今までのような積極的な行為は止めてこれからは君の望む事を手伝ってあげようと思っているのだよ」
「信じられるもんですか」
ぺっと即座に切って捨てるような台詞を返すオルテンシアにキムズズメーダは困ったような表情を浮かべる。
「では、封じられた力を取り戻すのは諦めると?」
「それも嫌!」
「相変わらずの我が儘ぶりよな。だがまぁそこが良い。惚れた我が身のなんとやらか」
キムズズメーダはハハハと自虐めいた笑い声をあげ、手ぐしで髪を撫でつけた。オルテンシアは汚物を見ているかのような表情を浮かべた。
「ま、色々信じられないけどとりあえず話だけは聞いてあげるわ」
「我が説明するまでも無いほど単純な話なんだが、君が持っている封印の核に溝が5つあったろう。そこにはめ込んでいくけだよ。それで段階的に君の力は戻ると聞いている」
「ふぅん…これをね」
オルテンシアは手に持っている腕輪をまじまじと眺めた。
「それで、残りは何処にあるの?」
「残念ながら5つの内で何処にあるか知っているのはこれだけなのだ」
「教える気は無いって事ね」
「そもそもなんでお前が持たずに地上…現世に有るんだよ?」
「もちろん、その方が私にとって望ましいから神の子らに与えたのだ。理由はまぁ…その封印を解いたときに分かるであろう」
キムズズメーダはオルテンシアが持つ腕輪を指差し、何かを想像したのか淫猥な笑みを浮かべた。
「やっぱりまだなんか仕掛けがあるんだな」
「だからといって封印を解かねば力は戻らぬよ。私の大切なオルテンシアだ、その躯に傷を付けるようなものでは無いから安心して封印を解いてくれたまえ」
「安心できるかよっ」
「じゃあこれで用は終わりでしょ。さっさと帰って。しっしっ」
追い払うように手を振るオルテンシアを見てキムズズメーダは苦笑する。
「折角逢いに来てやったというのに連れないのう。まあ良い、去るとするか…」
キムズズメーダは振り返り、最初に現れた方向へ歩き始めた。それを見た仁達一同からほっと安堵するような気配が伝わってくる。だがキムズズメーダは数歩進んだ所で立ち止まると、ゆっくりと振り返った。それを見た仁達は弛緩しかけた気持ちを再び引き締める。
「そういえばオルテンシアが翻意したか確認するのを忘れておったわ…」
「してるわけ無いわよ!あんたみたいな変態に嫁ぐ奴の気がしれないわ!」
「ふふ…それは我の言葉を聞いてから答えて貰おう…」
キムズズメーダはそう言うと誘うように右手の平をオルテンシア向けて広げる。
「オルテンシアよ、我が愛を受け入れ、まぐわい、子を為せ」
「ヤバいっ」
仁が声を上げと同時にキムズズメーダから強烈な淵源が放出された。それは物理現象すら伴いまさに突風の様に仁達に襲いかかった。
「キャッ」
「くっ」
「がっ」
オルテンシア、ユーリ、ルーが表情を歪めて声を漏らす。風の勢いは転倒する程では無かったが三人が踏鞴を踏んだ。その三人を庇うように仁はユーリとルーの前へ、愛莉珠はオルテンシアの前に素早く移動する。最初の突風のようなものはすぐに止んだがキムズズメーダから濃密な淵源の放出は続いており精神を蝕むかのように体に浸透していく。
「はぁ…んっく…あんたは力を使わないと女一つモノにできないの?最低ね」
オルテンシアは頬を桜色に染め息苦しそうに荒い呼吸をしながら絞り出すように声を出しているが、庇うように立つ愛莉珠の背後からキムズズメーダを厳しい表情で睨め付ける。だが睨み付けられたキムズズメーダは気にする風もなく、オルテンシアを愛おしげに見つめている。
「何を言っておる、我の力は我の魅力の一部であろう。更に言えば我が放つ気配は心の箍を外すだけで操るわけでは無い」
「くっ…勝手を…言ってなさい…」
「どうだオルテンシアよ。まだ我に抱かれる気にはならんか?」
キムズズメーダは尻尾を再び自らの躯に巻き付け、オルテンシアに見せつけるかのように節くれ立った先端の突起を震えさせてガラガラという音を何度も立てる。
「ハッ!自分で自分に突っ込んどけ!」
「シアさん…下品ですよ…」
オルテンシアが気丈に言い返し、侮蔑するかのようにキムズズメーダに対して指を立てる仕草をした。そのオルテンシアを注意する愛莉珠はキムズズメーダの方に顔を向けてはいるがその両目は閉じられている。
「ふむ…やはりまだ心変わりはせぬか…。しかし我の影響を受けぬとは…仁、愛莉珠よ。主達は本当に神の子か?」
「ふっ…この二人は…普段から心の枷が無いのよ」
「あるわっ!」
「ありますよっ!」
「神の子であればそれ、そのようになるのが普通よ」
キムズズメーダが顎で示したのは仁の背後で、そこには絡み合うようにもつれているユーリとルーが居た。
「ルー!ルー!大丈夫ですか?」
「駄目です!あっ、熱いっ、体が熱いんですっ、耐えられない!我慢出来ません!ユーリ様ぁ」
ルーは体をビクビクと跳ねさせながらユーリに抱きつき首元にすがりつくように両手を激しく動かしている。
「駄目です、ルー。離れて下さい。私も今は…」
「ああ、ユーリ様もこんなに元気になられている。嬉しいです、私で興奮なさってくれてるんですね…」
ルーの目は次第にとろんと溶けたような表情になり、息を荒くしているが先ほどまでのような苦痛に苦しむ表情は消えていた。頭の上の狐耳も伏せられ、大きな尻尾はユーリの体を捕まえようとぐるりと腰を巻き込んでいる。ユーリも正気ではないルーを引き剥がそうと両手で腰を掴んでどかそうとしているが、上手く力が入らないのかルーに力負けしている。
「何を言ってるんですか!正気に戻って下さい!」
「はぁあああ…ユーリ、いえ、カミーユ様。私は正気です。ずっと前からお慕い申し上げておりました。どうか私にお慈悲を…」
ユーリの首元に両手を絡めてしがみついたルーは両目を瞑るとユーリに顔を近づけていく。
「ルー、その名は…んっ」
「ちっ、仕方ねぇ」
── パチンッ
指を鳴らしたような音が響くと、ふわりと優しい風が吹き、周囲に満ちていた強烈な淵源が霧散していく。縺れ合っていたユーリとルーの動きが段々と弱くなっていき、程なくして動きを止めると閉じていたルーの両まぶたがピクピクと動く。
「ん…っちゅ。ん??ん゛──────!!んはぁ…」
驚いた表情で慌ててユーリから顔を離したルーの口元はだらしなく大きく開き、舌から延びる粘液の糸は未だにユーリの口元まで延びている。
「か…カミーユひゃま…な…なにを…」
「い…いえ、貴方がですね…」
「カミーユひゃまが求めて下ひゃるなんて嬉しい…、私の全てはいつだってカミーユ様の物です…」
ルーはそう言うと再びユーリに口づけをしようとする。
「いえ、ちょっと待ってルゥストォ───プ!」
ユーリは泡を食ったような慌て方でルーの両肩を掴んで引き離したぁ
「やぁん。カミーユ様、私とキスしゅるの?お嫌ですかぁ?」
「嫌では無いですが、ルー、まずは右を見てくれますかね」
「みぎ…?」
ルーが右に顔を向けると、そこには興味津々な表情でガン見しているオルテンシアと、真っ赤な顔を両手で覆いながらも指の隙間からしっかりと見ている愛莉珠が見えた。
「はへ…オルテンシアさんに、アリスさん……?へ…?」
ルーは目を大きく開き、パチパチと瞬きしながら耳もきょろきょろと大きく動かした。
「キャ───────────────!」
ルーは大きな悲鳴を上げると慌ててユーリから離れ、ユーリの前にに跪いて頭を垂れる。
「申し訳御座いませんカミーユ様、とんでもないご無礼を!」
「問題ありません、体調に問題はありませんか?ほら立って」
ユーリは平伏してぐずるルーを引っ張って無理矢理立たせた。その様子を眺めていたキムズズメーダは残念そうな表情で仁に向かって話しかけた。
「精霊まで使って睦みごとの邪魔をするとは…仁はとんだ朴念仁よな」
「睦みごとって…あんたの力で無理矢理そうなっただけだろう」
「我は何も意識的に力を振るっておるわけではない、逆に抑えていただけよ。普段の我を見、感じた者は自分の心に従って素直に行動するようになる。生み出された時からそうであった…これも一種の呪いと言えよう」
キムズズメーダは心苦しいとばかりに仰々しく天を仰いで嘆く仕草をする。
「何が呪いよ、アンタが楽しんでやってんじゃない」
オルテンシアの言葉に、キムズズメーダはルーとユーリの二人を手のひらで示してにやりと淫靡な笑みを浮かべる。
「楽しんではいたのは私ではなく、ユーリとルーだと思うのだが……普段からよほど溜め込んでいたのであろう。心を解放してやった我に感謝するがよい」
「しませんっ!」
キムズズメーダに飛びかかりそうな勢いのルーの邪魔をするように仁が前に立った。
「さて、オルテンシアの返事も聞いたろう。てめぇは歓迎されてない。とっとと帰んな」
「そうだな…此度は我の求める回答は得られなかったが、オルテンシアの心が変わった頃にまた逢いに来るとしよう」
「二度とくんな!ばーか!変態!」
キムズズメーダは今度は立ち去らずに仁達の方を向いて立っているだけだったが、足下から空中に溶けていくかのようにゆっくりと姿が見えなくなっていく。姿が消えていくと共にその存在感も薄れていった。
「ふふ、オルテンシアよ。主の封印が全て解ける日を我も心待ちにしておるぞ…」
最後にそう言うとキムズズメーダの姿は気配と共に完全に消え去った。天井から滴りおちる滴が泉に落ちて軽やかな音色を立てている。強烈な気配を放っていた存在が消え去り静寂が戻った広間では、そんな小さな水音がことさら耳につく。
そんな水音に混じって、脱力して座り込むようなどさりという音がいくつも広間に響き渡った。