#23
「いっ、行きます!」
ドナドーニは大声で叫び、慌てて周囲を見回し荷物を手に取ると、自分が倒した椅子を蹴るような勢いでズッコーニの元へ向かう。
「うわっ」
数歩進んだところで朱色の棒が目の前に現れ、たるんだお腹に食い込むようにぶつかり、足を止められた。
「待って下さいドナドーニさん。その話、本当ですか?」
椅子に座ったまま槍の柄でドナドーニの動きを止めた愛莉珠は、ズッコーニに鋭い目線を向ける。
「な、何を言ってんだい嬢ちゃん。こんな事で嘘をつくかよ。ぐったりして荒い息を吐いててやばそうな感じなんだ。医者も探してるんだが、お前さんには懐いていたから、何かしら出来ることがあるかも知れないから呼びに来たんだよ」
ズッコーニは不満そうに眉を八の字にしながら唇を突き出し、両手を大げさに動かして説明した。
「嘘くさいわね」
「怪しすぎますね。少なくとも昨日の夜に異常はなかったはずです」
「なんだあんた?俺らの事監視でもしてんのか?」
「まさか!ちょっと小耳に挟んだだけよ」
ズッコーニは怪訝そうな表情でルーを睨み付けたが、ルーは心外とばかりに軽く両手広げて否定した。
「どうだか…まぁ、あんたらが信じてくれないならそれはそれでいいよ。折角親切で伝えに来てやったのに…じゃあな」
ズッコーニはまだぶつぶつと文句を口の中で文句を言っていたが、踵を返すと食堂から出て行った。
「以外とあっさり諦めましたね」
「あからさまに嘘っぽかったし。無理だと思ったんじゃ無い?」
「いえ、僕やっぱり行ってきます!」
ドナドーニの動きを止めていた槍を戻して愛莉珠とオルテンシアが話していると、ドナドーニが真剣な表情でそう叫び、ドタドタと走り店から出て行った。
「あ…」
「あーあ」
ルーは厳しい表情で両手をテーブルをバンと叩き付けながら立ち上がった。
「もう、アリスさん!どうして止めなかったんですか!?」
詰問された愛莉珠は暗い表情でうつむき加減に視線を反らせた。
「いえ…その…さっき止めた時のぶにょっという感触がですね…ちょっと嫌で…」
愛莉珠はそう言うとコソコソと荷物から布を取り出して柄を拭き始めた。それを見たルーは目と口を大きく開いた。
「へ…そんな理由で…?」
「そんな理由って何ですか!ルーさんもあのお腹に顔でも埋めてみたら分かりますよ!」
「やりません!気持ち悪いし!」
「顔はともかく手でたぷたぷ揺らして遊べそうよねー。牛のおっぱいみたいだし」
オルテンシアはよっと声を上げて立ち上がり、服を簡単に払って乱れを直すと、自分の荷物を持ち上げて背負った。愛莉珠とルーはまだ言い争いを続けている。
「ほら、追っかけないの?」
「行きますよ!」
「行くに決まってます!」
「わ…私に怒らないでよ…」
引きつった笑顔で両手の平を二人に向け、オルテンシアは少し後ずさった。
ルーの案内で隊商がキャンプを張っている方向に向かい通りを走ると、数分もかからずにズッコーニと一緒に歩くドナドーニを見つけて追いついた。
「なんだ、やっぱりあんたらも付いてくるのか?」
「駄目ですか?」
「いーや、仕事の邪魔さえしなけりゃ構わんよ」
ズッコーニは両手を頭の後ろで組み、また前を向いて歩き始める。ドナドーニが足早に先を歩いていたので、ズッコーニは付いていくように歩調を合わせていた。ルーと愛莉珠はドナドーニの横に並んで話しかける。
「ほら、ドナドーニさん、やっぱり戻りません?きっと嘘ですって」
「嘘だったら一目見て戻ります」
「一目見て分かるような嘘をついてるから、罠の可能性が高いって事ですよ。捕まっちゃって、そのまま竜の檻に放り込まれちゃいますよ?」
「ナタリアの檻に僕が…?へへへ…それはそれで…」
何を想像したのか、ドナドーニは頬を染めると照れ隠しに頭をぼりぼりと掻いた。
「それじゃ駄目じゃないですか!彼女を自由にしてあげるんでしょう?」
「そ…そうでした」
愛莉珠にたしなめられ、ドナドーニは気落ちしたように俯く。
「でも、やっぱり心配なので一目だけ見に行きます。見て何も無ければすぐに帰りますよ。ズッコーニさん、それで構いませんよね?」
ズッコーニは不機嫌そうな顔で前を歩くルーと愛莉珠を見る。
「それで構わないが…当人の前で嘘、嘘って何度も言いやがって。あんたら感じ悪いぜ?」
「でも、嘘なんでしょう?」
隣を歩いていたオルテンシアが、小首をかしげてズッコーニの顔を下から見上げる。その顔にはとても楽しそうな笑みを浮かべていた。ズッコーニは一瞬だけ目を合わせたが、慌てて顔を背けた。
「はっ、行ってみりゃ分かるっての。あー感じわりー」
その後はあまり会話も無く、隊商のキャンプ地に着く。そこは壁沿いの住宅がまだ建っていない広い空き地で、数台の馬車と檻車、それに布で覆われた大きめの丸い天幕が立っていた。竜が居た檻車も野ざらしだったはずが今は見当たらない。
ルーは一通り周囲を見渡してから質問する。
「竜が入っていた檻車が見当たりませんね」
「ああ、寒いのかも知れないのと、伝染病だったらヤバイってんで、天幕で簡単に隔離してるんだ」
「じゃあ、あの中にナタリアが居るんですね!」
居ても立ってもいられなくなったのか、早足だった歩調をさらに速めてドナドーニは天幕に向かって駆け出した。外で作業をしていた商会員が何人か気づいてドナドーニの方を見るが、特に誰も止めはしないようだ。ドナドーニのすぐ後ろを3人とズッコーニは走って付いていく。
天幕の入り口は垂れ幕で塞がれており、入り口の前に置かれた小さな箱の上に一人の男が座っていた。
「お、ドナドーニさん。来てくれたか」
「はぁ、はぁ、はい。ナタリアは中ですか?」
天幕の前についた頃、すでにドナドーニの息は荒かった。愛莉珠とルーはその後ろで周囲を見渡し警戒している。愛莉珠は天幕の入り口が気になるのか、垂れ幕が幾重にも重なり、中が見えない入り口部分をじっと凝視している。
「ナタリア?ああ、あのピンクの奴か。中に居るよ。入るか?」
「はい!会わせて下さい!」
ドナドーニは両拳を握りしめ、真剣な顔で叫ぶような声をあげた。
「んじゃ、ちょっと待ってくれ。おーい、ドナドーニとそのお連れさんが来た。中に通していいか?」
「ん…ああ、ちょっと待ってくれ………よし、いいぞ」
入り口前にいた男が中に声を掛けると、中からも返事が返ってくる。
「んじゃ、どうぞ」
そう言うと箱に座っていた男が立ち上がり、箱を脇にどけた。
「では──」
「ちょっと待って下さい。ドナドーニさん。私が先に入ります」
ドナドーニが中に入ろうとする所を愛莉珠が止め、中央に立つドナドーニの横を回って入り口に近づこうとした。だが、先ほどの男が愛莉珠の前に立ち、邪魔をする。
「何ですか?私は入ってはいけないとでも?」
愛莉珠が眉間に皺を寄せ、自分より背が高い男を下から睨み付ける。睨まれた男は恐怖に顔を引きつらせて半歩ほど後ずさった。
「い…いや、そういう訳じゃ無いんだ。折角の久しぶりの対面だ。まずはドナドーニから会わせてやるってのが──」
「おっとすまねえ!」
「うわあっ!」
「あっ!」
ドナドーニが誰かに押されたのか、転びそうになりながら入り口の方に近づくと、天幕の間から半身を出した男に引っ張り込まれた。愛莉珠も慌てて天幕の中に入ろうとしたが、ドナドーニと入れ違うように中から大きな男が3人ほど出てきたので進めなくなり足をとめた。その男達は通らせないとばかりに、天幕の入り口前にずらりと並んで立つ。
少し後ろにいるオルテンシアは残念そうな呆れた顔で愛莉珠の方を見ている。ルーもオルテンシアの側に警戒した状態で立っていたが、同じ場所に居たはずのズッコーニは、町の方に走って逃げていく後ろ姿だけが見えた。
「あちゃー」
「やっぱり嘘だったじゃないですか!」
「ま、最初から分かってたんだけどね」
愛莉珠は槍を強く握りしめると、先ほどまで話していた男を睨み付ける。
「なんですかこの人たちは。私たちも入っていいんじゃなかったんですか?」
「そ…そのはずだが…どうしたんだ?」
最初から居た男が入り口前に立つ男達に問いかけた。三人の中央に立つ一際大柄な男が答える。
「会長が、ドナドーニしか入れるなとおっしゃっている」
「これは誘拐ですね?」
「何が誘拐か!ドナドーニは竜に会いたい一心で自分で入っていったのだろう」
「言うわねー」
「詭弁ですね」
オルテンシアとルーも愛莉珠の側に集まった。愛莉珠は中央の男を睨み付けていた目を細め、右手の槍をくるりと回し穂先を下に向けてから両手で持つと、流れるような動作で腕を交差するように突き出し、正面から見て水平に構えた。
「そちらが力尽くというのであれば、こちらにも考えが──」
「おやおや、騒がしいな。町中で暴力沙汰は駄目だぞ」
天幕の右側から回り込むように、警官の制服を着た男達が七人歩いてくる。声を掛けてきたのは先頭の男で、他の六人よりも頭一つ分以上背が低く、小太りでビール腹体型だ。立派な口ひげを蓄え、火が付いた煙草用のパイプを右手に持っている。
「警察?やったー!いいところに!」
「しっ!オルテンシアさん。タイミングが良すぎます」
喜んで近づこうとするオルテンシアをルーが手で止める。愛莉珠も構えを解き、穂先を上に向けると石突きでドスッと地面を強く叩き、苛立たしげに入り口に立つ男達を睨め上げた。
「用意周到なんですね」
「はて、何の事かわからんな」
男は睨まれた程度では動じず、涼しい顔で愛莉珠を睨み返している。警官らしき男達はゆっくりとした速度で天幕の入り口近くまで歩いてきた。
「それで、どうしたんだ?町の治安を守るのは我々警察官の勤め。なにか問題があればこの警部シドチが相談に乗るが?」
先頭の小太りの男がにたにたとした嫌らしい笑みを浮かべながら自己紹介すると、最初に入り口に座っていた男が小太りの警官に駆け寄った。
「これはこれは警部様。良いところにいらっしゃいました。実は少々困ったことになってまして」
「そりゃ良かった、警邏中にたまたま通ったが、長年務めた警察の勘はやはりよく当たる」
「白々しい…」
愛莉珠の呟きが聞こえたのかシドチが一瞬だけ愛莉珠の方を見た。次の瞬間、驚いたように愛莉珠の方に顔を向けた。暫く愛莉珠の顔を見つめ、見開いていた目を細めて好色そうな笑みを浮かべると、頭の先から足下元まで、ゆっくりと視線を何度も往復させた。
「うぅ…」
愛莉珠は見られて気持ち悪くなったのか、表情を曇らせ、体を入れ替えるように半歩下がると立てた槍を盾にするかのように視線の間に入れる。
シドチは右手のパイプを持ち上げて吸い、紫煙を吐く。
「それで、何がありました?」
「はい、この人達の知り合いが、今うちのボスとこの中で会ってるんですが、この人達を一緒に中に入れないだけで誘拐だって騒ぐんですよ」
「ほぉ、誘拐か。それが本当なら大事だな。だが一方だけの意見を聞くのは良くない。次はそちらの可愛らしいお嬢さんの話も聞こうか」
「にゅっ!?」
シドチは再びパイプを加えると、スピスピと短く煙を吐きながら愛莉珠の方に近づいた。好色な笑みを浮かべ、愛莉珠を嘗め回す様に視線を這わせながら近づいてくる。そのシドチのゆったりとした足音に合わせて愛莉珠が短い悲鳴を何度も上げ、引きつった表情が徐々に絶望に変わっていった。
・
「痛つつ…」
天幕の中に引っ張り込まれたドナドーニは転んで地面に体をしたたかにぶつけてしまった。打ち付けた膝や肘をさすりながら立ち上がり、ドナドーニは怪我が無いことを確認すると周囲を見渡した。
「ここは…ナタリアは…?」
天幕の内部は所々に明かり取りのため穴が開いており、中は比較的明るかった。天幕の中程が大きな垂れ布で仕切られ奥の方が見えなくなっている。仕切り布の中央付近にクロスが敷かれたテーブルと椅子が置かれ、ティバルディが座って食事をしていた。
ティバルディは皿の上に残ったスパゲティを全て巻き取ると口に入れて咀嚼する。十分に嚙んでから飲み込むと、ワイングラスを手に取り、残っていた赤ワインを全て飲み干した。次に膝上のナプキンで口を丹念に拭い、テーブルの端に置く。それからゆっくりと椅子から立ち上がった。
「すみません、少し待たせてしまいましたね。ドナドーニさん」
「え…あ…ティバルディ…さん?」
ドナドーニの後ろ、入口側にはドナドーニを引き入れた男が立っており、ティバルディの近くにも二人の男がいる。
「……ナタリアはどこに居るのですか?」
「ふむ。せっかちですねぇ。では」
ティバルディが右手を上げると、左右にいた男が奥を隠していた幕を左右に開いていく。
「ナタリア!」
中央幕の向こうには檻車が置いてあり、そこには鉄鎖で縛られたピンク色の竜が横たわっている。ドナドーニが転がるように檻車に駆け寄ると、竜の方も気がついてドナドーニに頭を寄せてぴーぴーと鳴き出す。
「鎖で縛るなんて酷い…」
鱗は傷ついていないが、背中の小さな翼の皮膜は傷ついてボロボロになっていた。
「我々としても鎖で縛るなどしたくないのですが、暴れられては我々の身も危険でしてな。しかもそいつはその鎖を何度か引きちぎっています。とても危険な竜なのです」
ティバルディが話ながら檻の方に近づくと、竜はぐるると低いうなり声をあげて威嚇した。それでもティバルディはドナドーニの隣に立ち、肩に手を掛けた。
「そこでご相談なのですが、貴方は上手くその竜を手懐けているようです。どうでしょう、貴方も私の商会で働き、その竜の世話をして頂けると助かるのですが?」
ドナドーニは竜の頭を撫でながら黙って聞いていた。
「貴方にしか出来ない仕事なのですよ」
ティバルディは和やかな笑顔で話しかける。ドナドーニは竜を撫で続けていた手をゆっくり放すと、ティバルディの方を向いた。手を止められた竜がもっと撫でろと再び鳴き始める。
「彼女はここでずっとこの商会で飼うわけじゃないんですよね?」
ティバルディは困ったように肩をすくめる。
「そりゃ、商売ですからな。誰かに買って貰わない事には我々が生活できませんよ」
「私も始めはこの商会で雇ってもらおうと思って付いてきました」
「ほう、それならばなおの事──」
ドナドーニは再び竜の方を向くと、鎖に縛られたまま悲しそうに無く竜をやさしく撫で始める。鼻面を撫でられた竜は嬉しそうに目を細めた。
「ですが、彼女に対してこんな仕打ちをする所には居られません。ジンさんに協力して、彼女を取り戻します!」
「ふっ、ふははっ!」
ティバルディはさも愉快そうに笑い声を上げた。
「ふんっ。そうか、やはりお前もあの黒ずくめの仲間という事か。穏便に済ませようと思っていたが…」
ティバルディは鼻で笑うと表情を一変させて残忍な笑みを浮かべる。そして荒い足音を立てながら中央のテーブルまで戻ると、グラスにワインを注いでから持ち上げる。
「穏便に済ませようと思ったが止めだ。お前の望みどおり、その竜と一緒に居られるようにしてあげますよ」
ティバルディが顎を軽く振ると、左右に立っていた男がドナドーニの方にゆっくり歩き出す。
「え…?なっ…何をするつもりですか?」
「これからは四六時中、お前のいとしい彼女とやらのそばに居られるってことだよ」
近寄ってきた男の一人がドナドーニの問いかけに答えた。
「止めて下さい!」
がっしりとした体躯の男がドナドーニを捕まえて二人がかりでうつ伏せに抑え込むと、ドナドーニの両手を後ろに回し、手にした荒縄を巻き付けていく。
「痛いっ!放してっ!放して下さい!」
── グルゥウゥウウ!
その様子を見ていた竜が、うなり声を上げながら激しく暴れ出す。檻車ごと縛られた鎖を激しく揺らし、檻車ががしゃんがしゃんと激しい音を上げ、グラグラと揺れ始めた。
ティバルディは大きな音と揺れる巨大な檻車の方を見ながら、じりじりと後退している。
「は、早くその男を放り込んでしまいなさい!」
「ひぃぃ!」
天幕の反対側に後ずさりながらティバルディが言うが、ドナドーニを押さえつけていた男達も激しい竜のうなり声と金属音に恐怖し、ドナドーニを放置して逃げ出した。
「ちょっと!待ちなさいお前達!」
天幕の裾を捲り上げて横から逃げて行く男達の方を見た瞬間、檻車の方から今までで一番大きな金属が聞こえた。
・
「そんなに下品な目で愛莉珠を見ないでくれる?」
オルテンシアが愛莉珠を庇うように立ち塞がり、シドチの下品な視線から愛莉珠を隠した。
「シアさぁああぁ~ん」
「私があんたを庇うって、初めてじゃ無い?」
頼り切った情けない声を上げ、後ろからぎゅっと抱きつく愛莉珠にオルテンシアは少し楽しそうな声を返した。
「ごめんなさい駄目なんです駄目なんです。私ああいう生理的に受け付けないのは駄目なんです。そりゃ、ぶっ飛ばしたりぶった切ったり、この世から跡形も無く消し去っていいならなんとかできますけど、警官とかじゃ後を考えると何も出来なくて…」
「昔は力が強けりゃ何でも好きに出来たけど、今はやっかいねー」
「跡形も無くって…どうやるんですかそんなの…」
「どうって、こう…しゅっと?」
「そんな感じで出来ちゃうんですね…」
愛莉珠がオルテンシアの腰にしがみついたままルーに説明していると、シドチが口を挟んできた。
「これはこれは、また美しいお嬢さんだ。代わりに貴方が答えてくれるのかな?」
シドチはオルテンシアより背が低いため、見上げるようにオルテンシアと目を合わせた。
「ええ、愛莉珠をあんたのやらしい目線に晒すのは可愛そうなんでね」
「ほほぅ、その娘はアリスと言うのか。とても良く似合っている」
シドチはやけに赤い舌を出すと、ゆっくりと唇を舐めた。その声を聞いた愛莉珠は悲鳴をあげ、オルテンシアに抱きつく力をさらに強めた。
「だが、お前の今の台詞は警官侮辱だ、詰め所まで来て少し折檻をしてやろう。おい、こいつらを署まで連れて行くぞ!」
「「「はっ!」」」
後ろに控えていた六人の男達が声を上げ、オルテンシアを捕縛しようと近づく。女達を捕まえようと近づいてきた部下達を見て満足しながら少し後ろに下がり、シドチは再びパイプを吸うと、ふぅと紫煙を吐き出した。
「ちょっと待って下さい!」
ルーはオルテンシア達の前に立ち塞がる様に両手を広げて立ち塞がる。緊張した面持ちでシドチを睨み、大きな尻尾と耳は両方ピンと立っていた。
「私達はヴェロカイ署長へのツテがあるのですが、それでもここで捕まえると言うのですか!?」
「なんと!署長のお知り合いでしたか!それは失礼を」
シドチはルーの台詞に大きく目を見開き、驚いた表情を見せた。
「ふぅ、良かった。では早く──」
「何て言うとでも思ったか!この出来損ないの半獣人が!お前の様な者が署長の知り合いのはずが無いわ」
「何ですって!」
侮蔑の言葉を浴びせられたルーは反射的に左腰の剣に手を掛けた。それを見た周囲の警官達は迷うことなく腰の警棒を抜いて構えると、6人でオルテンシア達を包囲するかのように囲い込む。
「抵抗するかっ?大人しく捕縛されろ!」
「出来損ないが人間様に逆らうんじゃねえよ」
「ほらほら、抜かないのか?」
「っ!」
ルーは柄に手を当てたまま周囲の警官を睨みつけ、左手でオルテンシア達を庇いながらじりじりと後退する。警官達は不用意に距離を詰めようとはしないが、離れまいとルー達が下がった分だけ距離を詰めた。
嫌らしい笑みを浮かべながら声を上げる警官達の後ろに居たシドチは汚物でも見るような表情でルーを睨み付けていたが、両目を細めて口の端を持ち上げた。
「警察官を傷つけでもしたら大変だぞ。大人しく署まで来る事だな。なぁに、話を聞いて調書を書いたらすぐ開放さ。痛い目を見る前に武器を全て捨てて、両手を上に上げろ」
シドチは高慢な態度でそう言うと、舌で唇をべろりと舐めた。
「なにあのあからさまな挑発!」
警官達を視線で牽制しながら背後に居る二人だけに聞こえる程度の声でルーが悪態をつく。声からはかなりの苛立たしさが感じられた。
「私がこの場を引き受けますので、お二人は逃げて頂けますか?」
「色々ムカついたから、ちょっとはやり返さないと気が収まらないわよ」
腰に愛莉珠をぶらさげたオルテンシアも小声で返事を返す。
「いえ、どうせ大した理由もなく捕まえようとしてるだけです。この場を逃れれば──」
オルテンシア達が相談していると、天幕の方から、がしゃんがしゃんと大きな金属音が立ち始めた。その音が段々と激しさを増し、余りにも大きな音がするので遠巻きにルー達を見ていた商会の人間も含め、その場にいた全員が天幕の方に注視し始める。
「なにをやっているんだあの商人は…いい所だってのに、逃げられちまうじゃねえか…」
罵声を吐いたシドチも天幕の方を向いていたが、ちらちらと横目でルー達の方を見ている。
金属音が鳴り止まない中、全員が天幕の方を注意して見ていると天幕周囲を覆う壁部分の布裾を捲り、二人の男が慌てて飛び出してきた。悲鳴を上げながら走って行く男達に商会の人間が駆け寄り、中の様子を聞こうとしている。大きな音を聞きつけて野次馬も集まりつつあり、周囲は騒然としている。
「ほら、お二人とも、この隙に逃げて下さい!」
周囲の警官が浮き足立って包囲が甘くなったのを見たルーが二人に言った。
「一発やり返してからね!」
「シ…シアさん、バレないようにお願いしますよ」
「私に任せておけばバッチリよ」
「ちょっと、何を──」
背後に居る二人が何をしようとしているのかと振り返ったルーが見たのは、聞き取れないほどの小声で何かを呟きながら、スカートの裾を軽く持ち上げて膝を軽く落とすカーテシーというお辞儀をするオルテンシアだった。それを見たルーは耳をぴょこぴょこうごかしながら、二、三度瞬きをする。
「な…なんですかそれは?」
オルテンシアは答えずに胸を張り、いたずらっ子のように楽しそうな笑みを浮かべた。
すると、広場の中央、天幕の近くで砂埃が舞い上がり始め、音に驚いてやって来ていた野次馬の何人かが叫ぶ。
「なんだ?今度はつむじ風か?」
「少し離れた方がいいんじゃないか?」
「ああ」
数十人の野次馬が話している間もつむじ風はどんどん強くなり、周囲の空箱や干し草の入った袋など、軽い物を吸い込んで空に飛ばし始めた。それを見た野次馬達は悲鳴を上げながら逃げ出す。
シドチは憎らしそうに竜巻を睨み、その動きを警戒しながら部下に怒声を飛ばす。
「お前ら!とっととそいつらを捕まえて離れるぞ!」
「いえ、ですが、あの竜巻が…」
それまであまり位置を変えていなかった竜巻が、ルー達を包囲している警官達の方に動き始めた。恐怖を煽るかのようにゆったりと蛇行しながら移動する竜巻の勢いはさらに強くなり、道中にあった水樽や馬車を吸い込み、粉々に破壊して空に吐き出していく。巻き上げられた砂や藁やが周囲を飛び交い、木片や水滴が降ってくる。
今すぐ逃げたしそうに見えながらなんとかその場にとどまっていたシドチの部下達は、竜巻が自分達の方に向かってきたと分かった瞬間、わっ悲鳴を上げながら逃げ出した。
「こら!お前ら!職場放棄か!?」
怒声を上げるシドチだが、自身も部下の後を追って走り出す。
「ちょっと、あれこっちに来ますよ。私たちも逃げなきゃ!」
「あー、私たちは逃げなくていいんじゃない」
「ほら、シアさん、ここだけ風が無いとバレちゃいますよ」
「へ?」
すでに周囲は激しく風が舞い物が飛んでいるのに、ルー達の周囲にだけ不自然に風が無い一帯が存在している。
「あ、そっかそっか」
オルテンシアはてへへ、と小さく舌をだして自分の頭をコツンとすると、周囲の激しい風が一気に吹き込んできた。
「きゃあああぁあああ!」
急に吹き込んできた強い風で長いスカートがペチコートごと捲られ、愛莉珠の白い素足が大きく露わになる。愛莉珠がオルテンシアの腰に回していた手を放して自分のスカートを押さえてしゃがみこむと、次は抑える者が居なくなったオルテンシアのスカートがぴらぴらと大きく捲れ上がった。
「さーて、やつらにお灸を据えてあげないと」
オルテンシアが逃げていった警官の方を見ると、オルテンシア達の方に向かって来ていた竜巻が彼女らを避けるように迂回し、そこからさらに移動速度を上げ、逃げていくシドチを狙うかのように一直線に追いかける。
「なぜこっちに…!ぐああああぁああぁあああ!」
シドチは竜巻に巻き込まれ持ち上げられ、その内部で吐き出されることなくグルグルと回っている。巻き上げられた石や木片で体中を傷つけられていく。
「あはははは!…愛莉珠を虐めるんだもん。いい気味よ!」
「シアさん、前、前」
風にスカートを大きく煽られ、下着どころかつるんとしたお腹まで見せながら笑っていたオルテンシアを見かね、愛莉珠は後ろからオルテンシアのスカート押さえつけて捲れないようにする。オルテンシアは下着を見せたまま気にした風もなく立っていたが、抑えている愛莉珠の方が恥ずかしがっていた。
「あ、ありがと」
「あれ、オルテンシアさんがやってるんですか?」
「うん、誰もこんなこと出来るとは思わないからバレないでしょ」
そう話している間にも竜巻は他の警官を内部に取り込み、風の音で警官達の悲鳴をかき消しながらまた移動を始めた。
「そりゃ、出来るわけ無いって言ったら通用するでしょうけど…」
ルーは心配そうに竜巻の中で浮きながら回っている警官達を見、次に破壊され尽くした周囲の様子を見た。横転した檻車、破壊された荷車や樽、荷物などが散乱している。
「ちょっとやり──」
「ほーら、仕上げよ!」
警官達を捕らえた竜巻は方向転換して天幕のほうへ一直線に向かうと、さらに風の勢いを増して天幕にぶち当たる。風の勢いで天幕を張っているロープや支柱をばきばきと大きな音を立てながら巻き込むと、最後のひと踏ん張りと言う用に巻き込んでいた警官ごとそれらを空高くへ吹き飛ばした。
「ひゃっほう!」
「や…やり過ぎじゃ…」
「私も最初からああやれば良かった」
三人は飛んでいく警官達と、ひらひらと舞いながら落ちてくる天幕の残骸を見上げながら、それぞれの感想を呟いていた。
・
「いやー、こりゃまた派手にやったな」
「一帯、何をどうしたらこうなるのでしょうね…」
「けが人が出てなきゃいいけど…」
ティバルディのキャンプ地で愛莉珠達が揉めている。との連絡をユーリが受け、仁達は調書の作成を中断してティバルディのキャンプ地に急いで向かった。
仁とユーリがキャンプ地の広場までやって来て見た物は、近所の建物に覆い被さる天幕に使われそうな大きな布。巨人が暴れたかのように破壊され尽くした馬車や檻車。周囲一帯に散らばっている木材の破片。そして、大規模に破壊された町を囲む壁だった。
「やれやれ…」
そう呟くと、仁は広場の中央に居る愛莉珠達の方に向かって駆け出した。