#21
篝火に照らされたサリトーの街は、3mほどの煉瓦の壁で囲まれていた。街道に面した門はすでに閉ざされていたが、防壁の上に門番らしき男が立っており、隊商に気づくと慌ただしく動くのが見えた。門の近くまで隊商が近づくと、壁上の門番らしき男が話しかけてきた。
「夕方からぱったり客が来なくなったが、何かあったのか?」
鷲鼻のティバルディが前に出て返答する。
「ここから1時間ほど戻ったところで野盗に襲われまして、こちらにも被害が出たのですがなんとか撃退してこちらにやって来た次第で御座います。街道で我々に追いついた者も居ませんでしたので、後続はおそらく襲われているのを見て引き返したのだと思います」
「そうか、よく無事だったな。あんたが代表者か?調書を取るから、入ったら少し話を聞かせてくれ」
「わかりました」
「おい、開けてやれ」
壁上の男が声を上げると、両開きの門扉の片方がぎしぎしと重い音を上げながら開いていく。片方でも規定サイズの馬車であれば通れるだけの幅が確保されているようで、問題無く隊商全員が門を通ると再び音を立てながら門が閉めらていった。
壁上の男はしばらくの間門の外側を警戒していたが、門が閉じると話を聞くためか、防壁の内側へと身を消した。
仁達は宿を取ると、一階に併設された食堂で食事を注文した。夕食には少し遅い時間帯であったが、食堂のテーブルはほぼ埋まっており、周囲の人は騒がしく食事や酒を楽しんでいるようだ。
「ティバルディさん、こんな所まで付いてきて貰って悪いな」
「いえいえ、命を救って貰ったのです。この位は安いものですよ。改めてお礼申し上げます」
そのテーブルでは仁達三人のほかに、ユーリ、ルー、鷲鼻のティバルディが顔を合わせていた。ユーリは好奇心に満ちた目で微笑を浮かべて仁とティバルディの会話を聞いている。
「さっそくなんだが、あのピンク色の竜、譲ってくれないかな?」
「ほう、護衛料のお話をするのかと思っていましたが、竜ですか。しかし譲る…とは、無償でと言う事ですかな?」
「金は払うさ。ただ助けてやった分をさし引いて貰って…そうだな、一万リーブラでどうだ?」
「ははっ、一万ですか。そんな値で売ってしまっては、せっかく助けて頂いたのに明日には商会全員で首を吊らないといけなくなってしまいますよ」
ティバルディはあり得ないと言う風に大笑いしながら首を横に振る。
「あれは王都まで連れて行けば少なくとも五十万リーブラの値が付くでしょう」
「「「ごじゅ…!!」」
声を上げたのは黙って聞いていたオルテンシア、愛莉珠、ルーだった。
「お待たせしましたー」
そのタイミングで、給餌の少年が料理を運んできた。ヒヨコ豆のパスタ、リボリータ、トルテリーニのスープ、鶏肉のラビオリなどが数回に分けて運ばれてくる。
「私も頂きますので、どうぞ皆様、お気になさらずお召し上がり下さい」
ティバルディにそう言われ、皆が食事に手を付ける。仁もスパゲティを少し口にした。
「じゃあ、五十万リーブラなら売ってくれるって事でいいのか?」
「確約は致しませんが、王都まで運び、買い手を探すのも一手間です。一考いたしましょう」
「あー、俺が言うのもなんだが、全滅しそうだったあんたら十人くらいを救ってやったんだ。一人頭五万リーブラづつ負けてくんないかなぁ?」
「いえいえ、我々商人の命なぞ1リーブラにもなりませんよ。助けて頂いたお礼としては、そうですね、通常の護衛十日分、五百リーブラほどで如何ですかな?」
「安っ!?」
即座に反応したのは仁ではんくてオルテンシアだった。ティバルディは鷲鼻の上に付いている小さな目を細め、申し訳無さそうな表情をした。
「私どもも火の車に追われておりまして、これが精一杯の感謝の印で御座います」
そう言うと懐から革袋を取り出し、中から大きな百リーブラ銀貨を五枚取り出し、テーブルの上に積み重ねる。
「どうぞ、お受け取り下さい」
「ん~、これはいいや」
手を振って拒絶の意を示す仁。笑っていたティバルディの目がそれを見て鋭くなる。
「値が足りないので受け取れないのですかな?」
「そりゃまあ買値をいくらか負けてくれたらなぁとは思ったけど、謝礼を貰うために助けたわけじゃないしな」
「左様で御座いますか。では、こちらとしては不本意ではありますがこれでお話は終了という事で宜しいですかな?」
「そうだな。まあ一万リーブラならいつでも買うんで、売る気になったら言ってくれ。王都で売るんだったら俺達も付いていって今度は買ってくれた人に当たるさ」
「はぁ、別に道程を共にするのは構いませんが、費用は出せませんよ?」
「わ~ってるって」
「分かりました。では亡くなってしまった仲間の葬儀手続きもありますので私はこれで」
ティバルディは結局食事に手を付けず、自分の食事代を置いて店を出ていった。
「さて、とりあえず食うか」
「それ余ってるなら食べて良い?貰うね~」
ティバルディが残していったスープと肉料理の皿をオルテンシアが自分の所に引き寄せた。
「ルーさんも食べる?」
「あ、頂きます」
オルテンシアは鶏肉のトマトソース煮から具を取り出し、せっせとルーの皿に盛っていく。
「それで、ジンさん──」
「何かなユーリたん?」
「…!?…それ、まだ続けるんですか?」
ユーリはうんざりしたような表情で問いかけた。
「もぐもぐ…ん…可愛いじゃ無い。ユーリたん」
「ユーリたん」
「ユーリ…たん…いえ、様」
オルテンシアを筆頭に、残る女性陣二人が復唱するかのように呟いた。
「ぐ…」
ユーリは頭痛を堪えるように額に手を当てて俯いた。黒メッシュ入りの波打った長い金髪がさらりと顔にかかる。
「いやー、ユーリたんが予想外のダメージを与えてるようでなによりだ。それでなんだって?ユーリ」
「む…それでですね、今後はどうするのですか…と聞きたかった訳です?」
ユーリは名前をちゃんと呼ばれたことで気を取り直したのか、顔をあげて問いかけた。
「そうだなぁ、とりあえず目下は飯を食う」
ずるずると音を立ててトマトソースのスパゲティを啜る仁。具のひよこ豆とミンチ肉がぽろぽろとテーブルに零れていく。
「ほら、兄様、音を立てて食べないで下さい」
「いいじゃん、こうやって食った方が絶対美味いって。ずるずるー」
「怒りますよ?」
「…はい…」
笑顔で小首をかしげて愛莉珠が脅すと、仁は瞬時に謝罪の言葉を発した。それから仕方なくといった風に口からフォークを抜くと、ぐりぐりと皿の上でフォークにスパゲティーを巻き付け始めた。
「そ…それで、目下はいいとして今後の話を聞きたいのですが…」
ユーリは微笑を浮かべていたが、口の端や眉の端がピクピクと動いている。
「分かった分かった。真面目に答えるからそう怒るなよ。そうだな、飯を食い終わったらドナドーニを迎えに行くよ。まだ竜の所に居るみたいだし」
「はあ、それから?」
「後はドナドーニをできるだけ竜に会わせない様にして王都まで付いていく。まぁ、王都まで持つかは分かんないけど」
「それだけですか?」
「ん?ああ、ユーリは今日の騒ぎは見てないんだっけ?」
「騒ぎ?竜が暴れていた方ですか?檻を揺らすような音は聞こえていましたが、私が付いた頃にはもう大人しくなっていましたね…ああ、そういう事ですか」
ユーリも合点がいったのか納得した表情を浮かべた。
「なになに?悪巧み?」
オルテンシアが楽しそうに聞いてきので、仁は呆れたように答える。
「シアはそーゆーの好きそうだよな」
「だってさー、あの人、口調は丁寧だったけどいかにも金の亡者って感じだったじゃない?二十万で買った物を五十万だよ?」
「ふふ、商売人というのはそういった人たちですよ」
「仁が助けてあげたのに、お金払ってハイさよならってのも嫌な感じだったなー。だからこう、ぎゃふんと言わせてやりたいのよね」
「…ぎゃふんですか…」
鶏肉を食べる手を一旦止めて呟くルー。
「まあ、どうなるかは明日以降のお楽しみってことで、二人にはドナドーニをできるだけあの竜に会わせないようにしてほしい。その辺もドナドーニを納得させる必要があるから、俺が今から行って話してくるよ」
仁は残ったスパゲティを全てフォークに絡め取って持ち上げると、大きな固まりを一口で頬張り立ち上がった。
「はへひふは!」
「兄様!口の中に物を入れたまま喋らないで下さいと何度も──!!」
「全く、ガキよねぇ」
「子供ですよね」
三人の突っ込みが仁に炸裂した。
・
隊商は街道近くの空き地に馬車を駐騎しており、ドナドーニもそこで竜の世話をしていた。仁が宿に来るように頼むと少し渋ったが、竜も寝ている為か明日もまだ隊商は出発しないと説明すると、宿で寝ることに納得してくれた。
仁はドナドーニと宿に戻り、食堂で今後の方針を説明する。
「──と言うわけで、しばらくはあの竜に会わないようにして欲しいんだ」
ドナドーニはテーブルを両拳で激しく叩いた。
「嫌ですよ僕は。あそこで飼育役として雇って貰うんですから!」
太っているのでおっとりとした印象のドナドーニが突然テーブルを叩き、同じ席に着いていた愛莉珠とオルテンシアは少し驚いた。ユーリとルーは隣の席で成り行きを見守っている。
「そりゃ、あの鷲鼻が許してくれりゃお前を雇ってもらえるだろうが、あの隊商は動物を売る商売をしてるんだぜ?あの竜もまた高値で売られちまう。そしたらまたその金持にやとってもらうのか?」
「それは…なんとか頼み込んで…」
自分でも自信が無いのか、ドナドーニは言葉尻を濁した。
「そこで相談だ、俺達はあの竜を手に入れてある人のところ── 元の飼い主?いや保護者? ──まあそんな感じの人のところに連れて行くんだが、もし協力してくれたら、その人にお前もあの竜一緒に居られるように頼んでやるよ。一緒に居られるかどうかは確約出来ないが」
「うーん…」
「あと、買い戻した際の法律上の所有権はあんたでいい。ただしさっき言った人のところに付いてくるのが条件だ」
「ホントですかっ!それなら…即答は出来ませんが、少し考えてみます」
「ああ、明日にでも結論を聞かせて貰えると助かるよ」
「そうですか。じゃあ申し訳ありませんが、考え事もあるので、今日は疲れたからもう寝ますね。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ。あ、部屋は二階に上ってすぐの右手にある大部屋な。空いてるところを適当に使って良いらしい」
「はい」
そういうとドナドーニは荷物を持って二階に上っていった。
ドナドーニの気配が無くなってから愛莉珠が口を開く。
「兄様、ドナドーニさんごとあの人に引き渡すつもりなんですか?」
「どうだろう、受け取ってくれるかなぁ」
仁が頭の後ろで手を組み、椅子の背もたれにだらっと凭れかかると、オルテンシアがテーブルに身を乗り出すようにして話す。
「ダメだったら、また家出して落ち合うように仕込んどけばいいんじゃない?」
「それも有りかなー。まあその辺は実際に買い受け出来てから考えればいいかな」
「結構アバウトにやってますね」
ユーリとルー隣のテーブルから仁達がいるテーブルに移動してくる。ユーリ達が空いた席に腰掛けると、椅子をグラグラさせて遊んでいた仁が座り直して足を組んだ。ユーリはいつもより少し厳しめの微笑を浮かべて仁を見つめた。
「そろそろ、あの人とやらの正体を教えて頂けませんかね?」
「すまん、報酬の前払いはしない主義なんだ」
仁はお手上げ。という風に両手の平を上に向ける仕草をする。
「なるほど、ジンさんは焦らすのがお上手なようですね。そんな事では女性にモテませんよ」
「大きなお世話だ。そもそも竜の行方とか俺たちでも調べられたし、今のところ余り役にも立ってないんじゃねー」
「何を言ってるんですか!居場所が確定できたからこそ、追跡に余裕もできましたし。今日の野党の後処理もユーリ様に丸投げだったじゃないですか」
突然ルーが少し不満げに口を挟むと、仁が慌ててテーブルの上に乗り出し、左隣に座っていたルーの両手を取って謝罪した。
「あ、ごめんごめんルーさん。言われて見ればその通りだ。確かにすっげー協力してもらってる。感謝してるよ」
「え…ええ、分かってくれてるなら良いわ」
急に手を握られたルーは驚いたのか、尖った大きな狐耳をぴょこぴょこと動かし、ちらちらと愛莉珠とオルテンシアの方を伺う。愛莉珠は少し不機嫌そうな表情だが、特に何も言っては来ない。オルテンシアに至ってはにやにやと何かを期待する笑みを浮かべて愛莉珠と仁を交互に見ていた。
「あの、そろそろ手を…」
「うん、とても綺麗で素敵な手だ。短く切りそろえた赤い髪もとてもよく似合ってる」
仁が的外れなお世辞を口にすると、『こほん』と愛莉珠が小さく咳払いをした。だが、仁はそれが聞こえなかったのか、爽やかな笑顔を浮かべたまま話を続ける。
「今までは余り話す機会が無かったから、お互いに色々誤解があると思うんだ。だからお互いをよく知るために二人で──」
「ごほん!!」
と、先ほどよりも大きな咳払いが聞こえた。すると仁が笑顔のまま突然固まり台詞を止める。会話が止まり静かになったせいか、少し離れたテーブルで酒を飲んでいる男達の笑い声と、カードを切る音が聞こえてきた。
手を握られたままのルーは妙な雰囲気に包まれて緊張したのか、垂れていた大きな尻尾に力が入って持ち上がり、ごくりと唾を飲み込んだ。
目の前の仁を見ると、相変わらずルーの手を握ったまま笑顔を浮かべているが、額には汗が見えるような気がする。助けを求めるようにユーリの方を見ると、ユーリもこの後の展開を楽しそうに待っているように見えた。オルテンシアは相変わらずにたにたとした笑みを浮かべており、愛莉珠は咳ばらいをしたためか軽く口に手を当てて俯き、目をつぶっていて表情が読めない。
ルーが再び仁に視線を戻すと、笑顔のまま開いた仁の口端が少し痙攣していた。ルーは少し憐憫の表情を浮かべ、声をかけようと口を開いた。
「あ──」
「二人でどこか別の店にぶっ!」
ルーの言葉をきっかけにしたのか、ルーの両手をさらに強く握り、仁が決意を決めたように勢い良く話し始めると、突然ダンッっと木に何かを強く打ち付けるような大きな音がした。音がした後をみると、仁がテーブルに顔面から突っ伏して倒れていたが、両手はまだルーの手を握り締めていた。
「あはははは!」
ルーは突然笑い出したオルテンシアに目をやり、次に愛莉珠の方を見ると、愛莉珠は先ほどまでは手にしていなかった槍を椅子の背もたれに立てかけ、腰のポーチから手帳を出すと何かを書き込み始めた所だった。仁は顔を上げ、涙目でルーに訴える。
「る…ルーさん助けて…愛莉珠が俺を苛める…」
「いえ…あの…とりあえず手を離して頂けるとありがたいのですが」
「いや!死んでもこの手を離さない!」
仁の真剣な表情にルーは少しドキリとして頬を染めた。
「ジンさん…?」
「ははははは!あーくるし、そっかー、手を握ってるから今回は吹っ飛ばされなかったのね」
「へ?吹っ飛ばす?」
涙を拭きながらオルテンシアが言うと、ルーが少し間の抜けた声を上げた。
「馬鹿兄さん、戯言を仰ってないで早く手を離したらいかがでしょうか?」
愛莉珠は手帳を左手に持ったまま鉛筆だけテーブルに置くと、右手で槍を手に持ちくるりと回した。
「ぐっ」
回転した槍は石突き部分を仁の側頭部に当ててピタリと停止する。愛莉珠は笑みを浮かべて口調も明るかったが、纏う気配は殺気としか思えない気配を周囲に放っている。
「そうやって何時も何時も他所の女性に迷惑をかけて…今ならまだ謝れば許してあげますよ?」
「そんな事を言われて俺が謝ると── スミマセンデシタ!!調子に乗ってましたー!」
ルーの手を放し、ずさーという感じの音を立てながら後退しつつ愛莉珠に土下座する仁。
「そこでそうやって反省した態度でいれば許してあげます」
「はい、反省してます」
正座をして両手を揃えて前に着き、深々と頭を垂れる仁を見て、愛莉珠は手帳をパタンと閉じながら言った。
「では、朝までそこで正座です」
「朝までっ!?」
「「ぷっ」」
仁が驚くと何人かが堪えきれずに吹き出した。
「はっははは、百年の恋も冷めてしまいますね、ルー」
「なっ、何を言ってるんですかユーリ様。私はユーリ様一筋です!」
「へ-、二人きりで旅してたし、そうなんじゃ無いかとは思ってたけどーやっぱり出来てたのね」
「へっ?あ、いやその、デキてるとかそう言うのじゃなくて、私の片思いと言うか…私のような者では畏れ多いです」
ルーが慌てた様子でテーブルに両手を着いて否定しすると、今度はユーリがルーの左手に手を添えた。
「ルー。そこまでです。あまり自分を卑下するものではありません。ルーはとても魅力的な女性ですよ」
「そんな…勿体ないお言葉…」
「あーあー、見せ付けてくれちゃって」
オルテンシアはどさりとテーブルに突っ伏すと、ぺちぺちと両手のひらで交互にテーブルを叩き始めた。
「すみません、ルーさん。うちの馬鹿兄がご迷惑をお掛けして」
「ジンさんの女好きはお二人から聞いていましたけど、私にはちょっかいをかけてこないから興味の対象外なんだと思ってました」
ルーは自分の胸の辺りを手でなぞる。柔らかい曲線を描く胸は彼女の性格に合わせてか慎しやかだった。それを聞いたオルテンシアは自分の胸の大きさを確かめるかのように揉んだり持ち上げたりする。
「確かに仁はおっぱい好きだからね~」
「胸の多寡に関わらず、女性と見れば声を掛けてる気もしますけど」
「おっぱい無くてもいいのかー。んじゃ、老若男女なんでもござれって感じ?」
「うわっ、ジンさんってホント見境ないんですね」
仁の方をジト目で見ながら女性三人が批評を続けている。
「へぇ、ジンさんは男性に対しても見境が無いのですか。私も気をつけた方が良いのですかね?」
ユーリが自分の体を抱き、ぶるぶるっと震える身振りをした。
「あの…俺も男と年よりはカンベンして欲しいんだけど…」
「嗚呼、今日は大部屋で兄様とユーリさんが組んずほぐれつ…」
何かしらのスイッチが入ったのか、愛莉珠が両手を合わせて目を瞑り、楽しげに妄想を育ませ始める。
『眠れないのかい、仁?』
『なんだ、ユーリかよ。驚かせるな。考え事をしてたんだよ』
『へぇ、考えていたのはもちろん僕の事だよね?』
「いやいやいや、ちょっと待て愛莉珠戻ってこい~~~!」
仁は慌てて立ち上がり、愛莉珠の肩を捕まえて激しく揺らした。
『んな分けないだろ、ふんっ!』
『そう言った仁は赤らんだ顔を隠すためか、隣で寝ているユーリに背を向けてシーツを被る』
「心の声がだだ漏れね」
揺さぶられた位では意識が戻らないのか、一人芝居を続ける愛莉珠にオルテンシアが突っ込みを入れた。
「アリスさん、意外と文才があるんですね」
「私としては出演者の選択と脚本に意義を唱えたいところではありますが…」
周囲が愛莉珠の即興劇の感想を述べる中、止めようとする仁の努力も空しく物語が進んでいく。
『──仁、今日は少し冷えないか?そっちにいってもいい?』
『ユーリ駄目だって。そんなにくっつくと暑いよ』
『本当だね。仁のここは凄く熱くなってむぐぅ!」
仁は揺さぶりが無駄と判断したのか、椅子に座った愛莉珠の後ろから両手を回して抱えるように口を塞いだ。愛莉珠は口を塞がれた瞬間びくりと大きく体を震わせたが、その後は凍り付いたかのように動かなくなった。そして口を押さえられたまま、ゆっくりと首を回して後ろの仁の方を睨むと、もごもごと何かを話そうとした。
「ふぅ、良かった。正気に戻ったか」
仁は愛莉珠から手を離すと、大きなため息をついて隣の空いている席に腰掛けた。仁が一息ついたところで愛莉珠が口を開く。
「兄様、反省はどうしたのですか?」
「へ?何言ってんだよ愛莉珠。それどころじゃなかっただろ?」
「何を言ってるんですか兄様。突然私の口を押さえただけじゃないですか!」
「ふぅ~~」
仁は大きくため息をつき、額を押さえて首を振る。
「仁、今日は少し冷えないか?そっちにいってもいい?」
「はへっ!?」
オルテンシアがユーリの声を真似て台詞を読み上げると、愛莉珠が素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「ユーリ駄目だって。そんなにくっつくと暑いよ」
「へっ?なんで?どうしてっ?」
続きの台詞を仁が口にすると、愛莉珠は顔を真っ赤にして全員を交互に見渡したが、しばらくの間は皆その慌てた様子をみて楽しんでいた。
「本当だね。仁のここは…って、アリスさんが自分で全部喋ってましたよ?」
「そうそう、妄想ダダ漏れだったわよ~」
ルーが決定打を放ち、オルテンシアが止めを刺す。
「な…な…な…」
愛莉珠の口から声はでるが、意味を成さない台詞が続く。
「ど、どこから聞いていたんです!?」
「どかからって言われてもなぁ…『眠れないのかい、仁?』から?」
「最初からじゃないですか!」
絶叫する愛莉珠の肩を仁は軽く叩く。
「大丈夫だ愛莉珠。皆、個人の趣味には寛容だ」
ビクッと体を震わせ、椅子の床から一瞬飛び上がったかと思うと動きが固まった愛莉珠は、再び動き始めると慌てて自分の荷物をかき集める。
「わっ、私、きょっ、今日はこれで休ませて頂きます!」
荷物をかき集めた後、深々と頭を下げると凄まじい速度で二階に駆け上がって見えなくなった。階段を駆け上るガンガンという音に続き、廊下を走る足音が暫く響いてから静穏が訪れる。
「あー、やったー。楽になったわー」
両手を伸ばし、ぐったりと椅子に凭れてだらける仁。
「私としては、とても賑やかで羨ましい限りですよ…いつもこんな感じなのですか?」
「俺はもっと平安が欲しい…」
「仁と愛莉珠はいつもこんな感じかな?羨ましい?」
仁に変わって答えたオルテンシアが、最後の部分で媚びを売るようなコケティッシュな笑顔を浮かべてユーリに問いかけた。
「そうですね、そんな屈託の無い笑顔をもっとルーも見せてくれるようになればいいのですが…」
「なんですかそれ!ユーリ様、私はいつも気難しい表情で笑ってないってことですか!?」
「いえ、もっと心からの笑顔を見せて欲しいと言いますか…まあ、今日はそろそろ失礼致しますか」
ユーリは立ち上がって礼をする。
「ここに泊まるんじゃないのか?」
「ええ、別の所に宿を取ってまして…」
「わかった、明日、俺達は隊商のほうに居るかもしれないが、野盗がどうなったのか分かったら教えてくれ」
「はい、身柄は確保できると思いますが、詳細が分かりましたらお教え致しますよ」
「ちょっとユーリ様、仕事の話はいいとして、私が可愛くないって話は本当なんですか!」
「いや、可愛くないなんて言ってないじゃないですか、ほら、帰りますよ」
「可愛くないって直接言って無くても間接的に言ったじゃありませんか!どうなんです!?」
「いえ、それはですね…」
「達者でな、ユーリ」
「おやすみー」
「あ、オルテンシアさん、おやすみなさいです。ほら、ユーリ様、ちゃんと答えて下さい!」
歩きながら話しているユーリ達が店から出て行き、話し声が徐々に聞こえなくなっていく。暫くユーリが出て行った出口を見つめていた仁が口を開いた。
「ああはなりたくないな…」
「そうね、でも仁は手遅れだと思うよ?」
仁はオルテンシアの方を見て、心から理解できないと首をかしげた。
「ふぅ~~、愛莉珠も大変だわコレは」
「なんでそこで愛莉珠の名前が出てくるんだよ?」
「そこが分からない辺りがユーリと同レベルだって言ってんの!」
「なんだとー!?」
「なにさー!」
獣脂のランプが明滅する食堂からは、夜遅くまで男女が罵り合う声が聞こえ続けた。