#1
西の山脈に沈みゆく太陽が茜色の祝福を空と大地に贈り、その祝福を優しく受け入れた世界は喜んで染め上げられていく。冠雪している山々の頂上付近は一層赤く、空と溶け合うかのように色が混じり合い、その輪郭を曖昧にしている。山岳の中腹からは緑の木々に覆われた森林が続き、その森は平地にも少し拡がっていたが、徐々に木々はまばらになり平原に変わっていく。森林からは細い川が一つだけ流れ出し平原をゆったりと流れていた。その川の流れはゆっくりとしたもので、ゆるやかな曲線を描きつつ平原に線を描いている。
平原の大半は開墾され畑になっており、植えられた様々な種類の植物も茜色に染められていたが、広い範囲に植えられているように見えるイネ科の作物は収穫時期ではないのか、背丈も低く青々としている。広大な畑の所々には集落のようなものがあり、農作業を終えた人々や、夕餉の支度か煙突から出る細い煙が見えている。
畑の間を縫うように走る川のさらに下流には、たくさんの建物が建っているのが見えた。街のようだ。
街の近辺の空には帆船のような物がいくつか浮かんでいる。大きさ、帆の形も様々な種類があるようだったが、それらは皆、ゆったりとしたスピードで動いており、市街地を迂回して街の北側にある係留所のような広場をめざしているようだ。そこには陸上ではあるが港のように様々な船が鎮座している。
夕焼けに染まる茜色の町はかなり大きく、建物が楕円形の形に集まっており、平原との境界部分に壁は見当たらない。楕円形の長軸中央付近に川が流れており、その周辺は大きな煙突をもつ建物群が白や黒の煙を吐き出している。周囲の平原は畑になっていたが、街の南側は朽ちた都市のような遺跡が見渡す限り広がっており、そちらの方には住居も見受けられなかった。
街を東西に横断する川の流れに沿うように大通りが走っており、日が出ている間に仕事を済ませようというのか、大勢の人々が行き来していた。通りに面した建物は総じて四階建て以上の煉瓦または石造りで、統一感は無いが変化に富んでいて目に面白い。大通りはすべて舗装されており、中央部分は馬車がひっきりなしに行き来し、徒歩の者は通りの両端にある縁石部分を歩いている。
通りを歩くのは、帰宅する工場労働者、夕餉の材料を買いに行く者らが多く、少数ながらビジネスマンらしいスーツの者や、貴族風に着飾った者もいる。石弓や銃を腰に下げた物騒な集団も散見でき、そういう集団は、大抵が獲物らしき物が入った布袋を担いでいる。
そんな中、若い男とそれを引っ張りながら歩く少女の二人連れが居た。
「おい愛莉珠、いい加減に離してくれよ」
「……もう逃げません?」
「ああ、逃げない逃げない。また蹴られたくないしな」
そう言って男は自分の頬をさするが、その部分は靴の形に赤くなっていた。少女はちらっと若い男の顔を見ると引っ張る手を離し、心配そうに男の頬に触れる。
「ご免なさい…まだちょっと赤いですね」
「謝るくらいなら、次からは蹴ったり殴ったりしないでほしいな」
そう言われた少女は、少しムッっとした表情を見せる。
「だってあれは、お兄ちゃんがまたナンパしようとしてたから──」
「なに?俺はナンパしちゃいけないわけ?愛莉珠の許可がいるの?」
「ッ…!?そうよ!お母様に頼まれてるんだから!」
「ったく…うちの母親はろくな事頼まねーんだから…」
ブツブツと文句を言う男の年齢は18歳位だろうか。背は高くもなく低くも無く、170㎝を越えたくらいで、顔立ちも並。肌は健康的な雄黄色で、今は眉根を寄せて苦り切った表情をしているが、どこか愛嬌の感じられる顔立ちをしている。漆黒の髪を短く切りそろえた直毛だが、所々ピンピンと跳ねている。
服装はシュミーズと呼ばれる薄い象牙色をしたシャツの上にジレと呼ばれるベストをつけ、ジュストコールとよばれるジャケットのような物を羽織る一般的な服装だ。ジレとジュストコールには簡易ながら少し高級感がある刺繍が施されていた。下はズボンに膝までのブーツ。通常は胸元にジャボと呼ばれるひらひらしたネクタイのようなものを付けるのだが、この男は細い紐ネクタイをだらしなくたらしている。シュミーズは象牙色、ブーツが焦げ茶に近い憲法色で、それ以外が全て漆黒という偏った配色だ。手には指ぬきされた革製のグローブを付けているが、念が入ったことにこれも漆黒に染められている。
「…ろくな…事を頼まない…っと」
何やら鉛筆で手帳にメモを取りながら歩く少女のほうは男よりも頭一つ分だけ背が低く、男と比べるといくつか年下に見える。子供っぽいかわいらしさを残した丸みを帯びた鳥の子色の顔立ちに、濃い胡桃色の長い髪で、ツーサイドアップにまとめ上げた直毛が後ろ左右で2本、耳の辺りから体の前にも左右2本の房を伸ばし、四つの房が歩くたびにぴょこぴょこと揺れている。
肩を大きく出した女性用のシュミーズの上に、ボディスと呼ばれるコルセットのような物をつけ、さらに肩紐が細いベストを羽織っている。スカートは丈は短いが、ペチコートによってふわりと形良く広げられて可愛らしさを強調している。短いスカートから覗くのは素足であったが、それはすぐに黒いタイツによって隠され、膝から下はブーツに覆われていた。全体的に山吹色や、それよりも濃い蜜柑色の配色が多い服装だ。
そして少女は自身の身長よりも長い棒状の物を幅広の肩紐で斜めに背負っており、棒の上端六分の一程度が華やかな柄の布覆いで覆われ、布が絞られた部分からは幅広の長い飾り布が2本ひらひらと延びていた。下端は石突きが付いているのでおそらくは槍であろう。
そんな少女をしみじみと眺めつつ男の方が口を開く。
「それ…どのくらい貯まった?」
「さあ?この手帳は別に連絡事項だけ書いてるわけじゃないですから……数えますか?」
「いやいや、やめといてくれ」
男はぶんぶんと首を振って拒絶する。
二人で通りを歩くうちに、夕焼けに染まっていた街も徐々に夕闇に支配されつつあり、街路に備え付けられたガス灯に火を付けて回る役人の姿が目につき始める。
「そういえばお兄ちゃん、なにか情報は得られましたか?」
「ん~、特に無しかな。受けられそうな仕事の話も無かった。そっちはどうだった?」
「こちらも特に無し。ですね。やっぱりちょっと曖昧すぎますから…」
「まーなー、シアのほうは元から期待はできないとして…そろそろ仕事は見つけないとやばいな」
「もう少しは持ちそうですけど……そうですね──」
話を続けながら二人は大通りを外れて細い路地に入っていく。すでに完全に日は落ち、ガス灯が無い裏路地は周囲の家や夜間営業の店から漏れる明かりだけが頼りだが、この通りには酒場が多く集まっており比較的豊かな明かりと、様々な喧噪に包まれている。
「この辺だったと思うけど・・・宿どこだっけ?」
「向こうですよ、ほら、あのちょっと騒がしそうなお店」
愛莉珠が示した方には、一階の酒場では店の外まで立ち飲みの客があふれ、何やら客が全員で盛り上がっているのかひときわ騒々しい。それを見た男は、頭痛がするかのように目の周囲のツボをマッサージする。
「なんか嫌な予感しかしないな…」
「しませんね……」
二人は少し歩く速度を上げ、店の方に向かった。
・
酒の匂い、煙草の匂い、焼ける獣脂の匂い、仕事明けの男達の体臭、そして楽しそうな喧噪に満たされたそこは、ある種の熱気に溢れていた。
蝋燭で照らし出された酒場の中はそこそこの広さで、座席付きのテーブルと立ち席がいくつか見える。店内は大勢の労働者らしい男達で埋め尽くされていたが、大半は人間で、獣人や半獣人、妖精族は見られない。そんな人混みの中を、ウェイトレスが窮屈そうに走り回っていた。
立ち客が多い店の中だが、その男達の海に埋もれず店の中央付近に若い女が立っているのが見える。体格的に身長が高いわけでは無く、椅子の上に乗っているのだろう。
女の顔立ちはこの世の物とは思えないほど整っており、要所要所で編み込まれた薄桃色の長い髪も相俟って気品を産み出しており、このような下町の安酒場にいるのはどう見ても場違いと考える者が多いだろう。身に纏っているのも上品な襟袖付き白磁色のシュミーズで、過度な装飾は無いが所々に漆黒の刺繍が入っている。
女は右手に陶器製のグラスを持ち身振り手振りを交えて語っており、大きく体を動かすたびに薄桜色の長い髪が左右に揺れ動く。
「…そこで私は恐れて逃げる事無く、前に出てギリギリの所でサッと竜のブレスを躱すと、すかさず弱点である氷の極大魔法を使ったの!周囲すべてを凍らせるような冷気だったけど、残念ながら竜種は魔法に対する抵抗力が高いので、凍らなかった。でも!ダメージを与えたのは確実で、そいつにはもう戦う力は残ってなさそうだったわ」
女は右手のグラスをぐいと飲むと、ぷはぁ~という擬音が聞こえてきそうな嘆息の後、話を続ける。
「もう戦えない竜をこれ以傷つけるのは忍びない。そう思った私は竜に話しかけることにしたの。ここ、神々が加護する者達の領域から立ち去るなら殺すような事はしない、と」
「竜とはどうやって話をしたんだい?」
周囲で話を聞いている男の一人が質問を挟む。周囲からもいくつか賛同の声が上がった。
「その竜は結構賢い竜だったから、竜の言葉なら通じたのよ」
すげえ、竜の言葉を話せるのか。といった幾つもの賞賛の声に満足した女は、満足そうに何度か頷いてから話を再開する。
「私の説得にそいつは、承服したくは無いが死ぬよりはマシだ。力ある者に抗えない我は強者に従うしか有るまい。と言ったので、私はそのまま逃がしてやることにしたの。もちろん、また来たら次は容赦しない!って付け足してね!」
周囲の男達からは、おおぉ、と歓声があがり、口々に賞賛の声を上げる。
「竜を退治できるなんて、なんてスゲェんだアンタ!」
「ああ、カニボールアの鉱山で竜をおっぱらったって話は本当だったんだな」
「俺もその話は聞いてたぜ、坑道仲間の間じゃ、英雄が現れたってすげぇ噂になってた」
「うんうん、そうなのよー。もっと言って~~♪」
男達の賞賛に喜びながら、女は両手で体を抱き、恥ずかしがるように身をくねらしている。
・
「やっぱりまたやってるよアイツ…ホント懲りないな…」
「シアさんはお祭り好きですからね」
人混みで店内に入りづらい愛莉珠とその兄は店の入り口付近に居た。店の一階のオープンテラスに続く部分は壁が無く、外からでも店内がよく見えた。
「しかしなんつーか、あそこまで嘘がスラスラ出てくるのは関心するな」
「事前に考えてたのでしょうか?仮にも一応アレな人ですから、嘘が上手いというのはどうかと思いますし…」
「まあ、騒いでるだけで問題は起こしてなさそうだし、今回は穏便にすませてやるか」
「えぇっ!?それでは、明日に備えて鉄製の傘でも用意しておく必要がありそうですね?」
「ふむ。なぁに、愛莉珠だったらその降ってきた物がなんであれ、気合いだけで全部打ち落とすだろ」
「もうぅ…そんな事言うなら──」
・
二人が入り口付近で話している間も、店内の盛り上がりは続いていた。
「そうそう、みんなも何か困った事があったら何でも相談してねー。もちろん私も、生活、していかなきゃいけないから無料って訳にはいかないけど、相場の料金でバシバシ解決しちゃうよ!なんたって私の手にかかれば、竜族だってイチコロなんだから!」
「よっ、さすがの英雄様!」
「英雄様に乾杯!」
「「「乾杯!!」」」
椅子上の女と、周囲の男達は唱和を上げると一斉にグラスを空け、全員で歓声を上げ笑い出す。
・
「なあ、ここは一杯だし、よそに晩飯食いに行かないか?」
「そうですね…どうしましょうか?」
・
「英雄様は美人で強くて最高だ!」
「オルテンシア様、俺の嫁にならねぇか!?」
「おめぇは嫁さんどころか4歳の息子がいるだろ」
「なら俺と、まずは友達から!」
「おう、そんなのほっといてもっと飲め飲め」
「あー、いや、悪いねー」
オルテンシアと呼ばれた女は酒をついで貰うと、グビグビと一気に飲み干し、再度上品とは言えない嘆息の後にゲップした。
「良い飲みっぷりだ!」
「全くだ、女にしとくにはもったいないぜ」
「お前は何を言ってんだよ、こんなに美人な女神様なのに──」
「美人?えへへぁ。よーし!さっきも言ったけどココは私の奢りだからみんなじゃんじゃん飲んでー!」
「阿呆かあああぁああああ!!!!」
── ゴッ!
「ぐぎゃん!?」
「お兄ちゃん!?」
入り口に居た男が、人波を一足で飛び越えオルテンシアの顔に跳び蹴りを食らわせると、オルテンシアは不思議な悲鳴を上げつつ周囲の男達をなぎ倒しながら吹き飛んで行く。男は空中で身をひねり、オルテンシアが立っていた椅子の上に綺麗に着地した。
「女神様っ!大丈夫ですか?」
「おいおい、いきなり何するんだよ兄ちゃん」
「何があったかは知らねぇが、暴力は駄目だろ兄ちゃん」
椅子に着地し、オルテンシアが倒れている姿を確認した男は素早い動きで人の間をすり抜けて近づき、仰向けに倒れている女の襟元を両手で掴んで引き起こした。だが、オルテンシアは気を失っているのか首がだらんと垂れている。あまりの素早い動きに周囲の者たちが呆気に取られていると、襟首を掴んだ状態で固まっていた男が切なそうな声を発した。
「お前には……俺達には……」
オルテンシアの襟元を掴んでうずくまるように話す男の雰囲気に飲まれ、周囲の男達は固唾をのんで見守る体勢に入っている。
「俺達には他人に奢れるほどの金はねぇんだよ!!あと騒ぎになるから神って言うなって約束だろうがあああぁぁああ!!!」
「あばばばばばばば」
襟首を持って激しく前後に動かし始めたせいで首が前後に揺さぶられ、オルテンシアは奇妙な悲鳴を上げ出す。やっと周囲の男達も正気に戻ったのか、慌てて男をオルテンシアから引き離した。
「ゲホッ、ゴホッ…仁?仁でしょ?よくもやってくれたわね…コホッ」
倒されたオルテンシアは上体だけを持ち上げ、咳き込みながら襲ってきた男をギロリと睨み付ける。仁と呼ばれた男は、両肩を客の男二人に捕まれて拘束されていた。
「あーあ、やっぱり腫れてますね…」
そこへ入り口にいた愛莉珠も駆けつけ、オルテンシアのそばに膝を突くと、キッチンで濡らして貰ったタオルを蹴られて赤く腫れている頬に当てた。それから首だけを仁と呼ばれた男の方に向け、苦言を呈する。
「兄様、女の子に暴力を振るってはいけませんよ?」
「いやー、どうしてもツッコミの衝動を抑えきれなくてだな…」
「そりゃ、私もすっごくツッコミたくなりましたが…」
「何言ってるのよ愛莉珠。よーし、あんたたち、しっかりそいつを押さえといてよ」
オルテンシアは左頬のタオルを押さえながらふらりと立ち上がり、肩を掴まれて動けない仁のほうへ向かって勢いよく走り出す。
「うぉい!?ちょっとお前」
「往生せいや ─────!!」
オルテンシアが淑女とは呼べないかけ声と共に右ストレートで殴りかかる。だが、命中すると思われた瞬間、押さえつけられて動けなかった仁はするりと体を右にひねると、左側に居た男が仁とオルテンシアの間に滑り込む形になり、突き出した拳は別の男の顎にクリーンヒットする。
「げふっ!」
「痛たっ!!避けるな仁っ!ちゃんと食らいなさいよ!」
「いやそこで素直に殴られて喜ぶような性癖はしてないわけだが…」
仁はいつの間にか男達の拘束から抜け出し愛莉珠の横に立っている。仁を捕まえていた男達は、自分たちがしっかりと捕まえていたはずの男がいつの間に抜け出したのか不思議で、自分の手のひらと仁を交互に見やっている。
「なによ仁っ。飼い犬は主人の躾を黙って受ける物でしょ。だからそこに正座して私に殴られなさいっ!いくらあなたが借金取りから逃げおおせる逃げ足を持とうとも、女神の目からは逃れられないんだから!」
「いやまだ借金取りには追われてないし!お前も俺を目で追えてないし!ましてや俺はお前の犬じゃないし!!」
「借金取りに追われる予定かのような言い方はしないで下さい兄様…」
「苦労してそうだなあんた…」
仁にむかって独り言を言う愛莉珠を慰める者もいる。
「そもそも私は蹴られてあげたんだから、あなたも殴られるのが筋ってもんでしょ!」
そういうと再び連続で殴りかかるオルテンシアだが、仁は立ち位置を動かすこと無く、それらを上半身の動きだけで全て躱している。
「はぁ?お前の場合は避けられなかったの間違いだ…ろっ?」
そう言いながら仁は左手でデコピンをオルテンシアの額に当てる。
「痛っ~~~~~。またやったわねぇ!」
両手で赤くなった額を押さえるオルテンシア。頬を抑えていたタオルはいつの間にか手放され、床に落ちていた。
「あれ…頬が…?」
周囲の者の何人かが、蹴られたオルテンシア頬の腫れがすでに跡形も無くなっている事に気がついたが、そんな事は関係無いとばかりに二人の口論は続く。
「大体酒を奢るとか言ってるけどそんな金がどこにあるんだよ?」
「そこに居る人が奢ってくれるって言ったのよ!」
「へ~~、いったい誰がいつ何時何分何秒に言ったんだよ」
「その言い方がムカつくのよ~~」
内心の怒りを吐き出すように床にダンダンと脚を振り下ろすオルテンシア。展開について行けずに見ていた周囲の男達のうち、一人が愛莉珠に向かっておずおずと問いかける。
「おい、この状況はなんなんだ?」
「…そうですね…いわゆる、痴話喧嘩ですよ……」
「「痴話喧嘩ちゃうっ!?」」
あきれつつ答える愛莉珠の説明に、当事者二人の声が見事に重なった。