さる想像病者の幻想への反逆と虐殺罪・ジェノサイドムーダー
頭がグルグルする。
ただボウッとしてるだけで、無上によしなし事が頭を埋め尽くす。
知恵の奔流が、わたしの自我すら曖昧にして、希薄にして、すべてを無に帰そうとするのだ。
この世には、同義で同価値の事が多すぎる。
己と等価の生命すら、絶対の価値にはなりえない。
ならば、絶対とはありえるのか?
ありえる、直感的に、絶対を認識できるゆえに、絶対は存在する、今己の中に。
我、想うゆえに我あり、だ。
わたしは、わたしを絶対として、他を完膚なきまでに否定し、拒絶し、廃絶する。
そのことで持ってして、必ずわたしは神代、神格、神域の、絶対に至り続ける事ができると確信するのだ。
「ジェノ、起きろ、おい、起きろ」
眠い、それに何時もながら、頭が痛い、頭痛なんてモンじゃないのだろうコレは。
「アルク、やめないか、揺らすな、、、頬ぷにすなぁ!」
対手、が、何時までも覚醒しないわたしに対して、狼藉を働いてきたので、一気に目覚めた。
「ふにゃ」
駄目な吐息と共に、立ち上がり。
眼前、アルクという小憎たらしい男児に、制裁の行為に走ろうと想ったが、やめておいた。
なぜなら、何時見ても素晴らしい見目に、毒気抜かれた。
「まだ、眠たそうにしてるな、ちょっと飲み物でも持ってきてやるか」
こくん頷き返し、座って待つ態勢を整える。
ふにゃふにゃしてると、また船がことりことり動き出す。
頭が痛い、凄く痛い、いつまでも、痛いのだ。
突然だが、わたしには死という概念が、無い。
それは必然、自殺という概念、発想自体が存在しない事を意味する。
なぜなら、わたしにとって、本来的に楽しくない時間など、一切合財存在しないからだ。
あるのは、只管なる快楽的世界と、それに内存されてある、苦痛のトキ。
頭の中に世界があるのだから、必然に当然だ、少なくともわたしにとっては。
寄るべき世界は眼前でなく、眼後にあり、その支配者であるわたしは、きっと眼前の世界の支配者と同一に在るのだろう。
だがしかし、代償は、あるのだろう、”コレ”が、まさに今もって感じ続けている”コレ”が、代償、そうとしか思えない。
”コレ”は、世界を掌に弄んでも、一向に解消されない、対価のような、全てをご和算、台無し、無に等しくする、代償なのだ。
わたしはずっと、この代償の解消に努めてきた。
そして何時しか悟った。
この世界を破壊し尽くせば、この痛みは無くなる、と。
常人には発想も出来ないだろう、背後の世界の完全なる支配者となり、”コレ”を知らなければ。
直感よりも確かなモノ、何よりも正確な知性、論理的理性、それにより見出した。
眼前に何も無くなれば、わたしは背後の世界と一体となり、完璧に一つになり、この痛みも無くなる、解放される。
わたしは完全に没入し、依存しきり、真に自我をなくし、背後の世界の支配者としてだけ存在することが出来る。
恐らくこの痛みは、巨大すぎる世界を抱える、矮小な己に掛かるプレッシャー、圧力のようなものだと類推するのだ。
つまりは、自我を無くせば、楽になれるのだ。
わたしは、自我を無くしたい、世界と一つになって、ただ世界を観測し、演算するだけの、そういう存在で在りたい。
話は変わるが、自我が皆無で、世界の一部、世界を補完し補強する。
無上拡張ネットワーク的に、加速度的に、幾何級数的に、天文学的に観測、演算する存在が、世界には在る。
それは俗に観測者と呼ばれる、無料大数群のシステム的、無我構造神工知能非生命体。
この観測者とは、世界を演算し、世界を隙間無く構成させる、そのような観測器的存在なのだろうと想う。
わたしは、そのような存在を夢見る。
自我などいらない、そんなモノは不要の長モノ以下の、唾棄するべきモノだ。
まったく持って、必要がありえない。
自我という主体でなく、客体で埋め尽くされた、世界そのもの、それに、其処にこそ至るべきなのだ。
世界を破壊しつくして、わたし一人になれば、絶え難い孤独、絶対の一として、孤立するだろう。
そのとき、わたしはわたしが、自我が無くなるほどの、真に耐えられない痛みと共に、世界そのものに昇華するのだ。