3
燃えるような西日が地平線へと沈もうとしている。
茜色に塗り替えられた帝都の姿はいつ見ても美しく、見事なものだ。
いつもならこの夕日が射し込む窓を越えたバルコニーから街を一望できるのだが、今は目の前のハゲ頭が邪魔でそれも叶わない。というか、日の光に照らされて発光したハゲ頭がまぶしすぎてそれどころじゃねぇ。
「誰がハゲ頭だ!」
心の声が漏れていたらしい。
ハゲ頭に今日何度目かのげんこつを食らった。
「……ってぇなー、それが可愛い娘に対する態度かよ!」
「見合い相手の顔面にケーキを投げ付けるなり中庭の垣根を突き破って逃亡し、下街であろうことか帝国騎士団の師団長殿を押し倒していた奴が何をほざくか! ハルアに聞いたぞ!」
「なっ……あれはあっちが引っ張ってきたんだ! 俺の過失じゃねぇ!」
「また見合いをすっぽかしたのは間違いなかろうが! ナルディス家の御子息が寛容だったからまだよかったものの……場合によっては我がレイフォード家の存続に関わる事態に陥っていたやもしれんかったのだぞ!」
あれから結局ハルア達にレイフォード家の屋敷へと強制送還された俺は、到着するなりハゲオヤジ――じゃなくて、レイフォード家当主であるルイス・レイフォードこと我がお父様にお説教を食らっていた。
雷を落とさん勢いでガミガミと唾を飛ばしながら捲し立てて来るハゲオヤジのつるっぱげには、相変わらず青筋が浮き上がり、今にも破裂しそうだ。
今日はまた一段と激しいなぁ。
「まぁそうカッカなさんなって。オヤジもこれでわかっただろ? 俺が見合いに向かねーって。このまま続けてたらいつ俺が高位のお坊ちゃんに無礼を働くかわかったもんじゃねーぞ。そのハゲ頭が更に削げ落ちないうちに諦めるのが利口だ――あだッ!?」
再び頭上に下ろされたげんこつ。
このオヤジのげんこつにも慣れたもんだが、こう何度も下ろされたら俺の頭ん中が心配になってくる。相当量の細胞が死んでいるんじゃなかろうか。
頭を摩りながら恨めしげにオヤジを見上げると、彼は先程までのお説教モードとは対照的に、陰りを帯びた至極真剣な面持ちで俺を見下ろしていた。
「向き不向きの問題ではないのだ。お前とてわかっているだろう?」
幼子を諭すように言われ、俺は思わず俯く。
勿論わかっている。
貴族の子の辿る道は二つある。一つは生家を継ぐ道。もう一つは他家と婚姻を結び生家に利益を齎す道だ。
女として生まれた俺は、言わずもがな後者の道を辿る他ない。稀に特殊なケースとして生家に嫡男がいない場合、女でも当主になることもあるが、生憎俺には今年24になる兄がいる。文武両道、ついでにこのハゲオヤジの遺伝子が本当に入っているのかと疑いたくなる程の美貌を持った才色兼備な兄は既にオヤジの跡を継ぐべく様々な事業に手を出し、昨今では帝国都庁で開かれる国最高峰の政の場、中央議会にも参入している。
政治学は苦手だからそのへんはあまりよくわからないが、前世の俺の享年よりも若い兄は、とにかくなんかすごいやつなのだ。
そんな有能すぎる兄がいるレイフォード家において、今俺がすべきこと。それはより高位の爵位を持ち、より我が家にすばらしい利益を齎してくれる家柄の坊ちゃんの心を掴み、嫁ぐこと。ただそれだけだ。
それはわかっているのだが……
「それでも、俺は男の妻になんて、なりたくない」
俺だってガキじゃない。物事の分別くらいつく。
レイフォード家の娘として記憶持ちのまま生まれ変わってしまったのも、これもまた運命だと受け入れるしかない。前世の記憶があるから男と結婚できないなんて主張も、ただの我儘に過ぎないこともわかっている。
わかっていて、俺は大人気なく自分の矜恃を曲げる事が出来ずにいるのだ。
オヤジは一度深い溜息を吐くと、年甲斐も無く唇を尖らせて俯く俺の頭に、今度はげんこつではなく己の節くれだった手を乗せた。
「……部屋に戻れ。今夜は部屋を出ずに、一人でじっくり反省するんだな」
なんとまあ呆気ないほどお説教部屋ことオヤジの執務室から解放されてしまった。
自室のベッドに身を沈め、ぼんやりと繊細なレース作りの天蓋を眺める。
げんこつこそ何度も食らったが、結局それ以上のことは何もなかった。今度こそ親子の縁を切るとあれだけ凄んでいたくせに。
なんだかんだ甘いんだよなー、オヤジは。
いたいけな娘にげんこつを振る舞うくらい容赦が無いそのくせ、肝心なとこでオヤジは俺を赦す。
4歳の時に前世の記憶が蘇ってからというもの、頑なに直そうとしない俺の男言葉にも、最初こそ目くじらを立てていたが次第に諦めたのか何も言ってこなくなった。オヤジと親しい使用人の前以外ではちゃんと猫を被ってるから問題は無いのだが。
何度も持ち掛けて来る見合い話だってそうだ。オヤジがいくら有力貴族だからと言って、その娘がなにをやっても許されるというわけではない。俺が男の求愛を拒むなり逃亡するなりした後始末を、オヤジがしていることは知っている。今日の顔面ケーキ事件も、きっとオヤジ自らがナルディス家の屋敷まで出向き、謝罪の意を示してきたのだろう。
俺を産んですぐ母が病死し、それ以降乳母や侍女の手を借りつつも、高位貴族と思えないほど奮励して俺たち兄妹を育て上げたオヤジ。ハゲ頭と笑いながら、ぺちぺち頭を叩く幼い俺を抱き上げ、愛おしそうにエメラルドグリーンの双眸を細めるオヤジ。
厳しくも確かな愛情を与えてくれ、俺に父親という存在を教えてくれたオヤジが、俺はなんだかんだ好きだった。あ、団長はまた別だぞ。彼は大切な仲間なのだ。
――そろそろ年貢の収めどきかもな。
枕に顔を埋め、試しに自分の花嫁姿を想像してみたがどうあがいても吐き気しか込み上げてこなかった。
* * *
「リーシャさま!!」
翌朝、謹慎処分が明け(と言っても部屋で大人しく本を読んでいただけだが)、優雅に食堂で朝飯を食していると、慌てた様子のハルアが飛び込んできた。
彼女は20歳と歳が近いということで、俺が11の頃から俺付きの侍女としてこのレイフォード家に仕えている。所謂幼馴染というやつだ。
少々口うるさいところもあるが、仕事は出来るしこんな令嬢の風上にも置けない俺にもよく尽くしてくれる、良い奴だ。因みに彼女の前でも最初は猫を被っていた俺だが、ダンスレッスンが嫌で三階から木を伝って逃げ出した際それを目撃され、あっさり化けの皮が剥がれた。まぁそのお陰でのびのびと暮らせてる今があるんだけどな。
後ろで一つに括った鳶色の髪を揺らし、肩で息をする様子はいかにも緊急事態といった風だ。
昨日のナルディス家の坊ちゃんがお礼参りにでもやってきたのだろうか。片手に高級ケーキ携えながら、顔面ケーキの恨みはらさでおくべきかとか言って。うーん、それは勘弁だな。頭から麦酒浴びせられるなら大歓迎なんだけど、俺、甘いもんはあんま得意じゃねーんだ。
「大変です大事件です! アホ面晒してベーコン食んでる場合じゃないですよ!」
毎度思うがこいつだって仮にも男爵家の娘であるのに、この言葉遣いの悪さは何故だ。アホだのクソだの、とても令嬢が発すると思えない言葉も平気で俺に吐く。まったく、我が家へ奉公に来るまで生粋の箱入り娘だったこいつが、どこでこんな言葉を覚えてきたのやら……俺しかいねぇな。
「アホ面で悪かったな。で、なにがどう大事件なんだ? 俺に顔面ケーキプレイを食らったナルディス家のお坊ちゃんに新たな扉が開けちまったとか?」
軟弱そうな雰囲気だったし、ああいう輩には被虐嗜好が強いのが多いのだ。
ふわふわのオムレツを今となっては慣れ親しんだナイフとフォークで切り分け、ジューシーなベーコンと共に優雅に口へ運びながら適当に答えると、突然両頬をぐわしと片手で押さえつけられた。むご、ちょ、やめい! 両サイドからそんなに強く押されると中身が零れるだろうが!
「ナルディス伯の御子息様がドMという御報告のために、私がこんなにも息を切らして貴女の元へと駆け込んできたとお思いですか?」
「むごご、じょ、冗談ふぁよ。ひゃからこの手を離しやふぁれお願いしまふ」
……ふぅ、こいつ最近これまでに輪を掛けて俺に容赦無くなってきたな。伯爵令嬢に対する態度とは思えん。今度ビシッと言ってやろう。間違い無く返り討ちに遭うだろうが。
「いいですか、リーシャ様。心して聞いてくださいね」
頬を上気させ、黄金色の瞳を潤ませながら捲し立てるハルアの姿はさながら恋する乙女のよう。興奮冷めやらぬといった様子でぷるぷると震える彼女に、俺はすっかり冷めた気分で口の中に残っていたベーコンを咀嚼した。
「なんと! かのアズナヴール侯爵家嫡男、銀氷の貴公子ことヒルベルト・アズナヴール様がリーシャ様を当家の妻にと、直々求婚にいらっしゃったのです! キャーッ」
……。
だれだ。
* * *
窓から差し込む柔らかな光に照らされて煌めくシルバーブロンドの髪に、冷ややかな氷のように澄んだアイスブルーの瞳。
銀氷の貴公子とやらはたしかにそこにいた。
って、昨日の師団長さんじゃねーか!
昨日の漆黒の鎧姿ではなく、シンプルながらも質の良さそうな蔦色のジャケットとパンツを身に纏っているが、間違い無く目の前の人物は昨日下街で俺を助けてくれた、帝国騎士団師団長さんだ。
アズナヴール家といえば有能な帝国騎士の輩出が盛んと有名な家柄だが、まさかこの師団長さんがそこの長男だったとは驚きだ。
え、てか求婚て。おいまじか。
昨日初対面だったよな? 俺たち。なにがどうしてこうなった。
惚れっぽいタチなのか? いや、それはないな。異様にテンションの高いハルアが言うにはこの師団長さん、重度の女嫌いかなんかで25になった今も頑なに妻を娶ろうとしなかったらしい。そんな男が道端で一度しか出会ったことのない女と婚姻を結ぼうと考えるとは思えない。
かと言って家柄目当てなのかと考えても、この顔にこの爵位持ちだ。わざわざ俺を選ばずとも、もっと選択肢が他にもあるはずだ。なんなら皇族にゆかりのある公爵家の令嬢を嫁に迎えることだって無理な話じゃない。
応接室の戸を開けるなり呆けた顔で固まっていると、師団長さんが徐にソファから腰を上げた。
弾かれたように俺も姿勢を正し、歩み寄って来る彼に令嬢の仮面を貼り付け、構える。
この男の意図は読めんが、話してみないことには分からない。かの帝国騎士団の一師団をまとめ上げる男だ。一傭兵には計り知れない、何かがあるのかもしれない。何か深い考えが――って、
ちょ、
ま、
うおおおおおおおい!?
なんで俺こいつに抱き締められてんのおおおお!?