歓喜の歌
人影も無くなった賽銭箱の傍らに、両腕を身体に巻きつけ足踏みをしてたたずみながら隆は白いため息をついた。キーンという現実には無い音が聞こえてくるほど、境内の闇は深い。時折、その闇の狭間をすり抜けるようにして非日常的な笑い声や、初詣にでも行くのか遠くで誰かを呼ぶ声が響く。それがまた彼の孤独感をいや増した。
今の彼にとって、一円でも稼げる仕事は何でもありがたかったが、いかんせんこの職場は寒くて寂しすぎた。退屈を消化するしかない頭の中では昨晩この勤めに出る前に聞いた第九の調べがぐるぐると渦巻いている。
あの頃は、この曲が彼にとって楽しいことがてんこ盛りの待ち焦がれた正月の到来を告げる喜びの歌であった。そう考えていると、まるでマッチ売りの少女のように、彼の目の前には両親が健在であった幼い頃の楽しかった記憶が浮かび上がった。
――おせち料理にお年玉、親戚が遊びに来て、一日中遊びまわっていたなあ。
何の不安も無く、と思った瞬間に幻は消え、隆の目の前にはたちまち暗い境内が広がった。
「しかし、あんな歌詞とは思わなかったな」
期待とともに外国語で歌われる第九の歌詞の日本語訳を見ていた隆は愕然とした。長じてからは、これがベートーベンの有名な曲で、神を讃える歌詞の合唱があることぐらいはクラシックに興味の無い隆の頭にもいつの間にか刷り込まれていた。が、さすがに歌詞の詳細は知るわけが無い。
年が明けてすぐに職を失うことが決定的な彼は、幼い頃にわくわくしながら聞いたその曲に慰めて欲しかった。聖なる曲だから、すさんだ心を鼓舞する何かがあるだろうと期待したのだ、それなのに……。
――真の友や、美しい妻が無いものは、涙を流して立ち去れだとぉ。
いい年をして恋人もない。それどころか人付き合いが苦手な彼には、これといった友人も居なかった。
歓喜の歌の言葉に従えば、涙しながら立ち去らねばならない、そのものずばりの人だったのだ。
本当は虫けらのような人間にすら神の救いがもたらされるという歌詞があるのだが、あの一節にひどく衝撃を受けた彼はそのあとの歌詞が頭に入ってこなかったのである。
「期待するほうが馬鹿だったよ」
賽銭の警備に立つ前に、神社の神主さんからご馳走になった温かい蕎麦のぬくもりが、愚痴とともに口の中から逃げていくような気がして隆は慌てて口をつぐんだ。
――運試しでもしてみるか。新年だからな。
賽銭箱の近くの薄い明かりでなんとか百円硬貨を探し出し、隆は境内に唯一あるおみくじの自動販売機に向かった。
かたん。
軽い音とともに出てきたおみくじを、隆は手袋をはずしてそっと開いていった。
「おっ!」
出てきた御神託は、大吉だった。
大枚をはたいて百円を貢いだかいがあった、と隆が上機嫌で境内のほうを向いたその時。
たたずむおかっぱの少女の姿が、漆黒の闇の中からまるで白く浮き上がるようにして彼の目に飛び込んだ。年のころは、子供の居ない隆にはよく分からないが、幼稚園ぐらいだろうか。
「おじょうちゃん、お父さん、お母さんは?」
時計を見ると午前4時。こんな寂れた神社に子供を初詣につれてくる親が居るとも思えない。
寒さと疲れでまさか幻影を見ているのではないだろうな、隆は一度目を瞑った。
再び眼を開けたときも、その少女は丸い瞳で彼を見上げていた。
「迷子? お名前は?」
隆が投げかける質問に答えようともせず、少女はじっと彼を見ている。
少女は白い厚ぼったい真新しいコートを着ていた。そのせいで、白く輝くように見えたのかも知れない。
隆はコートから出た少女の手が手袋で包まれていないことに気が付いた。
彼は自分の手袋をはずし、少女の手を自分の手で包み込んだ。
「おうちは何処? 送っていくよ」
手に何か異質な紙のような感触を感じて、彼は手を開いた。
少女の手にはおみくじが握られていた。
「おみくじ引きに来たの?」
隆の言葉で急に少女の瞳に涙が浮かぶ。ふと見たおみくじには「大凶」と書かれていた。
「大丈夫、こんなのただの紙切れだよ」
少女はうつ向いて頭を振る。
少女の手を握った彼の手に、ぽたりと熱いものが落ちた。
「いいことがある」
隆は自分のおみくじを少女に見せた。
「大吉、最高に良い運だよ、これと取り替えよう」
少女の手に自分が引いたくじを押し付けると、隆は大凶のくじを少女の手から取り上げた。
「でも……」
少女の声がかすかに耳に届いた。
「お兄ちゃんさ、やることなすことうまくいかなくってさ、今どん底だからこれ以上悪くならないんだ。放っておいても、もう今から運勢あがりっぱなし」
もじもじとする少女の前にかがむと隆はいたずらっぽく微笑んだ。
「じゃあ、お願いがある。お兄ちゃんは天涯孤独で愛するものが無いんだ。だから君が大きくなって、もし僕に遭ったら、友達になってくれるかな」
少女はこくりとうなずいた。
「ようし、じゃあもうこの大吉は君の運だよ」
ウィンクすると、隆は自分のものとなった大凶のくじを境内の木にくくりつけた。
「さ、これで解決。じゃあ、一緒にお父さんやお母さんのところに行こう」
振り向くと、境内に少女の姿は無かった。
「おじょうちゃん、おーい」
叫んでも返事は無い。
――止めてくれよ、正月早々心霊現象なんて冗談じゃない。
隆はもう一度大きく叫び、耳をすます。
風の音にまぎれて聞こえてきたのは、期待した返事ではなく、かすかな泣き声。それも紛れも無い赤ちゃんの声だった。
「まさか捨て子?」
隆は声のする社の裏手に駆け出した。
闇の中、赤ん坊の泣き声はだんだん大きくなり、がさがさという人の居るような音も聞こえてきた。
「誰だ」
赤ん坊の声とは反対に駆け出す足音、人影は小柄で女性のようだ。
「まてっ」
足には自信のある隆は、すぐに追いつき、伸ばした手で肩と思われる場所をつかんだ。
か細い叫び声をあげて、人影はガクリと地面にうずくまる。
はあ、はあ、はあ、はあ。
お互い言葉が出ないまま、息を弾ませる。赤ちゃんの激しく泣く声が聞こえると、隆が捕まえている人影の息は次第に嗚咽に変わっていった。
「あんたの、赤ちゃんだろ」
次第に暗闇に慣れてきた眼で隆が覗き込むと、人影は長い髪の痩せた女だった。
女は震えながら首を縦に振る。
「事情はあるかも知れないけど、だめだよ、子供を捨てちゃ」
隆は絵里と名乗った女性の肩を抱くようにして立たせると、泣き声のするほうに向かった。
「抱いて温めてあげなよ」
絵里が赤ちゃんを抱き上げる。その瞬間、絵里は再びしゃがみこんで泣き始めた。
「ごめんね、ごめん……」
親子とともに唯一明かりのある賽銭箱の近くに来たとき、隆は思わず叫びをあげた。
「そ、その、コート?」
赤ちゃんがくるまれていたのは真っ白なコートだった。
「お金無くて、今日万引きしたの……」
絵里の言葉は、隆の耳に届いていなかった。
それは、さっきの少女が着ていたものとそっくりだったのだ。
「今夜のあてはあるの?」
絵里は首を振った。
「良かったら、僕のところに来る? いや、変な意味じゃなくて」
隆の申し出に絵里は一瞬口ごもった、が、赤い眼で隆に微笑んだ。
「わかってる、あなた悪い人じゃない。見て、この子あなたを見て笑ってる」
守るものがあれば、愛するものがあれば、こんな僕だってがむしゃらに頑張れる気がする。たとえ、運は大凶でも。
子供の泣き声に隆はなにか温かいものを感じていた。
今年の第九は心穏やかに聞けるかも知れない、隆にはなぜかそんな予感がする。
西洋であれ、東洋であれ神様は人を見捨てるわけがないのだ。
気の早い鶏が夜明けを告げた。