哀と青春のぱっこんぱっこん
「今から行っていい?」
これって、ホント? クリスマスイブを晴美ちゃんと一緒にすごせるなんて。
僕は先ほど見つけた小さな黒い点を消そうとごしごしとトイレを磨きつつ先程の彼女の電話を思い出しながら感動に打ち震えていた。
「失恋しちゃったの」
下心を押さえつけながら、バイト先で知り合った彼女の話を喫茶店で聞いたのが二ヶ月前。
頷きながらも涙に揺れる彼女の睫毛をうっとりと眺めていたっけ。
まさか、まさか、こんなに話がうまくいくとは思ってもいなかった。
「新しいゲーム買ったんだ。今度のクリスマス、一緒に……」
何度目かのデートで、思い切って言った一言に小さく首を縦に振ってくれた彼女。
うおおおおおおおおおっ。僕はほんのり赤らんだ彼女の頬を思い出して、便器に抱きつかんばかりにして磨き立てた。
白い太股が、こ、この便座に吸い付いて……。
ひ、人によってはトイレの中ですべて服を脱がなくては用が足せない人もいると聞く。
こ、この中でもしかして全裸の晴美ちゃんが……うおおおっ。
燃え上がれ便器、光れ貯水槽。僕と彼女とのホーリーナイトを祝福してくれ。
あと、少しで彼女が来る。
ぼろは着てても、トイレは錦。もう、完璧だ。画竜点睛。曇り一つない便座は彼女の太股を待つのみ。
しかし妄想と邪念ではち切れんばかりの僕の脳は大切な事を忘れていた。
水を流した、その時。
ごぼっごぼっ。不穏な音の後に、なんだか足先に冷たい感触がした。
ふと視線を床に落とすと、え、水っ?
僕の頭は真っ白になった。
便器と床の間から、なんと、水が漏れている。
まさか。あわててもう一度水を流す。
ごぼぼぼ。トイレの床一面に水が溢れてきた。
僕の脳裏に入居の時の大家の声が蘇った。
「トイレにティッシュを流しちゃだめだよ。トイレットペーパー以外は詰まるからね」
そう言えば、さっき便座を磨いた後、何の気なしにトイレに……。
ああっ、よりによってなんで僕は今さらトイレなんか磨いたんだっ自分のばかばかばかっ。
ピンポーン。
呆然と立ちすくむ僕の耳に無情のベルが鳴り響いた。
ドアを開けると、両手に買い物袋を抱えて僕の天使が立っていた。
「ご飯を作っていいかしら」
手品のように取り出された白いエプロンをつけながら、彼女は台所に向かった。
「いきなり、ずうずうしい?」
「い、いや…」
それだけ言うのがやっと。
まるで僕の方が他人の家に来たかのように、彼女の背中を見ながら突っ立っている。
「好きなものは?」
「あ、んっと、塩辛いもの」(塩分を取ると、尿が出にくいって言うしな)
「部屋、思ったよりきれいだわ」
ははは、磨き立てたんだよ、君のため。そのおかげで大変な事になったけどね。
僕は心の中でさみしく呟いた。
そうこうするうちに部屋中に良い匂いが漂い始めた。
「出来たわよ」
いよいよ彼女と二人の甘いディナーの始まりだ。
ワインで酔わせて、そっと唇に……。
いや、その前に問題はトイレに行かずにこのまま一晩過ごせるかだ……。
「ホ、ホテっ」
「えっ?」
彼女が怪訝な顔で振り向いた。「お手? 犬でもいるの?」
い、言えない。彼女との付き合いは、まだ浅い。
いきなり一緒にホテルに泊まろうなんてアニマルなこと、言えるはずがない。
僕としては一緒にイブを過ごすうちになんというか、あ、気が付いたらそんな事に? ってのが理想で……。
「喉が渇いちゃった」
そう言いながら彼女は自分のグラスにワインを注ぐ。結構、なみなみと。
「塩辛くしすぎちゃった」
はらはらするようなペースで彼女は水分を摂取する。
不安に揺れる僕の心とは裏腹に彼女はとっても楽しく時を過ごしている様だった。
しかし、ついにその時がやって来た。
「悪いけどお手洗い借して」
僕は意を決した。
「実はさっきトイレが詰まってしまって、使えないんだ。直すものが無くて」
「ええっ、帰ろうかな」
慌てて僕は彼女の前にさりげなく立ちふさがった。
「せっかくの楽しい晩じゃない、もう少し」
いきなり彼女も立ち上がった。
「じゃあトイレを直しましょう」
「それよりも、ホ、ホテテ…」
「ほっといて? 直さなきゃだめよ」
彼女はドアを開けた。「早く道具を買いましょ」
閉店ぎりぎり。彼女と二人で近所にあるスーパーに駆け込んだ。
「トイレの詰まりを治すものありますか?」
「はあ」店員は首を傾げる。「名前は?」
言われて始めて気が付いたが、僕はその名を知らない。
詰まりを治すために小学校の時に使ったのは吸盤の付いた棒だったけど。
「あのう」彼女が意を決したかのように口を開いた。
「トイレでぱっこん、ぱっこんってするものなんですが」
イブの夜、男同伴の女の子が言うとなんだか意味深な響きがする。
「お若いの、お探しのものはこれかな?」
いきなり背後から、白髪の老人が薄汚れた一本の棒を差し出した。
「この棒を持って、ぱっこん、ぱっこんと叫ぶのじゃ。そうすればお前の真に望むものがその棒の先に吸い付けられて来る」
「ぱっこん、ぱっこん?」
「そうじゃ」老人はゆっくりと頷いた。「だだし、1回だけしか効果はないがな」
「これを見ず知らずの僕らにくれるんですか」
老人はにこやかに微笑んだ。
「トイレの神様からのクリスマスプレゼントじゃ」
僕と彼女は顔を見合わせた。
その一瞬の間にかき消すように老人の姿は消えていた。
「なんだか不気味ね」
「そう言わないで、試してみようよ」
見たところただの棒きれだが、何らかのハイテクの仕掛けがあるのかもしれない。
ヘンな爺さんだったが、今となっては頼れるものはこれだけだ。
彼女は不満げに首をかしげながらスーパーのトイレを借りに行った。
「じゃあ、やってみるよ」
隣で彼女が不安そうに頷く。
便器を前に、僕は棒を握りしめた。
将来、彼女とそういうことになった時に、僕らの最初の共同作業はコレといったことになるのだろうか……。
彼女との甘い一夜のために、全痴、全煩悩の神よ、奇跡をくれーーっ。
「ぱっこん、ぱっこん!」
僕は叫んだ。
と、同時に便器の中が沸騰するかのように泡だった。排水溝からいきなり白い光が柱のように立ち昇る。
「きゃーっ」
僕と彼女の目の前に立っていたのは、なんと、全裸の晴美ちゃん本人だった。
わずかに違っているのは本人よりいくらか豊満だということぐらいか。
「あなたの望んだのはあたしでしょ」
水を滴らせながら彼女が近づいて来る。
ティッシュを一心に願ったつもりだったが、晴美ちゃんに関するいやらしい想像は消しきることができなかった……。
「私と一晩過ごしたいんでしょ」
「あひっ」
理想の女性が全裸で。あまりのおいしい展開に、すでに理性は無くなっていた。
僕は知らず知らずのうちに首を何度も縦に振っていた。
「ひ、ひどい人ね。だいっ嫌い」
晴美ちゃんの泣き声と、出ていく足音がした。
「選んでくれて、ありがとう」
惜しげもなく白い胸を(多分本物より大きい)むき出しにして晴美ちゃんは僕に近づいてきた。
シャワーから出たばかりのように彼女の胸の間から滴が流れた。
「何で、濡れてるの」
彼女は微笑んで僕に手をさしのべた。
「あたしはあなたの真に望んだもの……」
彼女の手をとった瞬間、かき消すように彼女はいなくなった。
そして僕の手の中には濡れたティッシュが残された。
「メリークリスマス! トイレを磨く若者よ」どこかで老人の声がした。
気が付くと、夢に見たクリスマスイブは終わっていた。
で、得たものは、詰まりの直ったトイレのみ。
「はあ~、ぱっこん、ぱっこん」
僕は立ちすくんで、何度もうわごとのように呟き続けた。