ハッピー・レモネード
ハッピー・レモネード
「これが最後の晩餐なんて、お前も欲の無い奴だなあ」
看守があきれたようにトローリィに汚れたグラスを差し出した。その中にはなみなみと黄色い液体が入っている。
受刑者の制服である薄汚れた白い作業服を着た若い男は独房の四角い隙間からそれを受け取ると、そっと一口すすった。
「確かに、お前の頼んだとびっきり甘いレモネードだろう」
そばかすのある青白い顔が無表情にうなづいた。
「気持ち悪いなあ、砂糖と蜜でどろどろだぞ。わざわざこんなものを指定するなんてお前は本当に変ってる。こんなものが美味いのか?」
看守が不思議そうに聞いたが、まぶたまで前髪が垂れた青年はうつむいたままで返事はなかった。
「最後の一品にそんなものを頼む奴は始めてだ。今まで苦い生体維持液ばかり飲んできたんだ、希望が聞いてもらえる処刑前日の最後の一品くらいまともな物を食べればいいのに」
受刑者は看守の言葉には耳も貸さず、どろどろの液体にそっと指をつけて滴る蜜をじっと見つめていた。
「ま、勝手にやるがいいさ、明日の朝は待ちに待った死刑執行だからな。それにしても馬鹿な奴だよ、わざわざ他の国から反体制運動をしに来るとは」
いまいましそうにつぶやくと看守は足早に立ち去って行った。
政治運動でトローリィが捕まったのは二ヶ月前。満足な裁判も受けないままの死刑判決だった。
この国、ラドラーではずいぶん前から独裁体制がひかれ、恐怖政治が行われてきた。
もちろん人道的に問題の多いこの体制に対し国際会議でも幾度となく問題には上がっているのだが、辺境に位置し資源も乏しいラドラーに進んで干渉しようとする国は無かった。なにしろこの国は熱帯に位置しており、進んだ文明を持つ温帯の国々では考えられないようなぶっそうな病気や動植物が沢山存在している。どこの国も泥沼になることが予想できるこの戦いに自軍を出すことを躊躇した。
と、いうわけで国際会議では拘束力を持たない「勧告」が繰り返されるばかりだった。
しかし一年前に風向きが変わった。反体制派の拠点が陥落したとき、そこに居た年端も行かない子供たちが見せしめのために大量虐殺されたのだ。その事件が他国の人権活動家達を激怒させた。彼らは義勇兵として大挙してラドラーに押し寄せ、反体制派と協力してゲリラ活動を行い始めたのだ。
このトローリィもその一人であった。
冷静沈着で頭の切れる彼は、ゲリラを率いて不可避と思われるいくつもの困難を潜り抜け、次々と政府側の重要な拠点を奪取した。
そして何時しか、反体制派にトローリィあり、と民衆からは慕われ、政府から恐れられる存在になっていったのである。
政府の屋台骨が揺らぎ始めすべてが順調に行き始めた、と思われたある日。彼が潜んでいた建物が、政府軍に急襲を受けた。
彼は味方の裏切りによって政府軍に拘束されてしまったのである。
「他国のものになんか、ラドラーがわかるものか」
密告した青年はトローリィに叫んだ。
「きっと何かたくらんでいるんだ。ラドラーを他の国にどうこうされてたまるか。勝ったら、新しい政府に恩を売ってお前の祖国の利益を図るつもりなんだろう」
「違う、信じてくれ。私は、この国に人生を捧げるつもりで来たんだ」
引きずられていくトローリィの叫びは、むなしくジャングルに吸い込まれて行った。
独房の鉄格子からもれる夕日が、物思いに沈むトローリィを照らす。
いよいよ二ヶ月に渡った過酷な刑務所暮らしも終わりを告げようとしていた。
それは、すなわちこの世とトローリィの別れを意味する。
囚人に嫌がらせをすることにしか精を出さない看守は、さぼっているのか気を利かせているのか誰も戻ってこない。この刑務所には監視装置が無いので、彼は完全に一人になった。
トローリィはびくともしない鉄格子を握りしめた。
この窓の鉄格子さえなければ……何度思ったことか。
彼はおもむろに作業着を脱ぎ、右手に丹念に巻き付けた。
そして左手でレモネードの入ったグラスを握り締め、二ヶ月間にらみ続けた独房の壁のひびわれの方に向いた。
「もう反体制派も時間の問題ですね、名参謀のトローリィが居なくなったとあっちゃ」
「しかし、あいつも起死回生のトローリィとよばれた割にはあっけない最後だったな」
看守の一人が休憩室でくつろぎながらつぶやいた。
「まるでもう故人になったようなしゃべり方ですね」
若い看守が笑いながらたばこに火をつける。
「明日の朝八時になれば、あの独房の天井が落っこちて奴を押しつぶすんだ。もう、死んだも同然だ」
二ヶ月間、トローリィが脱獄する悪夢にうなされていた看守長が言った。
「そりゃそうだ。あの壁を素手で壊せる奴なんていませんよ」
「あのやせこけた男にそんなことができるわけないですしね」
この刑務所は旧式だが、鉄格子と厚いコンクリートで作られたがっちりとした建物である。火器でもない限り壁を破って脱獄はできない。トローリィが入所する時、徹底的に身体検査をしてすべての物を取り上げた。危険な作業に従事させられることが多いため、作業着だけはある程度防護性の高いものが支給されているが、そんなものは脱獄の道具にはなりはしない。
今の奴にできることはせいぜい安らかに死ぬことを祈るだけ。看守長は薄笑いを浮かべた。
「さ、後は虫除けをまいてぐっすり朝まで寝るだけですね」
「しっかりまいとけよ。飢えきった蚊の奴らが襲ってきたら、腫れ上がって腕の太さが2倍になっちまうからな。なんせ、ここいらの昆虫たちは大きさも毒もけた違いだからな」
「ええ、しっかりまいときます。自分たちの居る場所だけはね。囚人の奴らはせいぜい虫に咬まれてのた打ち回るといいんだ」
「よせよせ、今夜は奴らの悲鳴で寝られなくなっちまうぜ。せっかく明日はトローリィが死んでくれるってのに」
この二ヶ月、トローリィに逃げられた夢ばかり見て不眠症になっていた看守長は安堵のため息をついた。
その瞬間、けたたましい警報が所内に響き渡った。
「に、逃げられました」
息を弾ませて飛び込んできた看守が報告した。
「ト、トローリィです」
看守長は最初これは悪夢の続きかと思った。
しかし、彼の耳に再び同じ名前がはっきりと飛び込んで来た時、彼は悪夢が正夢になったことを悟ったのである。
「ば、馬鹿な」
トローリィの独房に飛び込んだ看守長は、どろどろに溶けた鉄格子を見て立ちすくんだ。
ラドラー共和国の国旗には、初代議長トローリィがそれの持つ強い腐食蟻酸で鉄格子を溶かした故事から、ラドラー大蟻の模様が使われている。
トローリィは糖分の高い液体をひび割れに塗りつけることによって、飢えた大蟻たちの大群を独房内に導きいれた。そして甘いレモネードで鉄格子まで誘導して潰したのである。彼はその際に右手にかなりの怪我を負ってしまったが、彼が生きて戻ってきたことによって精神的支柱を取り戻した反体制派は息を吹き返した。
そしてとうとう、政府は崩壊し、体制が変わったのである。
今日はこの国一番の祝日、彼の脱獄記念日。
人々はトローリィが大量の大蟻をおびき寄せるために使ったこってりと甘いハッピー・レモネードを飲み、最後の一滴を地に落とし彼の命を救うために潰れてくれた運の悪い大蟻たちを弔うのである。