ルイナ
「奥さん、堕胎できる時期は過ぎています。この命はもう生まれることが決定されているのですよ」
スクリーンに映し出された小さな丸い頭がまるでうなずくように縦に振られた。
「嫌よ、どこの誰かもわからない異星人の子を生むなんて」
「しかし元はといえば輸精管を手に持つナスデム星人と握手したあなたの不注意……」
「助けてビル、だって握手するのが礼儀かと思ったのよ」
泣き伏す女性の上半身を抱きかかえてビルと呼ばれた男が言った。
「ユリエ、僕らで育てよう」
ユリエは涙目で男のほうを見あげた。
「こんなの犯罪よ」
「ナスデム星人は絶滅危惧種です。母星においては、彼らは誰にでも精子を分与する権利があるんです」
医師が咳払いした。
「観光に行くなら、もっとその土地について調べて行くべきです」
「主人の出張についていっただけなんです。ナスデム星人の居る密林に行くなんて予定していなかったもんだから……」
ビルは妻の背中を優しく支えながら言った。
「いいじゃないか。ナスデム星人の子だって。だって僕らには子供が出来なかったんだから」
「ナスデム星人は母体にあわせて形態を変化させることのできる種族です。妊娠型も人間とほとんど変わりません。人間の子と同じように生まれて育ちますよ」
ユリエの興奮がおさまってきたのを見て、医師はほっとした様子で言った。
「そのうち母性が沸いてきます。大丈夫です、育てられます」
「そうだよ、ユリエ。この子は神様が授けてくださったんだよ」
ユリエ達夫婦は子供を望んでいたが、どんな方法を取っても胎児はいつも子宮の中から消え去ってしまっていた。
ビルは心の中で叫んでいた。もう父親は誰でもいい、君の子が欲しいんだ、と。
「ル、イ、ナ」
キョトンとした目で見つめる娘に、ユリエは何度も口移しするように名前を教え続けた。
ルイナと呼ばれた幼女はドーナツを頬張りながらにこりともせずに、醒めた目で母を見ている。ユリエはルイナの手を取って、もう一度名前を繰り返した。
「言って、ルイナ。あなたの名前はルイナなのよ」
ユリエの語調が鋭くなる。
いつもこうだ、こうして拗れていくんだ。わかっていながらも胸が失望で一杯になり、ユリエは子供の前でこれ見よがしに大きくため息をついた。
「今日は言えるまで終わらないわよ、ほらこっちを向いて聞きなさい。ル・イ・ナ」
パシッ。
ルイナは彼女の手を振り払って、戸外に飛び出した。幼女の足は存外に速く出遅れたユリエの視界からみるみるうちに遠ざかる。
「待ちなさい」
ユリエは慌てて追いかけた。
うまくやっていけると思ったのに、やはり望まない妊娠の結果はこうなるのだろうか。後悔の念が彼女の心をよぎる。
なぜ、こうなってしまったのだろう。最初は、最初は良かったのに。
不思議なものだ、あんなに嫌だった妊娠なのに、時が過ぎるうちになんだか子宮の内から愛おしさが滲むように広がって、お腹を触るたびに彼女は恍惚とした感情の波を感じるようになっていった。
「胎児から母性を活性化させる物質が出てるのかしら」
溢れるような幸福感に溺れそうな日々、何とか理性的になろうとユリエはビルにそう尋ねた事がある。
「母性は遺伝子とホルモンのなせる業だ。だけど、自分の両親の愛を無機質なものと感じた事があるかい?」
ユリエは首を振った。
「いいのさ、たとえ胎児が分泌する物質で幸せを感じても。君が幸せと感じたら、きっとこの子に還元されてお互いにもっと幸せになれるよ」
ビルが笑って言う。
「あなたは血がつながって無いこの子を愛せる?」
「君の子だ。愛せないはずがない」
自信たっぷりな彼の笑顔を、ユリエは信じた。
……だけど。
捕まえた。ユリエはルイナを抱き上げた。
「ここは交通量が多くて危ないわ、お家に帰りましょう」
ルイナはむずがってユリエの腕の中で暴れる。
「お願い、静かにして」
ビルはルイナが4歳になっても言葉を話せず、二人を親と認識できない事がわかってからというもの仕事に没頭して育児に手を貸してくれなくなった。勢い不仲になるユリエとの間。そうなるとますます家庭を顧みず夫婦の会話も減っていった。
「全く、男って勝手ね」
こうなれば、私がこの子を守るわ。どこに出しても恥ずかしくないちゃんとした人間として育ててみせる。
しかしユリエの決意は、ルイナへの過剰な干渉になって空回りしていた。熱意を込めるほど、ルイナは怯えて反応しなくなる。焦燥感に駆られた彼女とルイナの間には、深い溝が刻まれようとしていた。
「さ、帰るわよ。きき分けて頂戴」
しかし我が子は母親の言葉などどこ吹く風と低空を走るリニアカーをじっと眺めている。ユリエがルイナの身体を抱えてその場から立ち去ろうとすると、ルイナが暴れて二人はよろめいた。
その時、歩道の方にリニアが突っ込んできた。
暗闇の中で、ユリエに微笑んでいるのはあのナスデム星人だった。
彼らは言葉を発せず、心で会話する。ルイナの言語発達の遅さはそのためだと小児科の医師はユリエに説明した。心で会話できない苛立ちが、ルイナを自分の世界に閉じ込めてしまったと。
相手によって自由に身体を変化させられるナスデム星人は、あの時ユリエの前に寂しそうな顔をした青年の形態で現れた。
言葉は交わさなかったが、彼の心が微かに伝わって来た。
――私は、呼ばれた。必要とされていると。
彼は、右手を差し出した。
――我が命は長くない。もう会うことは無かろう。
ユリエは吸い込まれるようにその手を握った。
右手から下腹部に走る鋭い痛み。叫びを上げてうずくまるユリエ。ビルが駆けつけて来た時にはすでにナスデム星人はいなかった。
彼を呼んだのは無意識の私だったのかも知れない。種族を残したい彼、そして子供の欲しかった私。ユリエはぼんやりと考えた。
ナスデム星人は彼女に微笑むと暗闇の中にゆっくりと消えて行った。
「……リエ、ユリエ」
遠くで叫ぶ声が切れ切れに聞こえる。あれは、ビルだわ。
海に沈む小石になったように、ユリエは深い眠りに落ちていった。
「しっかりしろ」
ビルは、ベッドに横たわるユリエの手を握って叫んだ。
「全身打撲です。娘さんをかばって暴走してきたリニアカーに追突されたようです。臓器障害が相当激しくて、もう打つ手がありません」
「頼む、彼女を助けてくれ」
医師にすがりつくようにしてビルは叫んだ。医師は静かに首を振った。
「僕は卑怯だ。子供を産ませて、そして、逃げた。子供が欲しかったのは僕なのに」
医療機器を珍しそうに眺めるルイナを抱き寄せて、ビルは呟いた。
「ナスデム星人の事を秘密にして、君をあの星に連れて行った。そして僕は彼らを心で呼び続けた。妻に子供を、と」
待望の子供だった。なのに……。
「ごめんよ、ルイナ、ユリエ」
ビルは涙にぬれた顔でじっとルイナを見つめると、ルイナの手をそっとユリエの手に重ねた。
「お母さん、だよ」
ユリエは身を投げ出してお前をかばう様にして倒れていたって聞いた。お前を愛していたんだよ。ビルは心の中で繰り返しながらルイナの身体を強く抱きしめた。
ビルは不思議な感情が芽生えてくるのに気が付いた。愛おしい、小さな命。ユリエが居なくなったら、今度は自分が守らなければ。
「お母さん、お空に昇るんだ」
ビルの言葉に、ルイナの目が初めてユリエの方に向けられた。
目の前には、管につながれ機械の一部と化して横たわるユリエ。
ルイナの顔が急に歪んだ。
そして、両目からぼろぼろと涙がこぼれ始めた。
数分後、スクリーンに映し出された心臓が急に力強く動き始めた。ユリエの息と呼吸装置が同調せずに警報音が鳴り響く。
慌てて駆けつけて来た医師が、呆然と立ちつくした。
目の前のベッドでユリエがパッチリと目を開けていたのである。
「この子が助けてくれたんですか?」
退院を数日後に控えたユリエが回診に訪れた主治医に尋ねた。傍らで、ビルが荷物の整理をしている。
「多分」
医師は頷いた。
「胎児細胞は、出産後も母体に残って循環しさまざまな細胞に分化して母体を修復すると言われています。時には数十年も」
ユリエの危機に反応した胎児細胞が母体を救った。ルイナの細胞は特に増殖、分化能が優れていたらしい。驚くべき速さで母体を修復していったようだ。
「これは推測ですが」
ルイナの心が、母体中の胎児細胞を活性化させたらしい。科学的には考え難いが、そうとしか思えない。私は奇跡を信じないたちなのですが……医師は首をひねりながらそんな意味の事を言って去って行った。
ルイナを膝の上に抱いてユリエが微笑みながらビルに言った。
「闇の中で、この子に呼ばれたの。帰ろう、一緒に帰ろうって」
ルイナは安心しきった瞳で母を見つめている。
「利己的だった僕を許して、ルイナ」
ビルの言葉にルイナが振り向く。
「未熟な私を許して、ルイナ」
無垢な瞳が二人を見返し、何事も無かったかのようにルイナのうれしそうな笑い声が響いた。そして、小さな赤い唇が開いた。
「お母さん、お父さん……」