炎星
「これが飲みたくてまた来ちゃったの」
透き通った淡い黄金色の中、紫の炎で彩られたオレンジ色の球体がぽってりと浮かんでいる。踊る炎は刻々と姿を変え、時に焼き尽くさんとばかりに球を包み込む。
同時に細かい泡が底から静かに立ち上り、かすかに揺れて弾けていく。それはまるで荒ぶる魂をなだめるかのよう、刻々と姿を変えてきたカクテルに静かなリズムを刻み出す。
マスターが技術の粋を極めて作り上げる、グラスの中に封じ込められたはかない情景。
私はこの世界に魅了されている。
「ほのおぼしって言ったわよね、このカクテル」
「ええ」
白髪のマスターはグラスを拭きながら頷いた。
「こんな星を見たの?」
マスターは私の方を向き直って微笑んだ。彼の微笑みは切ないくらい優しい。
「気になりますか、お嬢さん」
「ええ、とっても」
「今まで誰にも話したことがありませんが、今日がその日なのかもしれません。お話しましょうか、このカクテルの由来を」
「ええ是非」
「哀しい話ですよ」
突き出しの木の実の殻を割って口に運ぶ。
口に入れるとほろほろと崩れて香ばしい、バーニ地方特産のマルセラナッツ。
炎星を一口すすると、ツーンと身体に電気が走り口の中にぱあっと花の香りが広がった。拡散して消えていく一瞬の交響楽。そしてかすかに残る苦味。
「ずいぶんと昔、お客様はまだお生まれになってない頃の話です……」
マスターはぽつぽつと話し出した。
そのコロニーの周辺は相が違うとでも言うのでしょうか、不思議なイオン嵐が突然吹いたり、船が行方不明になったり、とかく常識で測れない様々な事件が起こっていました。各星団から派遣された調査隊の最終決論はダークマターの変質だったのですが、実際のところは誰も良くわかっていなかったのです。
でも、悪いことばかりではありません。その宙域で鋳造した金属が考えられないような構造を呈したり、きわめて不安定な物質が安定化したり、そこが新興の金属工業には最適な状況であることが徐々にわかってきたのです。この宙域でしか生産できない製品が次々と開発されました。新天地目指して一旗上げたい企業や人々が進出し、ついに小惑星を基盤とした大きなコロニーが建設されたのです。
そこが宇宙一、裕福で美しいコロニーと言われるのにたいして長い時間はかかりませんでした。コロニー育ちの三世達が青年期を迎えるころには、コロニー独特の文化も円熟し、人々は限りの見えない繁栄を満喫していました。しかし、栄華は滅亡の芽を内包するもの。貧富の差は広がり、問題が山積していました。そして滅亡への芽はすでに育っていたのです。
ここに一人の青年がいました。
彼は無口な、機械の好きな青年でした。特に目的も無く工学の研究室に進み、得意な設計に携わりながら日々をたゆたう様に生きていました。ペルに会うまでは。
「僕はペル。政治に興味があるんだ」
ペルはさっきから学生食堂の周りで会う人ごとに自分の政治倫理を説き、このコロニーの腐った政府は金で弱小な星の政府を牛耳り搾取をしているといい続けていました。皆、何か面倒くさいものを避けるように、薄ら笑いを浮かべながらペルを避けていました。
しかし、彼は退屈だったのです。彼はペルの話に思わず耳を傾けてしまいました。情熱を傾けるものに出会わなかった彼には、ペルがなんだか眩しい存在のように思えたのです。
「君は最高の理解者だ」
歯の浮くような台詞ですが、ペルに言われるとなんだかとても誇らしいのです。考えてみれば、彼は誰かに特別な存在として引き立ててもらったことがありませんでした。
気がついた時には彼はペルの横でアジテーションの書かれた空間ポスターをデザインしたり、政策糾弾の街頭演説に参加したりしていました。政治運動よりも、ペルに認めて欲しくて彼はのめりこんでいきました。そんな彼に向けられるペルの微笑みはいつも自信たっぷりでした、そしてその笑みを受け取ると青年は自分もまた自信にあふれていくような気持になったのです。
しかし、ペルの思想は日を追うごとに変化し、政治運動というよりも反政府活動に近いものになっていきました。最近ペルが属した組織がかなり危険な反政府組織だということは彼も知っていました。だけど彼はもうペルの思想に染まっていたのです。今は犯罪だとしても自分の行為は結局は正しいものと認知されるのだと。ペルを否定されるのは、自分を否定されることと同じでした。
「このコロニーを爆破する」
腐った金持ちどもを粛清するため組織はテロを計画しました。
その時、初めて彼は我に返りました。
ふと、思い出したのです。彼がどんな活動をしていようと黙ってついてきてくれる人がいたことを。鈍重で純朴な女で、今まで彼はその献身をうっとおしいとさえ思っていました。この活動を始めてから疎遠になっていましたがなぜか今、急にかけがえない存在に思えたのです。
計画は進行し、彼とペルの二人が不測の事態に備えて決行ぎりぎりまでコロニーに残る事になりました。もちろんちゃんと脱出用の船は確保してあります。
とうとう当日になりました。しかし、青年は今更ながら間違っていたことに気が付いたのです。悩んだ末、ひそかに爆弾を解除しようと、爆破装置の場所に向かう青年の目の前に立ち塞がったのはペルでした。
最近行動や言動が妙におかしいと感じていたペルは、青年の挙動を注意して見張っていたのです。
それはともに行動するようになって最初で最後の激しい言い争いでした。
「行くな」
ついに、ペルが彼に銃口を向けました。彼は無我夢中でペルに飛び掛ります。
激しい揉み合いの末、銃口が火を噴きペルがゆっくりと倒れていきました。
「あんな女がいるから、素晴らしい活動家だったお前に雑念が生じるんだ。だからお前の恋人は私が……」
ペルの最後の言葉でした。
ペルとの争いに時間を取り、爆破装置はすでに設定解除ができる時間を過ぎていました。
せめて定期船に乗せようと家にたどり着いた彼が見たものは、粛清された彼女の亡骸。
どう走ったか、もう覚えていません。
定期船に乗り込み、コロニーが小さくなっていきます。突然彼方に輝くオレンジの球体が出現しその中から紫の光が揺らめきながら噴出しました。
彼は友も、恋人も、自分自身の存在理由さえも、すべてを失ったのです。
球体は彼のあふれる涙でにじんで歪み、やがて拡散していきました。
「それで……」
「死んだペルとアベル以外、この陰謀にかかわった人間はすべて星間警察に逮捕されたようです」
答えながらもマスターの目はぼんやりと虚空をさまよっている。
「この話は誰に聞いたの?」
「さあ、誰だったか。もう忘れてしまいました。アベルがどこかで人に語ったものかもしれません。だが彼は悪くありません、彼はペルに騙されていたのですから」
潮時、かしら。
「マスターは嘘をついてる」
私は感情を殺した声で呟いた。
「お客様……」
マスターの目の中に影がさす。無理もない。遥か彼方の葬られた真実を今引きずり出そうとしているんだもの。
「あのコロニーが爆発した時、かろうじて助かった定期船から見えた光はオレンジ一色だったの」
グラスの中の星は紫色に燃え上がり、悶えるように上下し始めた。
「ただ、爆発後に紫に見えたであろうところが一箇所あるわ。エルモント鋼を精製している工場のある一帯。定期船が出た所とは正反対の地区。あそこには極秘の兵器工場があったの、そこはきっと紫色に爆発したわ」
紫色に爆発した部分は、特に気流が不安定で船が航行できないといわれていた宙域に面していた。人食い闇と呼ばれ、普通なら船が行かない場所。
「自殺を考えていたのペル? あんな所に突っ込むなんて。今でこそワームホールの存在がはっきりしたけど、それまでは人食い闇と恐れられていたのに」
マスターの手から離れたグラスが割れる高い音がした。
「星が爆破される直前に、管制塔が人食い闇に向かう航行予定外の小型船を認識していたわ。そしてその場所に数年前に空間と空間をつなぐ虫食い穴、ワームホールが発見された。そこと繋がっていたこの星を捜索していくうちに紫に燃える星のカクテルを作るヒューマノイドの噂を聞いたの」
マスターが静かに微笑んだ。自信に満ち溢れた昔日の微笑はすでに無い。
「彼、アベルは航宙船舶の操縦は出来なかった」
「私は思い上がっていました。世界を救えると、考えていました。かけがえの無い友人であるアベルの人生をめちゃくちゃにして、その上最後に彼を裏切ってしまった」
マスターは私の目をまっすぐに見据えた。
「狂信に走っていた時分でしたが、疎遠になった恋人を思い出したのです。彼女を救おうと、組織を裏切ったのは私です。その頃には私以上に狂信的な活動家になっていたアベルを無我夢中で撃ち抜いてしまったのも私です。アベルは私が組織に引きずり込んだのに」
死ぬのも、生きるのも、怖かった……。呟きは嗚咽にかき消され、涙とともに床に吸い込まれていく。
「アベルが悪く思われないように……、話を作っていたのね」
マスターは静かに頭を垂れるのみだった。
「ペル・カシュバン、重大犯罪には時効は適応されません。コロニー爆破の容疑で逮捕します。」
私はパーソナルカードを目の前にかざした。
「公安の方でしたか」
マスターは静かに頷いた。
「最初お会いしたときから、私を救ってくださるのはあなたのような気がしていました」
通信を傍受した部下達がバーのドアを開けて入って来る。
「忘れようとしたんです。でも、頭の中にその情景が浮かぶ。毎夜、毎夜……」
思いをすべて吐き出すかのように、マスターは続けた。
「作らずにはいられませんでした。私が、爆破したあの星を。心のどこかで逮捕されることを願っていたのかも知れません。自首する勇気も無い男ですが、わずかに残った良心が私をひと時も悔恨の念から解放してくれませんでした」
「このカクテルは、あのコロニーへのレクイエムなのね」
「いいえ」
マスターは目を伏せた。
「そんな美しいものではありません」
彼の身体が小刻みに震える。
「腐臭さえ漂うおぞましい思い出の上澄みです」
痛いような微笑。私は目を逸らした。
「支度をさせていただけますか」
奥に向かうマスターの後ろにそっと部下が付き添った。
「残念だわ」
あのカクテルがもう味わえないなんて。
極限の苦しみの果てに醸し出された、この上なく美しい世界。
仕事を忘れて、魅了されていたのに。
私はため息をついて席を立った。
星はすでに燃え尽き、グラスだけが鈍く光っていた。