僕のご主人様
細い指が僕の顎の皺を優しく愛撫する。
「小さいブルドッグみたい。これパグですか?」
「お嬢さんよくご存知ですね」
背後からの猫なで声に僕ははっ、と我に返った。
うう、と唸って、飛び掛る。
「きゃあっ」
噛みつく……ように見せかけて、白魚のような手には触らないように寸止めした。
「こいつ!」
紐が力任せに引っ張られ首が絞まる。が、僕は威嚇し続けた。
少女の笑顔が消え、後ずさる。
ご主人様の猫なで声の呼びかけも空しく、赤い靴を履いた華奢な足は遠ざかって行った。
あの娘に嫌われただろうな、でも、これで良かったんだ。
振り向くと、ご主人様が真っ青な顔で震えている。
その背後でふらふらと揺れる彼女達が、心配そうに僕を見つめていた。
ぎゃん。
口から出た茶色の液が飛び散って、ご主人様のズボンにかかる。それがまた怒りを倍増させたようだ。再び蹴りが入る。
痙攣しだした僕を見て、ご主人様は満足したようだった。
「この馬鹿犬め」
ばたん、とドアが閉まり。僕は戸外に取り残された。
見上げる星空を横切るように、首輪につながれた紐が走る。
涙をいっぱいにためて、一生懸命何か言いながら僕を撫ぜてくれる、彼女達。
残念ながら、僕には何も聞こえないし感じもしない。
でも、心は通じている。
彼女達は僕を可愛いと言って寄ってきた女の子。ご主人様は僕を出汁にして取り入ると、彼女たちを暴行して殺したのだ。狡猾な彼は警察の目をすり抜け、今ものうのうと次の獲物を探している。
ご主人様の手から立ち上る血の匂いと、僕を可愛がってくれた少女達の匂いが同じことに気がついた日から、僕の抵抗が始まった。その頃から、ご主人様の後ろで透き通った風船のようにふわふわと浮いている彼女達が僕の目に映るようになったのだ。
「まあ、可愛い」
近寄ってきた目の鋭い若い女性は、屈むと僕の頭を撫で始めた。
「犬がお好きですか?」
問いかけに嫣然と微笑む女性。
僕はいくつもの指輪がきらめく彼女の手に顔を預ける。
「パグって高いんでしょう」
この手はご主人様以上に禍々しい匂いがする。
そして、彼女の背後には憤怒の形相の若い男達が浮いていた。
ご主人様の後ろに浮かぶ彼女たちに気がついた男達がウィンクする。
微笑んで手を振る少女達。
――――僕らは貢げるだけ貢がされて、挙句の果てに毒殺されたんだ。
――――私たちは犬好きに付け込まれて、この男の毒牙にかかったのよ。
ふと、僕の眼前に夢のような光景が広がった。
ナイフを振り上げ男をめった刺しにする女、毒薬に朦朧としながら女の首を絞める男。
血飛沫の中で僕は夢中で紐を食いちぎり自由の天地に駆け出す。
二人は楽しそうに装いながら語らう。
お互いのどす黒い計画の歯車は回り始めた。その歯車がやがて軋み、お互いを破滅に陥れるとも知らずに。
彼らは並んで歩き始めた。バルーンのように沢山の霊魂を引き連れながら……。