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夏色のホイヘンス

「ホイヘンスの原理って夏のイメージだよな」

「うれしさのあまり頭が煮えたんか?」

 僕らは思わず田中の顔を覗き込んだ。原始人のような外見に似合わず、田中は時々詩的とでも言いたくなるような不思議なことを口走る。

「だってホイヘンスの原理といえば波の進み方の原理。すなわち水紋のできる理由だろ。水面にできた輪がキラキラ光る様はまさに夏じゃないか」

「幼稚なこと言ってると、篠原さんに笑われるぞ」

「ああ~」

 うめく田中。

「夏の恋は熱いのう」

 島田がからかう。

 今日は田中の憧れの人、篠原さんの家に3人で物理を教わりに行くのだ。

 梅雨の前に東京から僕らの高校に転入してきた篠原さんは、この田舎ではちょっとお目にかかれないような垢抜けた容姿の持ち主だった。それだけではない、彼女はずば抜けた理系の秀才でもあった。なんと学期末の試験では理系科目すべてで満点を取ってしまったのだ。 

「おれ、もうだめじゃ」

 田中が僕達二人に打ち明けたのは夏休み直前だった。

「篠原さんのことを考えると寝れんのじゃ」

 親友の一大事に僕と島田は一肌脱ぐことにした。いきなり告白、というのは無理があるのでまず夏休みに物理を彼女に教わって親しくなるという計画を立てた。

 だめもとでお願いに行くと、案に相違して篠原さんはにっこり笑って家庭教師を快諾してくれたのだった。




「どうぞ」

 白のワンピースで出てきた篠原さんは笑顔で僕らを招き入れた。

 通された部屋は想像と違ってガランとしている。むき出しの床にテーブルと椅子が無造作に置かれていた。ただし、そのテーブルも床も、この辺りではお目にかからないような不思議な流線型をしており、腰かけると不思議とそれぞれに一番適した角度に変化した。

 椅子に座ると、物理の参考書をめくりながら篠原さんが肩をすくめた。

「紀元前から積み重ねられてきた沢山の知識をこんな短い期間で理解するのは無理よ」

「篠原さんはどうやって勉強したの?」

 田中の質問に、篠原さんは困ったように首をかしげた。

「睡眠学習みたいなものかな」

「睡眠学習?」

 島田が大きな声をあげた。

「それでそんなに出来るようになるの?」

 篠原さんはしまったとでもいうように口ごもって目を伏せる。

「そんな事より波の所、ホイヘンスの原理とか屈折の問題を教えて」

 かばうように田中が参考書を指差す。篠原さんはほっとしたように顔を上げ、田中に微笑んだ。

 さすが学年トップ。彼女が説明すると、授業で習うよりもずっとわかりやすい。

 僕らはうんうんと頷きながらシャーペンを動かした。だが、田中は口をへの字に曲げて眉間に皺を寄せている。

「わかる?」

 田中が肩を落として力なく首を振った。

「興味がないんでしょ?」

「だって、こんな理論と計算だけみたいな勉強はいったい何が面白いのか……」

 田中の言葉に悪戯っぽく微笑むと、篠原さんは窓を指差した。

「ね、見て。光が入ってきてるよね」

 きょとん、としながら僕らは指の方向を見る。

「光は、波でしょうか、それとも粒子でしょうか」

「え?」考えてもみなかったいきなりの質問に僕らは口をもぐもぐさせる。

「光が波であるならば、ホイヘンスの原理で習ったような進み方をして干渉を起こすはずよね。で、実際にスリットを二つ作った板を通して光を別な壁に当てると……」

 僕らは身を乗り出す。

「干渉縞が見えるのよ」

「じゃあ、波だ」

「でも、面白いことに光のエネルギーは、滑らかではなくて飛び飛びに変化するの」

「それは光が粒子という単位からできてるって事? 粒子の持つエネルギーの倍数で変化するから、そのぶん飛び飛びの変化になるんだ」

「すごいじゃない、田中君。アインシュタインもそう考えたのよ」

 彼女は田中をじっと見つめた。田中が一瞬のうちに赤くなる。

「でも、光は干渉もするのよ。ヘンね」

「そんなこと知ってるなんてすごいなあ」

 勉強嫌いの田中が尊敬の目で彼女を見つめる。

「ふふふ、この論争は19世紀末のことなのよ。で、21紀の現在もこの世界ではよく決着がついてないの。光電効果のところで光の話題が出てくるわ、お楽しみに」

 ふと、篠原さんが遠くを見るように視線を泳がせた。

「ここから量子論に繋がっていくの。これが本当に面白くて、そのうちテレポーテーション技術にも発展して……」

「SFみたいだ」

 島田が声をあげた。はっ、と篠原さんがこちらに視線を戻す。

「ね、こう考えると物理にもちょっと興味がわかない?」

 僕ら3人は同時に頷いた。




「おい、もう俺達は遠慮しようか」

 3回目の勉強会の日、島田が僕に提案した。

 前回の勉強会で一番篠原さんが話しかけていたのは田中だった。頭を悩ませる田中を見つめる視線は優しく、僕らは彼女の眼中には無いようだった。

 それを田中に伝えると最初は照れていたが、男子の本懐とか励まされるうち次第にその気になったらしい。

「俺、頑張るから」

 と、手を振って篠原さん宅に向かっていった。

 だがその日の夕方、田中は息せき切って僕の家を訪ねてきた。

「おお、どうだった?」

「き、聞いてくれ」

 田中の顔はこわばっていた。

「お、俺……」

「何があったんだ」

「キスしてしまったんじゃ。篠原さんの髪の匂いが甘くて……」

 震えながら、田中が言う。

「無理やりか?」

「良く覚えてないんじゃ、夢中で。その後すぐに部屋を飛び出して。で、その時横の部屋のドアが半開きで……」

 田中はごくりと唾を飲み込んだ。

「そこから覗いているのは、まるで飛行機のようなコックピットだったんじゃ」

「まさか」

「彼女は不思議じゃあ。家族は居ないし、いつも話す事が未来から来た人みたいで」

 幻でも見たのだろうか、田中は。

「とにかく、謝りに行かないと」

 田中は僕の目を真っ直ぐに見て言った。

「お願いじゃ、ついてきてくれ」




 翌日、田中の粗相は共同責任とばかりに3人で篠原さんのアパートに赴いた。何かあったら一緒に謝ってやると約束し、島田と僕は階段の影に隠れて成り行きを見守る。

 田中がおずおずとベルを鳴らした。

「はあい」

 出てきた彼女は田中を見て、ちょっとひるんだようだった。

「昨日はごめんなさい」

 田中が深々と頭を下げる。

「いいのよ」

 篠原さんの硬い表情が緩んだ。

「私も田中君を好きだから」

 田中の背中がびくりと動く。

「お、俺は不細工だし……」

「容姿なんて未来では問題ではないの、大切なのは優しさと考える力。田中君はそれがあるわ」

 田中の内なる歓喜の雄叫びがこちらまで聞こえてくるようだ。

「21世紀はいい時代だわ。皆素朴で優しくて、大好き」

 篠原さんは、そこでため息をついた。

「でもね」

 彼女は困ったように目を伏せた。

「遠くに行くかもしれないの……」

「遠く、って?」

「ごめんなさい。言えないの」

 押し黙る、田中。

 篠原さんが少し膝をかがめ、田中の顔を覗き込むような感じで近づいた。

 島田が肘で僕をつつく。邪魔をしないように僕らはそっとその場を離れた。




 夏休み明け、僕らに衝撃の事実が待っていた。

 なんと、篠原さんが転校していたのである。

 ホームルームが終わると、田中の姿が消えていた。

「田中……」

 島田と僕は、慌てて彼を探す。

 田中は独りで学校の近くの溜め池を眺めていた。

 何と声をかけていいのか、僕らは黙って傍らに佇む。

 きっと彼は彼女が去った理由を知っているんだろう。そしてその秘密は僕らにも打ち明けられないものなのだ。

 不意に田中は小石を掴んで池の中に放り込んだ。

 美しい水紋がいくつも広がっていく。

 赤い眼の田中が僕らの方に振り向いて呟いた。

「やっぱりホイヘンスは夏色じゃのう」

 水面の反射が田中の頬できらきらと踊っていた。

次回は8/15に投稿します。軽めのホラーです。

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