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墓標

「明日ここは大変な事になる。お逃げ」

 苔むした庭の石が僕に囁いた。

 この石はずいぶん昔から僕にだけ話しかける。

 昔から僕は時に石のそばに座り込み、誰にも吐露できない憂鬱を尽きることなく彼に降り注いだ。

 石は時に「いや」とか「そうかしら」などと否定をにおわせることはあっても、基本的にはうんうんと低い声で単調にうなずきながらも僕の話を聞いてくれた。過ごしてきた何億年もの時に比べれば僕の世迷言を聞く時間などほんの一瞬なのだろう。石と話すと僕の憤りは、まるで石にしみこむように消えていった。

 たださすがに石の語彙は豊かとは言えず、言いたいことが半分も伝わらず、歯噛みすることもしばしばあった。それでもこの石は僕の周囲で唯一の、言葉の通じる存在だった。




 小学生の頃万引きをして、そのあまりの痛快さに石に戦利品を持って自慢しに行った事がある。石は何時にない僕の高ぶりにちょっと驚きながらこう言った。

「お前がそんなに興奮しているのはその、手に持っているもののおかげかい……」

「そう。これフィギュアっていうんだ。本物みたいだろう、万引きしたのさ」

「お母さんに言ったのかい」

「まさか。叱り飛ばされるに決まっているのに言うわけないじゃないか。あのババア、神経質でヒステリーばかり。勉強勉強しか言わなくて僕のこと一つもわかってくれないんだ」

「お父さんにはお話したかい」

「あいつ、悪い成績を取ったり悪いことをしたら甲高い声で殴るんだ。仕事ばっかりで、僕の事なんか全然かまってくれないのに、そんなときばかり父親面するんだぜ。万引きなんかしたってばれた日には……」

「万引きするのはよくないことなのかい?」

「う、ん。まあね。でも臆病者は盗れないんだよ。なんたって店員や防犯カメラの目をかいくぐって……」

「待っておくれ、ぼうは……なんだって」

「防犯カメラさ、盗みを捕まえるためのものさ」

 なんとか石に防犯カメラと万引きの説明を終えた時、石はほうっとため息を付いて言った。

「よくないことはしないで欲しいね」

「誰だってやってるんだ」

「なんだか、私にはお前がもがいてるように感じるよ」

「違うんだよ、楽しいんだよ」

「万引きでは、お父さんやお母さんの気持ちを引き付けることはできないよ」

「あんな奴ら、僕なんかどうでもいいんだよ」

「悲しいよ、私は、悲しいよ」

 石が形を変え、砂になって僕の胸をさらさらと埋めていくようなイメージが頭の中に広がった。言葉ではなく、直に石の心が伝わって来る。悲しいと繰り返す石の声に、不意に息苦しくなって涙が出てきた。

 それから万引きは止めた。

 だけど僕はやっぱり家族が、社会が嫌いでぼんやりと中学に登校しながら自分を締め付けるこの閉塞した世界を糾弾しながら切り裂いてやりたい衝動に駆られていた。

 もちろん勇気は無かったが、それでも母や父を手にかける想像や、僕が連行される姿を彼らが報道陣に囲まれながら驚愕の表情で見る姿を日々思い描いては、何とか心の正気を保っていた。




 そんなある日、傍らを通り過ぎようとした僕に石が逃げろと叫んだのである。

「何が起こるの?」

 大変だ、大変だ、明日皆死んでしまう、大変だ。

 石はもう取り乱していて、僕に詳しい説明をするどころでは無い。

 その代り、僕の頭の中には大きく揺れる建物や、噴火する山々が浮かび上がってきた。そして火山からの有毒ガスだろうか、生き残った人々が次々に倒れていくのが見えた。まさか、こんなことが起こるはずがない。でも、石は僕をからかったり、うそをついたことがない。明日は晴れるといえば、晴れ、雨といえば雨。そうだ、特に地震は良く言い当てた。

「地震か? 大きいのか?」

 石はうんうんとうなずいて、そうそう、その、それ、地震だ。と、言った。

 ここにいると皆、死んでしまう。本能的なものだろうか、僕の心の中で何かがリセットされた。

「お母さん、大変だ。明日、地震が来る。逃げなきゃだめだ」

 大声で叫びながら、僕は憎んでいたはずの家に飛び込んだ。

 

 


「もう、お別れかい。でも、また戻ってくるんだろう、早くお行き」

 深夜、庭に出てきた僕を見て庭石は言った。 

「僕は、行かない。明日もここに居るんだ」

 僕の言葉に石は驚いたように声をあげた。

「死んでしまうよ、死んで」

 今日僕が「逃げろ」と叫んだとき、母は驚いたらしい。一心不乱に家財道具を片付ける僕を後ろから強く抱きしめ、もうどうしたら良いかわからない様子で名前を呼びながら泣き始めた。僕も必死だから、お母さん逃げよう、すぐにお父さんに連絡をしないとと携帯のボタンを押す。携帯に出たお父さんは会議中だったみたいだがすぐに帰って来た。

「二人が暴れる僕を抱きしめながら、涙と汗とぐちゃぐちゃになりながら謝るんだ」

 石は、小さくうなづいた。

「気がふれたと思ったんだろうね。かまってやらなかった、だの、勉強ばっかりさせすぎただの、ずっとこれから傍に居るから、って泣くんだ」

 正直、僕のためにこんなに取り乱す両親を見たのは初めてだった。いくら逃げようと説得しても、必死になればなるほど彼らはただ僕の周りで泣き崩れるだけ。

「僕は、とうとう正気に戻ったふりをしたのさ」

 石が泣いている。

「今までだったら、もしかして独りで逃げてたかも知れないけど。もう……」

 沈黙の後、石がぽつりと言った。

「明日は家に居ておくれ。せめて私がお前の墓標となって、この先ずっとお前をここで守ってやるから」

 そう言うと、石はほおっと大きなため息を付いた。

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