はなひと
彗星が行き過ぎた数日後の朝、昆虫学者の高畠教授は妙な物を見つけた。直径3センチくらいの薄いオレンジ色の透明な球がいくつも庭のヤツデの葉の上にできていたのである。
教授がそっと顔を近づけて観察すると、薄い壁を通して中で何かが動いてるのが見えた。
ははあ、これは虫こぶだな。
教授は片手をメガネに添えると、さらに顔をその球に摺り寄せた。
それにしても珍しいタイプの虫こぶだ。今まで発見されていない種かもしれない。
教授の顔が徐々に紅潮していく。
「ちょっとおいで、八重子」
彼は勝手口から顔をのぞかせると、妻を呼んだ。
細面の優しい顔つきをした八重子は、また始まった、とばかりに微笑みながらそれでもそそくさとつっかけを履き、庭に降りてきた。
大学の講師時代にほのぼのとした恋愛結婚をしてから、早30年以上。二人の頭にも白いものが目立つ歳になった。しかし妻への思いは褪せることなく、彼女は今でも教授の最愛の人であった。
「これはなんですの?」
「虫こぶだ。ある種の虫は植物の中に卵を産む、そうすると寄生された植物は瘤のような奇形を起こすことがある、それを私達は虫こぶと呼んでいるんだよ。ある種のゆりかごだな。しかし、見てごらん、この虫こぶの美しいこと。これは初めて見るタイプの虫こぶだ」
教授は常に携帯している小型の拡大鏡をそっと虫こぶに近づけた。
虫こぶの中で、羽を持った小さな影がまるでダンスをしているかのように揺れた。
「まるで、花の中に住む小さい人みたいですね」
「花の中の人……。いいな、もしこれが新種の昆虫と判断されて命名権が私に与えられたら『はなひと』と名付けよう。
本当なら、早速学会誌に投稿したいところではあるが、世界中を巻き込んだ戦争のため、政府から非常時には役に立たないと断定された昆虫学会は活動停止状態であった。
「大変な時代だが、お前らも頑張って生き延びろよ」
教授はそっとその虫こぶを外敵の目にさらされない葉の陰に隠した。
庶民には抗えない大きな歴史のうねりで始まった戦争だったが、日に日に戦況はきびしくなり、戦争に関係ない教授の学部は閉鎖を余儀なくされた。そして有望な彼の教え子たちも次々と遠い戦線へと駆り出されていった。
そのころから教授は体調をくずし、庭で虫こぶのできている葉を見ながら時間を過ごすことが多くなった。
「あなた、すみませんがちょっと干すのを手伝ってくださいませんか」
八重子がよろよろしながら、来客用の布団を抱えて物干しにかけた。教授もぎこちない動作でそれを手伝う。
「これが終わったら二人が好きだったクッキーでも焼いてやろうと思っているんですよ。クッキーだったら日持ちもするし、ああいったところではなかなか甘いものを食べる機会も無いようですからね」
「そうか、明日だな」
数日前、息子二人が帰ってくると急に連絡があった。
八重子は昨日から走り回って食材を調達したり、客間を掃除したりしてかいがいしく働いている。仕事が無くなってから急に気力が衰えた自分とはえらい違いだと教授は苦笑した。
息子達はもう30近い、二人とも独身ではあるが家を出てからすでに10年が経過している、一人前の男が帰ってくるのにまるで幼い子が泊まりに来るかのようにあれこれ気を使う妻が教授には妙に可笑しかった。
「それにしても、盆も正月もめったに帰らない二人が、このタイミングで同時に帰ってくるとは妙なことだ」
久しぶりに木漏れ日が射す庭を目を細めて見回すと、教授はふと首を傾げた。
「ただいま」
長身の息子二人が玄関に立つと、いつもがらんとしている玄関が急に狭くなったように見える。体を折るようにして靴を脱ぐと、二人はまるで長いご無沙汰の気まずさを踏み砕くようにどかどかと廊下を歩いてきた。
「これ、土産」
長男の祐一が八重子に卵を渡した。戦時下になって嫌と言うほど食糧自給率の低さを思い知らされている日本では、いまや本物の卵はめったに手に入れることのできない貴重品であった。
「あなた、こんなに貴重なもの……若い人が食べなきゃ」
思わず長男に卵を押しかえす八重子。
「父さんに食わせてやってくれ」
それだけ言うと、祐一は荷物を下ろすとじっ、と庭に視線をやった。
庭では高畠教授が、ヤツデの葉を眺めている。
「父さん、大丈夫なのかい」
「今のところ、体がだるいって時々言うくらいかしら」
息子たちの帰還にも気が付かず、じっと虫こぶに顔を寄せる教授の元に走り寄ったのは次男の優治だった。小さい頃は泣き虫で、父母を途方に暮れされた彼も一人前の科学者になって、最近は忙しいの一点張りで親の元にもめったに顔を出さない。
「父さん、ただいま」
「お、おう」
いきなりの挨拶に狼狽する父。急に顔を上げたためかふらつく体を優治はそっと支えた。
「何を見ているの?」
「これか、これは虫こぶだ。しかし、ただの虫こぶではない、彼らはこの宇宙の彼方から地球にやってきた生命体なのだ」
いきなり父親から発された荒唐無稽な言葉。まじまじと父親の顔を見て、冗談で言っているのではないと解ると彼はしばし絶句した。しかし同業者としての父親を信頼している彼はおもむろに口を開いた。
「宇宙生命体って、どうしてわかるの?」
「いつのころからか、彼らが私の頭に直接話しかけるようになったんだ。彼らは争いによって自らの星の生態系を壊し、居住できなくなったため宇宙をさまよっているらしい。ああ、大丈夫だよ、安心しなさい、危害を与えるものではない、これは私の息子だ」
後半の言葉は虫こぶに向かって語られたもののようだった。
優治は父の横でそっと虫こぶを見つめた、心の中で自分は危害を加えないと交信を試みる。しかし、彼の頭には何も響いてこなかった。
「何してるんだよ、二人とも。さっきから母さんが呼んでるぜ。ん、なんだこれ」
どかどかと庭に降りてきた祐一は二人が見つめる虫こぶに手を伸ばした。
「やめろ、怖がってる」
父親の手が長男を遮った。
「宇宙の彼方から産卵場所を探してやってきたんだ、親たちはここで彼らを生んで亡くなったらしい。そっとしておいてやれ」
長男がきょとんとした目で父親を眺めた。
「親父、大丈夫か。正気に戻ってくれよ」
「私は正気だ。彼らの声が聞こえないのか、祐一」
祐一は大きく首を横に振った。
「聞こえないよ、親父。ぜんぜん聞こえないよ」
顔を背けた祐一の目にうっすら涙が浮かぶ。そう、いつだって彼の心に父の声は聞こえてこなかったのだ。
「父さんは負け犬だから」この一言を残して祐一が家を出たのはもう十年以上前だ。
徐々に軍国主義化する風潮の中、父親が役にも立たない研究をしているといじめられてきた長男は、まるで自分をののしってきた者達に見せつけるがごとく、反対する教授を振り切って軍に志願して行った。
それ以来戦争を嫌う高畠教授と彼とは事実上の絶縁状態になっていたが、優治のとりなしで数年に一度は新年に顔を出すようになっていた。しかしそれも、あくまで儀礼上のことで、八重子に土産を渡し、二言三言会話を交わすと泊まることも無くそそくさと家を後にするのが常であった。
「みんな、何をしているの。せっかくの御馳走が冷めちゃうわよ」
八重子が縁側から呼びかける。
その声はまるで春風のように、冷たく固まっていた場をいとも簡単に溶かし、男たちを家の中に吹き流していった。
「うわあ、ぱりぱりのフカフカだ」
干されて膨れ上がった布団をそっと手で撫でて優治が歓声を上げる。糊のきいたカバーに包まれた白い掛布団をまるで壊れ物のようにそっと扱って二人は中にもぐりこんだ。
「これが、うちの香り……」
優治が鼻を膨らませて息を吸い込む。
いくつになっても無邪気な弟の仕草に祐一は微笑んだ。彼のように純朴で素直であれば、自分も父親とわかりあえたのかもしれない、祐一は溜息をつく。弟が興味に向けて突っ走る科学者魂を父から受け継いだように、自分は主張を曲げないどうしようもない頑固さを受け継いだようだ。
「父さん、やせちゃったね。全身転移で手の施しようが無いって聞いたときは本当にショックだったな」
「ああ。それにしても俺は最後まで親不孝ものだ。あんなに親父の嫌いな戦争をする人間になってしまってはな」
「そんなことないよ。父さんもわかってるよ、兄さんの気持ち」
「罵られても、蔑まれても、この国を守らなければならない」
ぼそりと祐一がつぶやく。
「母さんも、父さんも居る。親戚も友達も居るこの国を俺は守る。戦況はもう後へは引けないところに来てしまった。戦いが悪いと解っていてもここで戦わないと攻め込まれるのは目に見えている、退くわけにはいかないんだ」
横でもぞりと優治が体を動かした。
「優治、俺にも出撃命令が下った。皆に会うのもこれが最後かもしれない」
「兄さん、実は、僕……」
「わかっている。お前の噂は聞いた。お互いに頑張ろう」
軍部の中枢近くにいる祐一には、あの計画に弟が参加しているという情報が入っていた。戦争をしている国との協調計画に参加する売国奴だの、天然ボケの科学者の集まりだの、悪評ばかりの計画だが、実際のところこの地球は兵器による汚染でもう人類にとって安住の地ではなくなっているのは誰の眼にも明らかだった。
「兄さん、昔みんなで庭の虫を見たよね。葉の裏のちっぽけな虫でも、よく見るときらきらと輝くきれいな虫だったりして、どきどきしたね。でさ、いつも母さんがご飯が冷めるって呼びに来るんだ……、兄さん、寝た?」
気持ち良い布団と、日ごろの疲れのためか祐一の布団のほうから軽い寝息が聞こえてきた。
「楽しかったなあ……」
帰らない日々を懐かしむように、優治は溜息をついた。
長男の戦死の知らせがきたのは四月も半ば。昔は陽光鮮やかな頃であるが、遠くで使われた核のために最近は晴天を見ることも少なくなった。
教授はその日、虫こぶに何かを語りかけるように夜遅くまでヤツデの横にたたずんでいた。
簡単な葬儀が済み、客がすべて帰った後に優治は両親の前で頭を下げた。
「すみません、僕も行きます」
決意を込めた次男の瞳に教授は静かにうなずいた。
「心配ない。私が何かあれば、八重子の事は彼女の妹に頼んである。もしものときは妹の家にシェルターがあるからそこに逃げ込める」
次男が世界横断的に進められているノア計画の推進委員であること、そして計画が実行される時にはエンジニアとして必ず参加するであろう事はしばらく前から聞かされていたことであった。いまさら何を言う事でもない。しかし、教授の瞳には隠しきれない寂しさがにじんでいた。
先には長男が、そして次には次男が。次男は大型宇宙船にのって人類の新しい故郷を見つけるために旅立つのであって、命が無くなるわけではないが、それでも今生の別れになることは明らかだった。
あの四月以来、身体の調子を崩して教授は床に伏せることが多くなった。咳き込む父の背中をさすりながら次男は薄くなった父の背に幾度となくわびた。
「何しているんだ、父さん。そんな身体で外に出ちゃダメじゃないか」
明後日は宇宙に飛び立つと言う日。両親に別れを言いに来た優治が庭に出ている父を見つけ、慌てて肩を抱いて部屋に連れ戻そうとした。
「いいのよ、好きなようにさせてあげて」
次男の背にそっと手を置いて母は首を振った。
「今日、彼らも飛び立つんですって」
「え、彼らって?」
その時高畠教授の手がそっとヤツデの葉の上を指さした。オレンジ色の球が二三度ぷるぷると触れると中央から裂け目が入り銀色に輝く球がぽっかりと現れた。それは後部を青白く点滅させながらふうわりと宙に浮かび上がった。そして教授の周りを幾度と無く旋回した。
「お別れの挨拶をしてくれている」
教授は誰に言うともなしにつぶやいた。
「元気で今度こそ良い土地を探し、その土地と共存するのだ。お前達の同胞と同じ徹を踏まぬように」
銀色の球体は名残を惜しむかのように、宙にしばらく浮いていた。
「行け。そして願わくばいつの日か……」
そっと優治の方を見た教授の目には涙があふれていた。
銀色の球体は空高く飛び去って行った。
「僕達も、明日旅立つ」
優治は虫こぶの消えた空の彼方を見上げた。
戦況が日一日と厳しくなるなか、教授の容態も悪化の一途をたどっていた。脊椎への転移から来る激痛が教授を苦しめた。鎮痛薬は高価な上、品薄で手にはいらない事の方が多かった。
教授の看病の疲れで妻の八重子が眠ってしまった時である。彼女は不思議な夢を見た。宇宙船の中で優治が忙しく立ち働いている姿である。
「あら」
ふと目を覚ますと傍らの教授がうわごとで何かつぶやいている。ここ数日、痛みにゆがんでいた顔が幸福そうに微笑んで、何かをつぶやいている。
「優治、大きくなったなあ。あの、人見知りの泣き虫がこんな大きな艦の設計者だなんて……」
「きっとこの人も、優治の夢を見ているのね」
八重子は夫の静かな寝顔に安心して、そっと席を立った。
高畠教授が逝ったのはそれから二日後だった。時々宇宙船を操縦している優治に語りかけるかのようなうわごとをつぶやきながら、鎮痛剤が切れていたにも関わらず終始笑顔のままで眠るようにこときれた。
教授の髪をなでつけようとして、八重子は耳元に小さな黒い蜂に似た虫が転がっているのを見つけた。それは、亡き夫と見た虫こぶの中にいたはなひとだった。
「もしかして優治の事、あなたが教えてくれたの?」
きっと、何かの理由で同胞達と宇宙に飛び立てなかったのだろう。このはなひとも寿命がつきようとしていたのかも知れない。心の交流があった教授に最後の贈り物として、優治の映像を中継して伝えてくれたのだ。
「ありがとね」
八重子はそっとはなひとを両手のなかにすくいとると、ヤツデの根本に埋葬するために庭に降りた。
遠い銀河の果て、人類を乗せた宇宙船が行く。そしてその壁面にぷつぷつと銀色の球がくっついている。新しい土地を求めて、新しい虫こぶを作るために二つの種族は飛び立った。
「がんばりなさい。人も、はなひとも」
八重子は夜空を見上げて、誰に言うともなしにつぶやいた。