麒麟
「亜美はいつもこれを見て泣いていたもんだ」
今はもう亡くなった祖母が口癖のように言っていた。
そんなことをぼんやり思い出しながら、亜美は日本橋の欄干に寄りかかる。
そぼ降る雨の中、亜美の端正な顔が橋に設置された街灯から漏れるオレンジの光の中に浮き上がった。
日付も変わろうかという深夜、それも平日ということもあってか普段は賑いを見せている日本橋もまるで息を潜めているかのように静まり返っている
この橋の欄干には、青銅でできた異形の者達が留まっている。
四隅にはぎょろりと目をむいた獅子の像が、そして橋の中央には背中合わせで二体ずつ、両側で四体の西洋の神話に出てくるドラゴンのような姿の像が鎮座していた。
その顔は長い髭を持った中国の龍のようで、鋭い眼が橋の両側を睨みつけている。背筋を伸ばした身体は鱗のようなもので覆われ、背中にはまるで西洋のドラゴンのような羽がついている。折りたたまれた筋肉質の後足はその荒唐無稽な造形に比べぞくりとするほど写実的で、今にも欄干を蹴って飛び立ちそうに見えた。
「あれは麒麟って神獣なんだよ」
祖母の声が耳に蘇る。
だが闇の中に照らし出されるその姿は、神というよりもなにか禍々しいものに思えた。
亜美はじっと暗い川面を眺める。
中学校で毎日執拗ないじめにあう日々。お嬢さん育ちで、少々どんくさい彼女は、初めての経験にどうしていいかわからず、苦しんでいた。ネットや本には親や先生に相談しろとか、いじめを扱う公共の機関に電話をしろとか簡単に書いてあるけれど、その勇気もない。自分がいじめられるような、嫌われるような人間であることを親や先生に告白するのは何よりも辛い。
全てから逃げ出したくてさまよった挙句、気がつけばなぜかここに来ていた。
彼女の祖母が経営していた和風小物の店が近くにあったため、物心つかない小さい頃から亜美はよく日本橋に連れてこられていた。
しかし、亜美を可愛がってくれた祖母が亡くなり、店も人手に渡って今では跡形も無い。いつのころからか、亜美もここに足を向けることは無くなっていた。
今、ここに居るということは、多分祖母に呼ばれたのかもしれない。
悔しいとか辛いとかそういう次元を通り越し、今の亜美は疲れ果てたすかすかの空洞だった。
湧き上ってくる涙に街灯の光が飛び込み、視界にオレンジの線が幾筋も走る。
「もう、疲れたよ。おばあちゃんのところに行きたい」
手すりから身を乗り出す。と、横に警察署が見えた。ここでは見つかってしまう。死にかけて助けられて、大騒ぎになるのは耐えられない。
――ああ、だめか。
ため息をついたとたん、水面が血のような色に染まった。
振り返ると、街灯がまるで何かを警告するように真紅に輝いている。
それと同時に、街並みが黒い霧の中に沈み始めた。
何が起こっているのか理解できず、欄干を掴んだまま亜美は立ちすくむ。
いきなりツン裂くような咆哮が耳元で聞こえ、獣のような何かが突進してきた。薄闇に光る金色の尖った目。鋭い牙を持つまるで毛の無いトラのような……しかしその獣の顔面は水泡に覆われ一部は崩れかけていた。
凍りつく亜美。
獣が跳躍し、亜美の目の前に血の滴る牙が並んだ大きな口が広がる。
――咬まれるっ。
しゃがみこむ亜美。
しかし、その牙を持つ獣は風のように飛来した大きな塊の一撃で、橋の下にざぶんと落ちた。
「娘、なんでこんなところに来た」
ヒラリと亜美の目の前に着地したのは、あの麒麟だった。
黒光りした鱗に覆われ、背中には黄金の羽根が光っている。
亜美が見回すと橋の両端から、冥府から湧き上がったのように腐臭を帯びた不気味な魔達が唸りをあげて押し寄せていた。
欄干の獅子が吠えるとその大群はひるんで橋から遠ざかるが、すぐにまた波のように押し寄せる。
川面から這い上がり橋の欄干を越えてくる魔は麒麟が撃退していた。
「この橋は、魔界とこの世の境界だ。普通の人間はここには来れぬ……」
ちらりと亜美をみると麒麟は鼻を鳴らした。
「お前、命の灯が消えかけていたな、大方死のうと思っていたんだろう」
亜美を目指してやってくる魔から庇うかのように、黒い麒麟は閃光のような速さでそれらを打ち倒し続けた。
そのうち魔の大群は姿を消し、それを見届けた神獣達はそれぞれの配置に戻って行く。
しかし黒い麒麟だけはまだ亜美の傍らにいた。
がさがさ。
ふと、亜美が音の方向を見ると蝙蝠のような小さな魔がよろよろと歩いてくる。
その魔はいきなり亜美に飛び掛かって来た。
麒麟が助けてくれるものと思って油断していた亜美は目を見開いて叫びをあげる。
だが麒麟は微動だにしない。
首に鋭い爪が立てられ、亜美は痛さのあまり、魔の身体に思い切り爪を立てる。今度は魔が悲鳴を上げ、身体をくねらせてもがく。
すぽっ、と魔は亜美の手から逃れると、いきなり彼女の口の中に飛び込んだ。
ごくり。
――魔を飲んだ。
いきなりの事に、狼狽する亜美。どうしよう、と麒麟を見上げる。
麒麟の目がじっ、と亜美を見返した。
「お前は私を見て泣いてばかりいた。お前の心はか弱く純白すぎて、生きていけるか心配だった」
静かな声が頭上から降ってきた。
「皆、心の魔と戦いながら生きる力を得ているのだ。その魔は私からのはなむけだ。弱い魔だからお前なら押さえ込める」
亜美の脳裏に、いじめの首謀者を皆の前で糾弾する自分がよぎる。
やられたら、やられっぱなしの亜美はいままで反抗をすることなんか思いもしなかった。飲み込んで、自分だけが抱え込んでいた。
――でもあんな子なんかに心を折られるもんか。
今までに感じたことの無い怒りがこみ上げる。
この世から逃げる前に、やることが、できる事があるはず。
気が付くと死にたいという気持ちが、消え去っていた。
いつの間にか、周囲は現世の日本橋。
「もう少し生きてみる」
亜美は元の像に返った麒麟に笑いかける。
神獣の目が心なしか微笑んだ気がした。