イサクとセラ
ぱちぱちと木のはぜる音。
肉の焼ける匂いがイサクのまぶたを開かせた。
「気がついたか?」
声の方向には太い鉈を握った褐色の肌の娘が立っていた。
切れ長の目が警戒するようにイサクを見ている。
「お前が助けてくれたのか」
「ああ。お前は崖から落ちたのか、傷を負って倒れていた」
「俺はイサク。海の民だ」
「なぜ、断崖絶壁が続くこの危険な山間地帯に来たのだ」
「海が赤くなって、打ち上げられた魚を食べた者達が病に倒れた」
「天罰だな」
娘はふん、と鼻を鳴らした。
「戦いを仕掛けて我らを山に追いやったからだ」
「ずっと昔の話だ」
「遺恨は私に引き継がれた」
イサクは床にひれ伏した。
「助けてくれ、お前達の秘法が必要なのだ。看病している者も次々と倒れている。山の民には病を治す煎薬が伝えられていると聞いた」
娘はイサクを無言で睨みつける。
イサクもじっと見つめかえす。
鮮やかな緑の瞳。
「きれいだ」
息を漏らすのと同じくらいの声でイサクが呟いた。
「何がだ」
「お前の瞳は、深い森の色だ」
「私の瞳が?」
「もしかして、自分の顔を見たことが無いのか」
こくりと頷く娘。
「お前は漆黒の髪に赤土のような滑らかな肌を持っている。そして吸い込まれそうな美しい緑の瞳も」
おずおずと娘の唇が動いた。
「きれいか?」
「ああ」
「私の名はセラ」
硬直していた顔が緩み、娘は恥ずかしそうに微笑んだ。
「解毒に使う草の生えているのは森の奥だ。まず精をつけろ」
セラは焼けた肉を切り始めた。
「罠で仕留めた兎だ」
そう言うとセラは、石の鉢にオレンジ色の塊を入れてがりがりと砕き始めた。
「それは?」
「塩だ」
「塩はこんなものでは無い」
イサクは近寄ってその砕けた塊を口に入れた。
「これは……」
イサクの知っている塩の味とはどことなく違うが、まごう事無い塩だった。
「塩だろう、北の岩場で取れるのだ」
「海の民は海から塩を作る。真っ白な塩だ」
肉を齧りながら、ふうん、と不思議そうな顔でセラが頷いた。
「お前は独りか?」
「山の民で残ったのは爺と私だった。その爺も2年前に死んだ」
あそこに眠っている。と、セラは小屋の外の大木を指差した。
「俺と来ないか?」
セラは静かに首を振った。
「爺が言った。海の民とは相容れないのだと」
「戦いは昔の話だ」
「明日、毒消しの草のあるところに連れて行く。採ったらもう二度とここには来るな」
セラはイサクに背を向けると鉈を抱えて横になった。
草を担いでイサクが帰ってから、数ヶ月。
秋も深まり、森の木々は一斉に色を変え始めた。
果実を集めていたセラは茂みの向こうで自分を呼ぶ声に気がついた。
「久しぶりだな」
目の前にはがっしりとした体躯の青年が立っていた。
「イサク」
もう来るなと言ったことは忘れたかのように、セラは駆け出した。
「薬は効いた?」
「ああ、おかげで沢山の命が救われた」
「お前の事を案じていた」
セラが頬を染めた。
「今日は海の幸を持ってきた」
イサクはずかずかと家に踏み込んで火を起こした。
香ばしく焼けた魚をセラに渡す。
「美味しい」
セラは魚を頬ばりながら微笑んだ。
しばらくの沈黙の後、イサクは口を開いた。
「俺と来ないか?」
セラは首を振る。
「海の民にいびり殺されると爺が言った」
口の周りに残った魚の油を濡れた舌が舐める。
焚き火に照らされて、セラの紅い舌が妖艶に輝いた。
「セラ」
イサクはセラの手を取った。
「忘れられなかった」
セラはイサクの手を振り切ろうとしたが、イサクは離さなかった。
「何をするの?」
「山の民をお前で終わりにするのか? 爺やその祖先が語り伝えたことはお前で終わりにしたいのか?」
首を振るセラ。
「爺がお前に教えなかったことを、教えてやる」
イサクの手がセラの背に回る。
荒い吐息がセラの首にかかり、二人は草の上に倒れこんだ。
「もう、ここには来れないかもしれない」
何度かの逢瀬の後。とうとう長老に見咎められてしまったとイサクはため息をついてセラに伝えた。以前の戦いは凄惨を極め、その強烈な記憶は海の民にも世代を超えて受け継がれている。
「じゃあ山の民になってくれない?」
セラの問いにイサクは首を振った。
「俺が欠けると漁の人手が減って皆が困る」
「勝手ね」
プイ、と横を向いたセラだったが、何を思ったか急に立ち上がると器に入った褐色の水を持ってきた。
「ね、飲んで」
少し濁ったその水は顔を近づけると今までには無いような甘い香りがした。
イサクがおそるおそる飲み込むと、体験したことの無い甘さと同時に、喉を焼くような熱が伝わった。
セラの勧めるまま、イサクはその水を夢中で何杯も飲んだ。
今まで心を占めていた憂さがまるで霧が晴れるかのように無くなってゆく。
「ねえ、イサク」
最近ますます美しさを増してきたセラがイサクの胸にもたれかかった。
熱はイサクの身体全体に広がり、セラの喘ぎとともに何時にも増して甘美な一夜が過ぎていった。
「まだお前はあの山の娘と続いているのか」
長老はある夜、イサクを小屋に呼び出した。
イサクは頷いた。
「俺は山に行こうかと思います」
甘い飲み物を飲み、セラを抱く。もうそれ以上の幸福は考えられなかった。
「お前は女に我を忘れるような男ではなかったはずだが」
長老は肩を落として俯いたが、ふと手を打って顔を上げた。
「もしやお前、猿酒を飲まされておらんか」
「何ですか、それは」
「猿が木のほらに貯めておいた果実が、酒になってしまうことがあるのだ。酒というのは心を狂わせる媚薬での、わしらの部族では当の昔に飲まなくなったものだが、奴らは持っていてもおかしくない」
セラが勧めた甘い水のことがイサクの頭によぎった。
「まさか、俺は陥れられたのか」
イサクは挨拶もそこそこに長老の家を出ると、そのまま漁に出る舟に乗り込んだ。
あの熱を忘れるために、イサクは寝ている時以外は働いた。
謀られた悔しさに身を震わせていたイサクだったが、季節がめぐるごとにセラへの嵐のような思いは徐々に静まっていった。
「そう言えば、海の塩を知らなかった」
ある日、海水を撒いて浜辺で塩を作っている風景を見ながらイサクはふとセラを思い出した。
それにしても自分は戯れに飲まされた酒になぜあれほど憤ったのだろう。
結局、あれは肉に溺れた自分自身を怒っていたのではないか。
考えながら、イサクを後悔が襲い始めた。
理由はどうあれ、自分は何も告げず去ってしまった……。
イサクは山に赴いた。
小屋に近づいたイサクが聞いたものは、激しい赤子の鳴き声だった。
「セラ……」
「何しに来たの?」
イサクに冷たい一瞥を投げかけるとセラは子供を抱きかかえてあやし始めた。
「俺が悪かった。まさか、子供が……」
「出て行って」
セラは赤子を抱きしめ背を向けた。
「あなたはいつも自分の事ばかり」
唾を吐くと、セラは口をつぐんだ。
「セラ、俺が悩まなかったと思うのか?」
返事はなかった。
「海の塩を持ってきた。ここに置いていく」
暫くの沈黙の後、小屋を出る足音がした。
赤子の声だけが響く。
セラはため息をついた。
幾世代、こうして人は愛憎を繰り返してきたのだろうか。
この悲しみはこの子にも引き継がれるのだろうか。
いずれこの子もたった一人になる。
残されたセラは海の塩を指につけてそっと舐めてみた。
「この塩は涙の味がする」
心の中で張り詰めていた何かがぷちり、と切れた。
赤子をしっかりと身体にくくりつけ、セラはイサクを追って駆け出した。