花降る日
おぼろげな記憶の中、父親の赤い顔、飛び散る血、救急車の赤いランプ。
包丁でぱっくりとえぐられたおばあちゃんの腕。
あの日から「赤色」は良子の心を鷲づかみにして揺さぶるようになった。
心療科に通って日常生活はなんとか出来るようになったものの、血や赤いランプを長く見るとあの時の記憶がよみがえり動悸が止まらなくなってしまう。
だから看護師になりたいという夢も、あきらめざる得ない。
「やめなはれ!」
酒乱の父親が死んで平穏な生活になってからも、時々良子はあの声を思い出す。
もともと関西の人だったおばあちゃんは、今どきテレビでよく聞くどぎついものとは違うはんなりとした優しい響きの関西弁を話した。
でも、逃げ込んできた娘と孫を身を挺して守ってくれた時の一喝は違った。
思わず、父親がひるむくらいの厳しい声だった。
「悪かったなあ。もう怖いことあらへんで」
赤い色をみて泣くたびに、おばあちゃんは良子を抱き寄せて何度も繰り返したものだ。
その腕には小さくはなったもののくっきりと、赤い三角形の傷が残っていた。
「ありがとう、おばあちゃん」
良子はそっと骨壷が入った箱を抱く。
それはまっ白なお骨だった。
まるで清廉潔白に生きたおばあちゃんそのものの……。
皆に囲まれて消え入るように静かに亡くなったおばあちゃんの顔がとても安らかだったのが、良子のせめてもの救いだった。
涙で潤んだ良子の目に、何かが空中からひらりひらりと降ってくるのが映った。
たくさんの赤い花びら。
思わず身体を硬直させる良子。
周りの人は誰も気が付かないようだ。
これは自分にだけ見えている幻影なのか……。
良子が震えて立ちすくんでいる間にも、間断なく花びらは降り続ける。
手にくっついた花びらを見て、思わず良子は息を飲んだ。
それは、その形は。
おばあちゃんの赤い傷。
いきなり赤い花びらが吹雪のように良子を取り巻いた。
眼前が赤く染まり、良子の胸は激しく打ち始める。
助けて、誰か、誰か。
「怖い思いさせましたなあ、かんにんやで」
どこからか、包み込むような優しい声……。
「私が全部持っていきますからな」
その瞬間、幻が消え戸外の風景が飛び込んできた。
道の向こうに見える、鮮やかな信号機の赤。
しかしそれは、今までと違ってとても温かい色に感じた。
もう、赤色は怖くない。
恐怖はおばあちゃんが持っていってくれたのだ。
あたしは、看護師になれる。
良子はなぜか妙な確信を感じた
「見てて、おばあちゃん。あたし努力して木村さんとこのよっちゃんはいい看護師さんになったってみんなに噂されるようになる」
噂が、天国のおばあちゃんに届くくらいに。
天国でおばあちゃんが皆に自慢できるように。
「がんばんなはれや」
はんなりとした関西弁が良子の耳元をそっと通り過ぎていった。