ミミ
桃の節句にあるまじき、気持ち悪い系の話です。苦手な方はご注意ください。
「あ、三上さんだ」
同僚の一人がそう呟くと、吸い込まれていくように彼女を見つめた。
総務課の三上さんは、パッチリした目と高い鼻を持つスタイル抜群の美人である。独特の嗅覚で、出世しそうな男には取り入るくせに、他の人間にはあたりがきつく実は部署での評判はよろしくない。
特に同性からは総スカンを食らっているらしかった。
しかし男というものは不思議なものである。
三上さんに声をかけられるイコール出世街道に一足踏み出した、という図式が頭にあるので自分が値踏みされているとわかっていても声をかけてもらえるととてもうれしい。
「橋本さん、今度飲みに連れて行ってくださいね」
もう数ヶ月前になるだろうか、僕の交渉した取引が奇跡的に巧くいって、出世するかもと淡い期待を持つ時期があった。
さすが三上さん、その時目ざとく僕にすりよってきて、耳元でこっそりと飲みの誘いを呟いたのである。
忙しすぎて彼女のお誘いを受ける暇は無かったが、そうこうしているうちにやがてツキは離れ、取引は暗礁に乗り上げた。そのころにはさすが三上さん、僕に声をかけたことなど忘れたかのように次の男を落とすのに夢中になっていた。
だが、僕の耳には、あの声がこびりついて離れないのだ。
「橋本さん……」
挑みかかるような目、そこまでしなくてもというくらいつやつやに塗り上げられた唇。
纏うのは俗にいう良い匂いとはかけ離れた妖しい香りの香水。
それらは全て、女性達にとって癇に障る部分かも知れないが、最大限女の美しさを武器にしたその姿は僕らの射幸心をこの上なく煽るものだった。
吐息がかかるほど彼女が近寄ってきた、あの時の興奮は今でも忘れることができない。
思い出すと胸が締め付けられるほど……。
「橋本さん」
闇の中、僕は誰かが呼ぶのに気がついて飛び起きた。
あたりには誰も居ない。
気のせいか。
こんな時間に起きてしまって、今日も歩き回らなくてはいけないのに。
僕は舌打ちすると再び布団にもぐりこんだ。
それにしてもここ数日、夜中に目が覚めることが続いている。不眠症か?
一瞬カリッと右耳の痛みを感じたが、僕は気にせず目を瞑った。
その日の午後。
「先輩、蝶に好かれてますね」
後輩の斎木が笑いながら声をかけてきた。
営業の帰り道、花壇の横を通ってからずっと二匹の蝶に付きまとわれているのだ。
手で追いやっても、その時は離れるがいつの間にかひらひらと頭の周りを旋回している。
斎木と別れてからも蝶は離れず、おまけに蜂やら良くわからない虫までもが追って来るようになった。
頭に何かついているのか?
アパートの入り口で執拗に追ってくる虫どもを追い払い、僕は風呂場に飛び込んでシャワーを浴びた。
その夜、ビールを開けてとろとろとまどろみ始めた頃。
「橋本さん」
今度ははっきりと声が聞こえた。
「だ、誰だ」
「わ・た・しよ」
電気が点いているにもかかわらず、声の主の姿は見えない。
「誰だ、何処に居る?」
「わからないの」
声は少し、意気消沈したようだった。
ふと、僕はその声がどこかで聞いた声であることに気がついた。
「橋本さん」
「み、三上さんか……」
声はその質問には答えず、ただふふっと笑っただけだった。
こうして僕と幻聴の生活が始まった。
どうして幻聴が聞こえるようになったのか、と始めは悩んだが、なかなかどうしてこの幻聴はウィットに富んでいて、愛らしくおまけに色っぽい所もあるのだ。
人に話して病人扱いされるよりも、この官能的な幻聴としばらく付き合ってみるほうが楽しそうだと考え始めた僕は、幻聴をミミと名づけ、彼女との会話を楽しみにするようになっていた。
だが、奇妙なことが起こり始めた。
時々夜中に、右の耳元でこり、かり、という音が聞こえるのだ。
そんなときは決まって朝方、なにかの屑が枕元に散乱している。
気になって鏡で右耳の中を覗くとじっとりと汗ばんでいた。
だが、その汗はなんだかいつもの汗と違い、うねった耳の皺の内側に松脂のようにべっとりと垂れてこびりついているのである。
なんだか食虫植物の内側に似ている気がしないでもない。
ふと、自分の周りになんだか変わった臭いが漂っているのに気がついた。
臭いは本物の三上さんの香水とちょっと似ている。
もしかしてミミは幻聴では無く、本当に何かが耳に棲んでいるのか?
こうなれば、何が起こっているのかは確かめねばならない。
僕はある晩電気をつけっぱなしにして、自分の顔が映るようにデジタルビデオをセットすると早々に床に就いた。
翌朝。
僕は興味津々でビデオを再生してみた。
僕が寝息を立て始めると、電気が点いているにもかかわらずゴキブリが数匹僕の耳に近づいて来た。
そのとたん、ひゅっ、と右耳が変形しゴキブリを飲み込んだ。
耳は今しがた飲み込んだゴキブリを包み込んでゴリゴリと咀嚼している。
しばらくして、耳から足が吐き出された。
おうええええっ。
僕はトイレに駆け込むと何度も嘔吐した。
右耳をつかんで、引きちぎりたい気分だ。
「なあに、朝からうるさいわねえ」
「ミミ!」
僕は掻き出さんとばかりに耳かきを突っ込んでほじくったが耳の穴は以前と変わらず、カスのようなものがハラハラと落ちるばかりだった。
「お前、俺の耳で狩猟してやがったな」
「私、悪いことなーんにもしてないもん」
ミミは甘えるように言い捨てると、その日はもう呼んでも答えなかった。
だが、彼女はこれで開き直ったようで、歩いていても近寄った蝶がふと姿を消すことが頻繁になった。
さすがの僕も、もう我慢の限界だ。
僕の耳に棲み付くこの悪魔を何とかしなければ。
僕はあることを思いついた。
「先輩どうしたんですか、そりゃ」
右耳に包帯をとめるために使うネットを巻いて出社した僕に、斎木が目を丸くした。
「虫除け防護ネット、最近好かれちゃってさ」
「先輩の右耳、最近なんだかそそられる匂いがしますもんね~」
斎木はそういうと、僕の耳をくんくん嗅ぐと自分の机に戻っていった。
「橋本さん、お腹が空いた……」
もう丸一日何も食べさせていないミミが切ない声で哀願してきた。
そのうち哀願が効かないとわかると今度は脅迫を始めた。
「あたしをこんなめにあわせて無事ですむと思っているの」
しかし兵糧攻めも数日続くと、ミミには悪態をつく元気すらなくなってきたようだ。
ある日、ミミは何時に無く優しい声で僕に話しかけてきた。
「橋本さん……」
「なんだい、ミミ」
「愛してる」
そして、その声を最後にミミは姿を消した。
あれから数日。そっと右耳を撫でるがもう彼女の声は聞こえない。
あの官能的な声を思い出して、僕はそっとため息をついた。
「橋本さん」
聞き覚えのある声に、僕はびくりとして振り返った。
会社近くのコンビニを出たところで、なんと三上さんが立って僕に微笑んでいるではないか。
二人で並んで歩きながら、ぽつぽつと彼女が話し出した。
「最近自分がバカだったって気がついたの」
思いがけない展開に僕の胸が早鐘のように打つ。
「私には人を見る目が無かったって」
甘えるような上目遣いが僕から思考能力を奪った。
ふと気がつくと、僕は人気の無いビルの陰にいざなわれていた。
その時、三上さんの横顔に僕は息を飲んだ。
耳から雫がぼとぼとと滴っている。
「せっかく耳に細胞を植え付けてやったのに、よくも娘を餓死させたわね。あんたなら良い宿主になるかと思ったのに」
僕がこの世で最後に見たのは、牙を生やして向かってくる彼女の耳だった。