覚醒
「申し訳ないんですけど、これ預かっていただきたいの」
あまり親しくもない隣の奥さんが、いきなり香奈枝に小さな鉢植えの花を差し出した。
「主人が怪我して再生手術を受けなくてはならないの。しばらく国立医療センターに泊り込むので世話してやれなくて」
芙蓉に似たその花はうつむいて、白い花弁は薄汚れて皺が寄っていた。
「ほら、主人の入院でごたごたしていたでしょう、最近の私ではきれいに咲かなくて」
花を品定めする香奈枝の視線に気がついたのか、弁解するように奥さんが言った。
「この花は水をやる人を認識して、その人の健康や気持ちを反映して花の形や色を変えるの」
「花が変化するんですか?」
「ええ、急に花の色が変わったので病院に行ったら肝臓の病気が見つかった人もいたらしいわよ」
最近は他の星系から輸入した花との交配で変わった性質を持つ花が沢山作られている。
「1日1回水をやって欲しいの。5日もすればあなたを認識するわ。この花、主人と二人の時はとてもきれいな桜色だったから、きっとあなたに育ててもらえれば今よりもっと華麗な花になるわよ」
そう言うと香奈枝の手に鉢を押し付けるようにして、隣の奥さんは逃げるように去って行った。
「お母さん、あの花全然きれいにならないねえ」
久しぶりに帰ってきた息子が、しなびた花を覗き込むようにして言った。
彼はいま星間パイロット目指して全寮制の航空宇宙学校に在籍している。自立しているというのだろうか、訓練に夢中であまり家には帰ってこない。
「もう1週間になるから、私のコンディションを反映しているとは思うのだけれど。この前の健康診断も異常なかったし、原因が良く分からないわ」
あれから仕方なく毎日水をやっているが、花は華麗に咲くどころかさらに皺が寄り、白い花弁は濁った茶色に変化していた。
「香奈枝、仕事はうまくいっているのか」
メールをチェックしながら夫が聞く。結婚して20年にもなるとお互い普段は存在を認識しないが、知らぬ間に家事を済ましてくれていたりする優しい夫だ。
「ええ、新しいプロジェクトも順調で別に……」
あの奥さんに騙されたのかしら。
香奈枝は細い指でつん、と花びらをつついた。
そういえば、花にびっくりして、ご主人のお見舞いを言うのを忘れていた。
香奈枝は苦笑いした。
隣のご主人は、すらりと背の高い技術者でときおり香奈枝と出勤のとき一緒になった。駅まで話しながら歩くこともあり、むしろ奥さんよりも良く知っているくらいだ。
最近見ないと思ったら入院していたのか。
そんなことをぼんやりと考えながら、あのご主人の面長の顔を思い出した。
なかなかいい感じのご主人で、会社でも結構もてるのではと思うのだが、別に香奈枝の好きなタイプではない。
通勤のときも経済やその時々の話題、家庭の軽い愚痴など、当たり障りの無い話題で終始する。
が、お互い企業戦士であり、会話の端々に相通じるものは感じていた。
別に、どうでもいいけど……。香奈枝は息子に持って帰らせる荷物の準備をするため腰を上げた。
隣の家の玄関の小さなごみが片付けられて、こぎれいになっている。ご主人の病状が落ち着いたのか、どうやら隣の奥さんは帰っているらしい。
でも、相手から何も言ってこないし、わざわざ返しに行くのも億劫なので 香奈枝は花を預かったままにしていた。
相変わらず、花はよれよれといった風情で咲いている。
このまま返しに行くのもなんだか自分の内面を見せるようで気が引ける、という心理も働いていた。
これが私かしら。仕事と家庭をうまく切り盛りするキャリアウーマンを自認する香奈枝としては少々不満である。 現に容姿だって……。
ちらりと鏡を見る。
そりゃあ脚線美を誇り、仕事の面でも周りの男を括目させていた颯爽とした昔とは比べるべくも無いが、若い頃には無い落ち着きや色気というものが備わっていて、まだまだ捨てたものではないと思う。でも。
「何かが欠けている」
ふと、たるみきった自分の表情に気がついて香奈枝は愕然とした。
順調で、可もなく不可もない静かな生活。幸せに慣れきり、埋没した日々。
眉の手入れを怠っても、少々家事を怠けても、惰性で仕事をしても。これまでの蓄積のおかげでこの平穏な生活が揺らぐことは無い。
この緩んだ生活が私の女性としての本能を奪い、仕事や恋愛の場で昔感じていた強いエクスタシーから遠ざけた。
平穏な幸せと思っていたものは……実は自分にとっては不幸だったのかもしれない。
美しく見せることを放棄しているこの花。
ああ、まごうこと無くこのしおれた花は私だ。
切ない現実を突きつけられて香奈枝はため息をついた。
この花、もう返しに行こうか。
香奈枝は花に水をやる気も無くなって昨日から花を放ったらかしであった。
そもそもなんで隣の奥さんはほとんど面識も無い私にこの花を持ってきたのか。
自動給水機だってそんなに高いものではないのに。
香奈枝は苛立ちを感じながら、花を渡しに来たあの奥さんの姿を思い浮かべた。
嫌な感じだった。なんだか、人を探るような目つきで見て。もともとあの奥さんは女がぷんぷんと臭うような感じで、なんだかねっとりした雰囲気。できればお近づきになりたくないタイプだった。
そういえば、香奈枝は隣の家のベランダから視線を感じたことがある。
あの人だった。
彼女のご主人とともに歩く香奈枝に向けられていた視線。
ベランダの上から、見下ろしていたあの刺すような視線。
あの視線……。
その意味に気がついたとたん、香奈枝の背骨の中を電気が走り全身が痺れた。胸の底から突き上げられるような感覚が広がる。息が止まるほどの快感。
私は嫉妬されていたのだ。
あの女は怪我をした夫を看病するのは妻である自分であること、仲の良い夫婦であることを知らしめるために、この花を口実にしたのだ。これ以上、近づくなと。ある意味この花は戦線布告であったという訳だ。
香奈枝自身は彼女の夫の気持ちに気づいてさえいなかったのに、図らずも彼女はそれを教えてくれたのだ。
馬鹿なことを。香奈枝はくすりと笑った。
あの野暮ったい女、視線のなかに夫しかない世間の狭い女。
その狭い世界を守ることに汲々とし、つまらない妬みや敵愾心に埋没する女。
女が夢中になった時に、男の心が離れていくのにも気がつかない愚かな女。
あんな女に負けるものですか。
ふと見るとあの花はてらてらと黒光りする百合のような肉厚な花弁に変貌しており、その中に白いぽってりとしためしべが垂れていた。めしべの先端は脈打つように震え、ぬらぬらと粘液を滴らせた。
彼は私に夢中になるだろう。歩きながら妻の愚痴や、私のような颯爽としたキャリアウーマンに憧れるって言ってた。気にも留めてなかったけど。
香奈枝の心に忘れていた興奮が蘇った。息が荒くなる。
略奪。
それもゆっくりと、じらしながら。
首の周りに真綿を廻らして、そっとそっと絞り込んでいくように。
ちらりちらりと、私が男を虜にしていく徴をあの女に見せながら。
あの女は髪を振り乱して泣くだろうか、女としての面子を潰されて。
そしてその絶望を糧に、私はまた女に戻るのだ。
震えるほどの快感に浸りながら、香奈枝は心の中で高い笑い声を上げた。
「西条香奈枝さんですか?」
通信機から、少し上ずった彼の声が響く。
お顔が見えなくて寂しいです。と、思わせぶりなお見舞いのメールを病院に出しておいたから、そろそろ連絡がくるだろうと思っていた。
「妻がお伺いしたんでしょう。何か変なこと言ってませんでしたか。実はうわごとで、香奈枝さんの名前を呼んでしまったらしくって……」
「まあ、うれしい。退院されたら、また一緒に通勤しましょう。そうだ退院祝いにお食事でもいかが。ええ、二人っきりで……」
ふと鏡を見ると、唇をなめる香奈枝の舌がめしべのようにねっとりと光っていた。