蓮の音(一)
随分と時間が空いてしまいましたが、再び織史が闘います。
東宮庭。
この辺り一帯を指す名称で、ここはその一角にある離宮のひとつだという。
湖のように広大な池を中心に、睡蓮の浮かぶ大小の池と東屋のある庭園。
織史はこの空気がとても心地良かった。
楽に呼吸ができる。
これだけ水の気が溢れているのに、流れる風が湿気を払い、清々しく感じられる場所。
時折降る雨も、空を洗うような軽いものだ。
――狐の嫁入りみたい――
差し込む陽光との逢瀬。
雨粒は虹を描いて、天空を渡って行く。
それを東屋から見上げているのが、目下の楽しみだった。
さらにこの庭には、奥まった場所に小さな滝があり、滝壺の手前には岩舞台もあった。
初めてその場所を案内された時には、感激のあまり幼子のように、舞台に上がっても良いかとせがんでしまうほどだった。
跳ね上がる水滴と、降り頻る水の気。
それらに触れていると、穢れを祓われるような心地がした。
戯れている、といっても過言ではないつもりだったが、その姿が駒羅や彬矢、霄雲の目にどのように映っていたかを、織史自身は知る由もなかった。
それは単に、ここでの暮らしが長くなかったからだ。
三日目の夜のこと。
その日の昼に、龐公が連れて来たのは三頭の獣だった。
まだ子どもだという話であったが、檻の中の獣は色こそ漆黒であるものの、ふさふさとした鬣と毛並みを持った獅子のように見えた。
三頭は並んで寄り添うように伏せながら、織史を見詰めている。
初めて目にした気がしなくて、どこか温かさを感じさせるその眼差しに、織史は恐怖ではなく懐かしさを感じ、檻に歩み寄った。
それを目にした獣が、のっそりと立ち上がる。
「待て」
引きとめようと駒羅が進み出たのを、龐公が制した。
いつでも引けるように糸車に手を掛けたものの、駒羅は次に目にした出来事で、その手を離した。
織史と三頭の獣は互いにじっと見詰め合い、そのまま動かなかった。
瞳の奥から心の内を晒すように、織史は獣の前に佇み、穏やかに呼吸をしている。
それは決して安全とは言えない状態であるのに、何故か彼らならば、自分に牙を向かない気がしたからだ。
「あの時の、仔どもですか?」
「そうだ」
「随分と懐いていますね……正直、驚きました」
「ふっ。母親か何かと思っているのではないか? 体内にいたのだからな」
「それはいくら何でも……」
霄雲はそう口にしたが、龐公の言葉があながち嘘ではないとも思っていた。
事実、この獣――黒狻猊という種族で、百獣の王たる獅子の如き鬣と体躯を持つ獣は、織史の腹から出てきたものである。それは比喩などではなく、朱妃の術によって内側から取り出されたのだ。
それに、織史自身の態度からも裏付けられている。
一般的に言っても、女子供が獣の檻に手を差し入れる様など、考えられないことだ。侍女などは当然悲鳴を上げて近付こうともしないし、兵士の者でさえ、中には恐怖感を抱く者がいる。
そうした怯えを彼ら獣は敏感に感じ取るし、ともすれば歯牙にも掛けぬ態度で軽くあしらわれてしまうというのに、霄雲の目の前に居る少女の姿はどうだろう。
白百合のように細く小さな手を、真っ直ぐに檻の中に差し入れている。そしてそれを、一頭の黒狻猊が鼻先を近付けて自ら擦り寄るように触れているではないか。
毛並みを撫でるようにしながら、彼らとじゃれているその姿は、少女と大きな猫のようにも見える。
「……ほぅ」
思わず嘆息すると、その横から耳を疑う言葉が掛けられた。
「名前を付けてやったらどうだ。お前のことを気に入っているようだし、上手く躾ければ護衛代わりにもなるやもしれんぞ」
「な、何を――!?」
驚いた霄雲の声とは裏腹に、織史は思案気な表情を浮かべて三頭の獣を見る。
本当につける気かと目を見張ったのは、発言した当人も同じ様だ。
――男の子……よね? 名前を教えてもらえると助かるんだけど。
ふたりの考えをよそに、織史自身は黒狻猊と言葉を交わそうとしていた。
勿論、自分にそのような能力があると思っての行動ではなく、ただ何となく、彼らの“声”が聞こえるような気がして、訊ねてみたのだ。
三頭はチラリと互いの顔を見合った後、織史の側に喉の横を摺り寄せてその場に伏せた。
まるで任せると言われた気がして、織史は嬉しくなる。それは初めて友人ができたときの高揚感に似て、頬を薄紅色に染めた。
「――ま、暫くは奥庭の檻に居てもらうから、それまでに名を呼べるようになるが良い」
龐公は立ち上がり兵士に指示すると、衣を翻して部屋を後にした。
それに続くように黒狻猊の檻も運ばれていき、織史は少し寂しくなる。
後で場所を聞いてみようと思うが、声が出ない今はやはり意思疎通が難しく、一方通行な状態であるから、龐公の言う通り、まずは声が戻るように意識しようと心に決めた。
――それに……
先日の一件で思い出した【約束】のこともある。
断片的ではあるが、何か大事な内容だった気がして、何度も思い出そうと試みているものの靄がかかったように見えずにいる。それがもどかしくて、頭痛に悩まされながらも織史は糸口を探し続けていた。
――せめて、顔を思い出せたなら……。
ぼんやりとしか思い出せない“声”の主の姿。
光が天から降り注ぐ岩窟の一角に佇む黒い影。宵闇よりも深い夜の海のような色の流れる髪。全てを呑み込む深淵を思わせる瞳と…――
そこまで思い浮かべると、また脳髄に走る痛みに邪魔をされる。
だが、一瞬だけその場に他の人物の姿を見た気がして、織史はそちらにも意識を向けた。
と、そこに遠くから響く悲鳴が届く。
「何事か?」
静かだが張りのある声で、駒羅が廊下に続く扉に向かう。織史も霄雲と彬矢に脇を固められながら、廊下を見遣る。するとその向こうから、兵士の走る音と獣の咆哮が聞こえた。
「あ、織史殿?!」
彬矢の声を背中に受けて、織史は駆け出していた。
――あの声は、さっきの……っ。
「織史殿、お待ちください!」
霄雲に腕を掴まれたが、織史は衣を脱ぎ捨てるようにするりとその手を抜けて、走り続けた。
途中で数名の兵士とすれ違い、さらにこの先は危険だからと止められ掛かったが、織史は廊下の欄干を越えて庭に降り、その足で騒ぎの中心に向かった。