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黒鶺鴒  作者: 美紅
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移ろいの中で


「この部屋の物は自由に使ってください。それから、何か用のある時はこの紐を――…」

 霄雲は言いながら壁際に下げられている青い紐を引いた。すると、扉に下がっている薬玉のように集められた鈴が鳴った。

「そうしたら、人が来るようになっておりますから。――さて、そろそろ医師が来る頃かな…。僕、少し外を見て来ますね」

 言って、霄雲は柔らかく微笑み、部屋を後にした。

 織史は所在無く、窓辺に置かれた卓まで歩いて椅子に座る。そして疵付いた左手に巻かれた布を見詰めた。

 目的地と思われる場所に着き、その門内に駆け込んだ後、霄雲が巻いてくれた物だ。自分の衣を裂いて、応急処置として止血をしてくれた。その水色の衣には血が滲み、今では赤紫色に染まっている。

 疼くような感覚と熱が傷口から広がり、痺れが左腕を襲っている。

 織史は目を閉じて、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。

 瞼を閉じると鮮明に思い出す。先刻眼にした光景が、まるでスローモーションのように、一枚一枚呼び起こされて浮かんでくる。

 じわりと傷口から血が滲み、衣を濡らすが痛みは無い。

 熱を感じるものの、まだ痛覚は鈍いのだろうか。傷を負っているという違和感だけが掌にある。それを不思議に思いながら、織史は息を吐く。

――サイ…――

 ふと口を突いた言の葉は、部屋の隅でたかれている香りに溶け込む。

 血の臭いを忘れさせてくれるその香りは、霄雲の香とも龐公の香とも異なったものだ。勿論、黰宮の甘い花の香とも違う香りであったが、織史はこの香りを嗅いだ覚えがあった。

 ゆっくりと呼吸をすると、全身に香りが巡り、力が抜けていく。眠気とも違うその感覚に、織史は身を委ねるようにして椅子に深く腰掛ける。そして窓から空を見上げた。

――そう言えば、あの日も抜けるような青空だったっけ…――

 青天の奥に、記憶の断片が浮かんで見えた。

 高い高い青空に、揺れる黒髪。はためく白い布。雑踏と人混みを掻き分けて、走り続ける。

 その向こうで、小さな白い手が振られている。

 自分を呼ぶ声が聞こえて、こちらから返事をしようと口を開く――…

 その瞬間だった。目の前が一変したのは。

 紺色の物体が視界を遮り、喧騒が耳を覆う。騒音、騒音、騒音。

 それが、誰かが口にした絶叫であると知ったのはしばらく経って後だった。

 爪先に触れる何かを感じて視線を向けると、先刻まで自分に振られていた小さな白い手が、紅い液体に濡れながら其処に在るのが目に入る。

 もう二度と、振られることの無い白い手が。

「…――織史殿?」

 不意に声を掛けられて、織史は意識を戻す。

 今はその現場ではない。自分は椅子に座って、窓の外を眺めている。それだけだ。

「傷が痛みますか…?」

 心配そうに顔を覗き込んでくる霄雲の目を見たとき、織史は自分の身体を巡る血の流れを改めて感じた。

 ぞっとするほど青白く、虚ろな双眸を持った顔。微かに震える指先と、緊張した全身。そんな自分の姿が、霄雲の目の中に浮かんで見えた。

 織史は首を左右に振り、小さく口角を上げる。

 本当に、痛みは無かった。

 矢に貫かれた初めは、電流を流されたかのように、無数の針が血管を刺しているかのように、激痛と呼ぶに相応しい痛みが全身を駆けた。

 しかし痛みを感じたのはその瞬間だけで、痛覚がどうにかなってしまったかのように、左手の掌から痛みを感じることはなかった。ただその感じは、先日龐公の扇から頬に受けた感覚に似ていた。

 だからなのか、その後医師に手を診てもらっているとき、側で立っている女官が痛ましさに眉を顰めていても、傷口に医師が触れても、織史の表情が動くことはなかった。

 医師も、診察はし易かった様だが僅かに顔を曇らせ、部屋を出るときに霄雲の耳元で何か伝えて行った。

 その言葉が織史の耳に届くことは当然無かったが、霄雲の沈んだ表情でその内容は察することができた。

「織史殿、これから貴女の世話をする者を紹介しますね。クラ、リンヤ。入りなさい」

 座っている織史の側に来た霄雲は、微笑みを作りながら話すと扉に向かって声を掛けた。すると二人の人物が一礼して入ってくる。

 一人は白に近い灰色の真っ直ぐな髪で、紺色の衣服を纏っている。もう一人は赤茶色の髪を後ろでまとめ、人懐こそうな目を織史に向け、同じように紺色の衣服を纏っている。

 どこかで見たことがある。そう思ったとき、先刻森の中で会った二人であることを思い出した。

「駒羅と申します」

「僕は彬矢と申します。先刻は挨拶もせず、失礼致しました」

 そう挨拶されて初めて、赤茶色の髪の人物―彬矢が少年であることを知った。

 外見は少女だと言われてもおかしくない程で、逆に少年だと言われる方が疑わしく思える。

「セイシンコウ様から、剣を扱えると伺いました。そしてこちらを渡すようにと、仰せ遣いました。必要など無いように努めますが、万一の時にはこちらをお使い下さいませ」

 織史の驚きを他所に、駒羅が手にしていた一振りの剣を差し出した。

「龐公殿がそのようなことを…?」

「はい。先の一件をお聞きになられてのことかと存じます」

 霄雲が訊ねると、駒羅の横に立っていた彬矢が少し声音を低めて答えた。

 思案気に眉を寄せている霄雲を一瞥して、織史はその剣を受け取った。

 手にズシリと重圧が掛かり、手首が下がる。それでも指先に力を入れて握り締めると、胸の奥で何かがざわめくのを感じた。

 震える。

 この感覚をそういうのだとしたら、自分は同じ“震え”を以前に感じたことがある。

 それは身体の中心から、自分では無い何かに引き上げられるようにして沸き起こる感覚。それが全身を満たすことで、自分は“自分”を見失いそうになる。

 そんな“震え”に似ている。

 そう、あの白い手を眼にしたときに広がった感覚に。

「織史殿?」

 下から顔を覗きこむ霄雲の視線に気付き、織史は正気に返った。

 返事をするように目を向けると、少し心配そうに微笑みながら霄雲は言った。

「後で、お茶を飲みませんか? 彬矢は腕の良い楽士でもあるんです」

「え、僕ですか…? いや、そんな、お恥ずかしい」

「お前のための言葉じゃないだろ」

 霄雲の口に上った言葉に彬矢が照れた様子で後頭部を掻くと、その横で駒羅がポツリと呟いた。

 彬矢は「違うの?」と聞き返すように丸い目を動かすが、霄雲はふたりの言葉を流して織史の手を引く。

 以前は少年らしい細い手だと思ったものが、今は温かく心強いもののように感じられる。

 武骨とは決して言えない手だが、剣や弓を扱う手であると知っているからかも知れない。

 それでも、血生臭い感じを受けないのは霄雲の柔らかい微笑みや、屈託の無い話し方がそれを包んでいるからだろうと思う。

 それに、霄雲の手からは何故か温かさを感じる。気持ちだけでなく、実際にも。

 織史は繋いだ手に、そっと力を篭めた。


 霄雲に手を引かれて通された場所は、中庭の池に面した東屋であった。

 単に東屋と呼ぶには相応しからぬ様相をした場所ではあったが、「狭い所で済みません…」と言い難そうにした霄雲の様子から見る限り、この屋敷に暮らす人にとっては大した場所ではないらしい。

 白木の欄干と柱に、浅葱色をした毛氈の敷かれた台座は、ともすれば能舞台のような趣を見せている。それというのも、池を正面とする壁に描かれた龍の姿があまりにも荘厳で、眼を奪うほどの色彩美を放っているからだ。石造りの橋で繋がる、同じように白木を基調として造られた東屋を客席と見立て、一指しでも舞えば雨でも降りそうな雰囲気が其処には在る。当然ながら、続く東屋とて柱に施された彫刻や、四方の柱を繋ぐように設えられた木製の座所の背凭れ部分に描かれた蓮の花も、慎ましやかな美しさを放っていた。

 織史は勧められるままに腰を下ろし、目の前に座る彬矢の演奏に耳を傾けた。

 水面を渡る風が心地良く、響く楽の音もまた、織史の心を和ませる。

 初めて目にする楽器から紡がれる旋律は、弦楽器特有の音色を紡ぐが、耳にしたことのない曲目で、涼やかな風を思い起こさせた。

 目を閉じると水面に浮かんでいるかのように錯覚する。

 そしてそのまま身体から力が抜けて、柔らかい何かに包み込まれていく気分だ。

――まるで、笹舟に乗っているような気分――

 気分が良くなって、口許の笑みがやがて歌を口ずさむように綻んでくる。

 そして鼻先を、湿った空気が流れた。

 ――…ポツリ。

 頬に冷たいものが当たり、織史は目を開ける。

 首を傾げて屋根の向こうに広がる空を見上げれば、雲の姿は見当たらない。

 気のせいかとも思ったが、気にし始めるとその匂いに意識が向く。

――雨の、匂い?――

 もう一度顔を空に向けると、織史の考えを肯定するかのように、空が曇り始めた。

 風が立ち始め、水面が揺れる。

「…お帰りか…?」

 席から立ち、欄干から身を乗り出す霄雲の口から呟かれた言葉に、織史は小首を傾げる。

――帰る?――

「こちらに」

 同じように欄干に寄ろうとした織史の腕を、駒羅が引いた。

 何かと戸惑う様子の織史を奥に連れ、外から身を守るように駒羅が肩を抱く。

 耳に入るのは空を切るように強さを増す風の音。暗雲に包まれていく池の景色。

 彬矢も手を止めて織史の側に居る。

 勢いを増す嵐の様相に、手を加えるように空が光る。雷が走り、石のような雨粒が辺りに降り注いだ。

 ただ、三人の表情に険しい色が浮かんでいないことだけが、織史の心を静かにさせている。

 そして一際強く、稲光が空に走り、耳を劈くような轟音がこだました次の瞬間、周囲の氣がざわめいた。

「出迎えとは、ご苦労だな」

 覚えのある声が聞こえた。

 一瞬にして静寂に戻った中で、その声はとても澄んで耳に入る。

 水滴を煌かせる飴色の髪。風に揺れる青色の衣。水晶のように輝いて深海のように揺らめき、そして金色を湛えた瞳。凛とした居住まいの中に、確かに存在する優雅。高貴さを顕わにしながら精悍さを見せる佇まい。

 畏怖さえも覚える神々しさを放つその人物を、織史は他に知らない。

 あの嵐の夜、自分を包んだ腕の持ち主であり、自分を妖かしとして対処した相手。

――龐公…――

 その名を口にしたとき、もとより声になど出ていないのに、当人が振り返った。

 紺碧色に見える瞳がこちらを向いて、織史の黒い双眸とぶつかる。

 はっとして口許に手を伸ばしたが、織史は視線を外さなかった。

「まだ声は出ないのか?」

「そう、直ぐには…」

「仮にも治癒術の名士と云われるというのに、まだ時間を掛けるのか…」

 龐公が眉を顰めながら織史を見る。

 その視線が自分を通り越して別の人物に向けられているのを、織史は知っていた。そして険を含んだ声音の原因が自分にあることもまた、知っていた。

「――そう言えば、襲われたそうだな」

 天気の話でもするかのように何気なく振られるには妙な内容であったが、龐公は東屋の一角に腰掛けながら切り出した。

「腕利きを付けた筈だが、傷を負わせるとは…なかなか侮れんな」

「ご存知でしたか」

「途中で報告を受けた。質素にさせたのが仇となったな、霄雲」

「そうですね。豪奢にして表立った行動を避けたのが、逆に相手の付け入る隙を与えてしまいました」

「だが、これほどの早急な対応をしてくるとなると、大分、的が絞れてくる」

「確かに。黰宮の側に密偵を放っていたとしても、あの街道で襲ってくるというのは早すぎます。辺りに網を張っていたのか、もしくはこちらの出方を予め知っていたか…」

「知っていた・とするならば、次の問題はその方法だな。占術だとすると手下に術者がいるということだ。本人かもしれんがな」

「でしたら、術者に対しても警戒した方が良さそうですね」

「しかし此処も、時間の問題だろうな…」

「そうですね。此処に居ることは知れている訳ですし」

 龐公の言葉に霄雲は沈んだ面持ちで返事をした。

「――仕方ない。奴の所に場所を変えよう」

「場所を変えるって…簡単に申されますが、どなたの所ですか?」

「ガデンだ」

「え、正気ですか?!」

「あそこなら、いくらなんでも直ぐには見つかるまい。それに、例え賊が来ようとも奴なら追い返せるだろ。何せそれがお役目なんだからな」

「し、しかし…。あの方が許して下さるかどうか…」

「なに。人助けと言えば断る筈は無いだろう」

「確かにお優しい方ではありますが…」

「そんな後ろ向きでどうする。お前があの娘を守ると言ったんだぞ。あれは嘘か?」

「いいえ! …解りました。僕からもお願いに上がります」

「そうそう、その意気を忘れるなよ」

 霄雲の言葉に軽く笑いを含んだ表情を見せながら、龐公はちらりと織史を見る。

「こちらの話を聞けば、奴から引取りを申し出てきてもおかしくないのだから、そう気張ることでもないがな」

「何か仰いましたか?」

「いや、こちらの話だ。それよりも霄雲、黰宮から運ばれた例の物はどうした?」

「それならば龐公殿の御言い付け通り、奥へ運んであります。御覧になられますか?」

「後で見せてもらおう。…私は室に戻るが、何かあったら呼べ。叶からも頼まれているからな、その娘のことは」

「心得ました」

 去り際にもう一度織史を見て、龐公はその場を後にした。

 最後の言葉が胸に引っ掛かったが、織史は黙って龐公の背を見送る。

 何やら不思議な感覚で龐公に引き付けられているような気がしている織史には、龐公の存在が違和感を覚えさせる以外の何者でもなく、むしろ離れられることに安堵していた。

 苦痛ではないが、身体の奥でざわめくものが不安を掻き立てていく。

 そんな感じを織史は覚えていた。

「――さて、彬矢の音楽が途中でしたね。今度はお茶も用意して、再開しましょうか」

「それでは、私が」

「いや、室内に移動しましょう。織史殿もその方が良いでしょう?」

 意見を求められるように顔を覗かれ、織史は初めて自分が龐公の歩いて行った細殿を見詰めていたことに気付いた。

 そして遅れながらも霄雲の言葉を呑み込んで、その提案をふと考える。

 室内に戻ってお茶を飲む。確かに湿度のある場所より楽器に適した場所の方が音色は良いだろう。それに、先刻の雨滴は自分たちの衣服にも掛かっていた。

 けれども織史は直ぐに頷くことはできないでいた。

 何が・という訳ではないのだが、織史はこの場所から離れ難いものを感じていたのである。

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