表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒鶺鴒  作者: 美紅
7/20

記憶の欠片

幕間的な部分です。

これまで、シングウでお世話になっていたところから移動します。


「ああ。ご無事でございましたか」

 屋敷に着くと、薫衣が入り口の所で織史の姿を認めて駆け寄って来た。その姿が我が子の帰りを待つ母親のようで、織史の胸が痛む。強い優しさは、今はひどく沁みる。

「お仕度はこちらに整えてございます」

 薫衣の後ろから、丁字が一つの箱を示しながら言った。その箱を門の脇に控えさせていた馬車に積み、霄雲は織史の手を引く。どうやらその荷は自分のものであったらしい。

 去り際に織史は薫衣に向き直り、深く頭を下げる。声にはならなかったが、唇は感謝を述べる形に動いた。

「お元気で」

 連行されて行く者に向ける言葉としては不似合いだが、薫衣の心の篭もったその言葉は、ひどく温かい。

 目頭が熱くなり、隠すように俯くと一粒の雫が足元に滴る。乾いた土に吸い込まれてそれは、直ぐに消えた。

 織史は顔を上げられずに、そのまま馬車に乗り込む。すると微かに、風に紛れて鈴の音が聴こえた。



 地を駆ける車輪の音と振動の中で、織史は布の掛けられた小窓から垣間見える空を見詰めていた。

 流れる雲と、どこまでも同じ空の青。鳥の姿も無く、眼にも鮮やかな色だけが広がっている。

 それを見続けていると織史の気持ちは、先刻、脳裏に浮かんだ異世界のような光景に飛んで行く。

 自分の作り出した幻想か、それとも失っているらしい記憶の一部か。

 こんなどうでも良いことを考えてしまうのは、きっと単調な時間が長いせいだ。

 いっそあの場で、処断してくれたなら良かったのに。

 そうすれば、こんな不毛な時間を過ごすこともなかっただろう。

 力なく床に置かれた指先は微かに冷え、瞬きを忘れてしまった瞼は常に薄く開いている。時折訪れる大きな揺れにも動じることなく、まるで人形のように座り続け、そして意識のあることさえ不確かな様相で、織史は眼を空に向けていた。

「――眼を閉じてはいけない」

 不意に、脳内に直接響くかのような声が、こだました。

――……――

「眼を閉じてはいけない。汝の眼は我と繋がる唯一の扉。心を強く、眼を開け」

――誰…――

「夢で繋がれたるは雨夜の花だけ。我と汝はその眼で繋がった。その眼を閉じてはいけない」

――……ごめんなさい……。私…――

「水氣は我の力を呼ぶ。汝の願いを言え」

――願い…。私の願い…――

「強く願え。我の力は必ず汝に届く」

――…私の願いは…。あなたとの約束を守りたい――

 織史の眦から一滴の涙が頬に流れた刹那、額に一閃の光が走る。熱と共に貫くような一筋の光が、額で砕けて流れ星のように織史の身に降り注ぐ。そして次の瞬間、大きな衝撃が馬車を襲った。

「何事かっ!?」

「敵襲でございます!」

 慌しい音が周囲から沸き立ち、仕切りを挟んだ向こう側から兵士の声がする。辺りに馬の嘶きが響いて揺れがひどくなり、壁板に矢の立つ音がする。小窓からも矢が飛び込み、内一本が織史の左手を貫いた。

 激痛に織史は正気を取り戻し、左手から伝わる熱に顔を顰める。運良く、刺さったのはその一本だけだ。

「――霄雲様!」

「こちらに構うな、先に行け! 失礼します、織史殿」

 厳しい声を上げて、霄雲が仕切り戸を開けて織史の側に来る。

 その手元に突き立つ矢を目にして霄雲は一瞬だけ眉根を寄せたが、直ぐに織史の身体を抱え上げ、仕切り戸の向こうに戻る。

 開けた視界に飛び込んで来たのは、自分を運んでいた馬車の馬と、両脇を馬で駆けている見知らぬ矢を携えた男達。見ている先からその手に握られた矢が放たれ、空を切る。辺りを囲んでいた兵士達がそれぞれの剣で矢を弾き返しているが、その数に払いきれなかった矢が織史の頬を掠めた。

 霄雲は馬に飛び移るとその手綱を握り、駆けられていた荷車を引く縄を剣で切る。

「しばらくご辛抱を」

 小さく言って、霄雲は強く織史を抱えて馬を駆る。兵達を置いて走り抜けて行く速さに、賊も追って来られずに居る。そんな流れる景色の中で、織史は木々の間に人影を見た。

 黒い布を頭から被り、闇に紛れるように佇む姿。そして見えない瞳から放たれる鋭い視線と一瞬だけ眼が合う。その感覚を、織史は初めてでは無いように感じていた。

 射抜くというよりも、激しい感情に研がれた視線。憎しみや嫌悪の色さえ見えない、純粋なまでの殺意。排除するためだけに向けられた、ひどく印象的な眼。呼吸さえも奪われてしまうような強さが、そこには在った。

 思わず走った震えに、織史は左手の痛みさえ忘れて両腕を握り締める。貫いた矢の切っ先を伝い、滲む鮮血が袖に滴るのと同時に、掌から広がる熱と疼きが意識を違う方向へ引き込む。

 一度だけ瞼を閉じると、織史は矢の柄に手を掛けて一気に引き抜いた。紅玉のような血が飛び散り、手首にも赤い血が流れる。役目を終えた矢は乾いた音を立てて、土埃の向こうに消えて行く。

 その眼には、これまで失われていた光が、宿っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ