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黒鶺鴒  作者: 美紅
6/20

罰を望む逃避

遅ればせながら・・・

前回までのあらすじとして、


シングウ内でのある夜のこと、織史の命を狙う者が現れた。

命辛々なんとか逃げ続ける織史であったが、それは彼女の知らない水面下でも行なわれ続けていた。

そして遂にある日、昼間でありながら裏手の森から獣までもが襲来した。

騒ぎの中、織史は龐公の手にしていた剣を目にした途端、何かに憑かれたように剣を振るい始める。

そして獣の次には、自分を狙う人物の元へ―――

 気が付くと織史は血に濡れた剣を手にして立っていた。

 弾かれるように右手から握っていた柄を放し、震える手を胸の前で握り締める。

 すると生臭く錆びた臭いが鼻に突き、眉を顰めた。

 咽返むせるほど、身の回りには生々しい血の臭いが充満している。

 口許を覆おうと掌を動かしたとき、ヌメリとした感触が手に広がった。

 おそるおそる自らの手を目にした時、織史の身体は痙攣するように跳ねた。

――!!――

 何も言葉は浮かばない。頭の中は真っ白になる。

 離したくとも視線を外すことが出来ず、文字通り釘付けになり、織史は意識が遠のくのを感じる。

 けれども自分の手が何を意味するのか考えると、それを確かめたいという衝動に駆られた。

 ゆっくりと首を回し、手から離れた視線を地面に移す。

 織史は泣きたくなった。

 心のどこかで生じていた期待は裏切られ、そこには血溜まりにうつ伏せになっている男の姿が在った。

 涙は出ない。勿論、一言も声は出ない。

 しかし織史の頭の中では何かがガンガンと鳴り響き、辺りの音が一切掻き消されている。

 一歩、また一歩と後ずさり、織史は男の身体を凝視しながらもその身を引く。

 背中が木に当たり、そのまま織史は木肌を伝って地面にへたり込んだ。

 何も考えられなかった。

 手に残る、生温かくヌメリを帯びた血の感触。

 辺りに広がる死臭。

 誰の姿も見えないこの場所で、自分一人だけが立っていたその事実。

――私が、殺した――

 織史はもう何も考えたくはなかった。

 どう足掻いても、目の前のものが消える筈のない現実であることを確信していたのだ。

 後悔にも似た念が心を包み、闇が広がる。だが、異様なほど冷静に全てを見詰めている自分が居ることに気付いた。

 薄笑いすら浮かべそうな、もう一人の自分。

 その存在もまた、確かなものだった。

 そこへ、自分を捜し求める声が響く。

「――織史殿…!」

 霄雲の声は確実にこの場所へと近付いて来る。

 草を掻き分ける音と、自分を呼ぶ声が重なり辺りにこだまする。

 再び織史の身体は脈打ち、声とは反対の方向に向かって走り出した。

 こんな姿を霄雲に見られたくは無い。人とも獣とも分からぬ血に塗れ、死臭を放つ穢れた自分を。

 屈託の無い笑顔を見せ、自分に優しく接してくれた霄雲。そして華星を自分に会わせ、街に連れて行ったりと心遣いも見せてくれた。何よりも、霄雲は自分を最後まで妖獣ではなく“人”として信じてくれていた。その気持ちがとても嬉しかった。だからこそ、霄雲には今の姿を見せたくはなかった。

 いつの間にか目尻を濡らし、涙が後ろへ流れていく。

――ごめんなさい――

 織史は震える唇から呟くように、言葉を漏らした。

 どれほどの距離を走り続けたのか判らず、どこへ向かっているのかさえも判らない。辺りは木々が茂る同じような景色ばかり。そしてその木々は自分を見下ろすように聳え立ち、昼間だというのに薄暗い影を落としていた。

 織史は一本の木の本に辿り着くと、その場に倒れこんで天を仰いだ。

 脚の筋肉に重みと痺れを覚え、体中を駆け巡る血脈の響きを聴く。痛みを微かに伴う胸の苦しみを感じながら、息を吸い込む。瞳を閉じると一滴の涙が伝い、咽喉がヒリヒリと痛み、呼吸さえも上手くできない。また一つ、涙が零れる。頬を通り抜ける風が、ひどく優しかった。

――もう、消えたい――

 その想いだけが、織史の頭に浮かび薄れることなく存在し続ける。

――霄雲にも、薫衣さんにも、皆に迷惑ばかり掛けてしまった。何も返すことができないのなら、せめて邪魔にならないように消えてしまいたい――

 織史は心から、あの夜と同じ言葉を紡いだ。


――我を殺して浄化し給え――


 額の一点に熱を感じた。もう一つの眼が開くような感覚。

 その眼に映るものは、自分の知らない景色だった。

 天に突き立つ岩壁と浮き上がった平地。そこから流れ落ちる幾筋もの滝と水に掛かる虹。緑豊かな大地とどこまでも広がる青い空。

 知らないような気がするものの、既視感がある。

 この光景を眼にした時、自分の手は草に触れていた。その感覚が甦る。

 手だけではない。脚も、膝も、腰から下は地面に付いて丈の短い草に接していた。そして――

「織史殿……?」

 織史はその声で我に返る。

 瞳を開けると傍らには、膝を付いて自分を覗き込む霄雲の顔があった。

 起き上がろうとしたが腕に力が入らず、寝たままの状態で眼を合わせる。

 本心では、立ち上がって逃げ出したかった。しかし身体が思うように動かず、それならば…と腹を括ったのだ。

 どんな蔑みの言葉でも、今は受け止めよう。

 叱責され、憎まれようとも構わない。

 たとえこの場で殺されようとも。

「織史殿。お怪我はありませんか?」

 その瞳があまりにも優しく、その言葉があまりにも当然のことのように囁かれて、織史は涙を零してしまう。

「どこか、痛むのですか?」

 織史は首を振り、瞳を閉じる。

 おろおろと慌てた様子で霄雲が声を掛けるが、織史は目を開くことができない。

 それは、止め処無く溢れ出る涙のせいだけではなかった。

「さあ、こちらへ」

 差し伸べられた手に抱き起こされるが、織史はまた首を振り返しその腕から逃れるように身を引く。

 すると突然、霄雲の顔色が変わり、困惑を隠せないと言った表情で織史を見た。

 そして言葉通り声音も、霄雲とは異なったものが響き始めた。

「…ナ、ゼ…」

 次は織史が戸惑う番である。

「…なぜ、我の術に掛からぬ…」

 次第に霄雲の身体が歪み、崩れ、そして人影を捻じ曲げるようにしてその姿は別のものへと変化する。

 鋭く伸びた緑の爪。針のように真っ直ぐな白い髪。そして耳の辺りかは飛び魚のヒレのようなものが生えており、背には蜻蛉のような双翅が見える。悩ましげに細められた目は、深い青色をして織史の姿を捕らえた。

「お前、何故我の術にかからぬ。人間ではないのか?」

 苦悶に歪められた眉根と額に白い指を這わせながら睨み付けてくる。

 何故、この人物―“人”であるとは思えないその姿が霄雲に見えたのか織史には判らなかったが、どうやら“術”で姿を変えていたようだということは解った。そして自分にその術が完全には掛からなかったということも。

「…まあ良い。せめて最期の夢は望むものをと思ったが、どちらにせよ死ぬことは変わらぬ。さあ娘。その甘美な肉体を我に捧げよ!」

 その鋭い爪が自分に伸びてきても、何故か織史は眼を閉じることができなかった。

 恐怖からでも、一瞬のことに対応できなかったからでもない。ただその切っ先を見詰め続ける。それが、自分の望みを叶えてくれるものであるように。

 呼吸は、驚くほど穏やかだ。音も無い。あまりの静寂に、思い出したくないものまで見えてくる。それを打ち消すかのように、目の前の一点を見詰める。

 鋭く、眼にも鮮やかな緑色。

 それだけを見詰める。



「悪いが、この方は返していただく」

 突然、織史の眼前に影が過ぎる。

 白に近い灰色の髪に紺青の結び紐を巻き、一つに結い上げてた後姿からでは、性別の判断をしかねたが、その背の向こうに視線を向ける前に、織史の身体は横から抱えられてその場から離れた。

 遠ざかる景色の隅に対峙する人影が見えたが、すぐに緑に覆われてしまい、気が付くと織史は池の畔に連れてこられていた。

「お怪我はございませんか?」

 声の主にふわりと草むらに下ろされ、織史は顔を上げた。

 見ると赤茶色の長い髪をした人物がそこに立っている。

「…ああ、失礼致しました。お声が出ないのでしたね…」

 戸惑いを浮かべる声は甘い低音。思案するように小首を傾げる姿は少女のようだ。

「私共はセイシンコウ様と霄雲様の部下でございます。ご安心ください」

 柔らかく微笑みながら挨拶をし、少女は背に担いでいた荷を解き始める。

 セイシンコウとは確か、龐公のことだ。朱妃がそう呼んでいたのを思い出す。

 そして織史の心臓はドクリと脈打った。

――今度こそ、自分はあの人に殺される。人を殺めた罪で、処刑という形で――

「……申し訳ございませんが、少しの間この場を離れますゆえ、どうかその身の血糊を洗い流してもらえませんか?」

 おずおずと織史の前に包みを置くと、少女は言った。中身は水色と藍染の衣だ。

 織史が頷きを返と少女はその場を離れ、葉が揺れる音だけが残った。

 身に着けていたものの帯を解き、池の淵に屈む。

 季節はまだ水浴びを平気でできるほど暑くは無く、急に飛び込めるほど織史自身にも気力がない。

 足を浸すとヒンヤリとした冷気を感じたが、すぐにそれは和らぎ、温みさえ感じる。不思議に思ったが、今はその水温がありがたい。とにかく急ぎ脚や腕、顔に付着した獣の血を洗わなければならない。

 水面に映った自分の顔を見て、織史は嫌悪の色を隠せなかった。何よりも、血や泥に塗れてもなおギラリと光る眼が、自分こそ異形の獣だとでも言っているかのようで、見るに耐えなかった。

 そして、最後に用意されていた衣の袖に腕を通すと、織史は深く息を吐いた。

――こっちの世界では、死に装束はあるのだろうか…――

 ふと、そんな考えが脳裏を過ぎり、思わず笑いが込み上がる。

 先刻は獣に殺されるのを恐れて剣を振り、自分を狙った人間を殺めた。その行為に恐れを抱いて逃げ出したが、結局は死に切れず助けられた。今の自分に感じるものは、呆れと侮蔑ばかりだ。

 風に揺れる水面を眺めながら、織史はあることを思い出した。

――そういえばさっきの人が“最期の夢は望むもの”とか言っていた。どうしてあんなこと…――

 織史が思案していると、葉擦れの音と共に一人の人物が草むらに飛んできた。

 文字通りその人物は枝から跳び下りた様子で、衣服に付いた木の葉を払いながら立ち上がった。

 一瞬驚きはしたが、見ると先程割り入った灰色の髪を持つ人物である。一見男性のように思われたが、面立ちとしなやかに伸びた手足や体付きは女性のようだ。

 それにしても、この人物の髪は溜息が漏れるほど美しく、風に靡く様に見惚れてしまう。絹糸が幾筋にも連なり、高貴な織物のようだ。

「まだセイシンコウ様方は御着きでないようですね。失礼ながら、私も血を流させて頂いて宜しいですか?」

 池の側まで歩み寄り、座している織史に言葉を掛ける。抑えている右腕には、掻き傷のような爪痕と血が滲んでいた。織史が頷いて場所を空けると、軽く頭を下げて腕を水に浸す。その後姿を見て、織史は女性の腰に巻き糸が下がっていることに気付く。童話に出てくるような、糸紡ぎの山のように幾重にも巻かれた糸山が、五束。その腰には下がっている。その他には剣や槍、弓といった武器は一つも無く、ただ紡ぎ糸があるだけだ。一体どのようにしてあの場所から逃れてきたのだろうか。

「どうかされましたか?」

 織史の視線に気付き、静かに振り返る。

 慌てて首を振り、織史は再び森の方に視線を戻す。どうせ自分はこれから死ぬのに、人のことなど気にすることもないだろう。そして何よりも、頭の中で鳴り響いている“何か”の方が気になることも確かだ。

 あの剣を握ってからずっと頭の中でこだましている“声”。

 初めはただの音。そう、耳鳴りであるような気がしていた。

 次第にそれが大きくなり、何を呟くような、囁くようなものになった。

 しかしその“声”は織史があの現場から走り去る時には、消えていたように思われる。

 否、ただ織史自身がその“声”を聞き取れないほどに混乱していたに過ぎないのかもしれない。

 そしてつい先程、例の人物に助けられて池の水に触れた瞬間から、再びその声が織史の中に響いたのである。

 だが“声”や“言葉”というようにはっきりとはせず、何を囁いているのかはさっぱり判らなかった。

 断片的で、一音一音が微かにしか聴き取れない。不思議な“声”。

 けれどその音にはなぜか懐かしさに似た想いが感じられ、耳に残る。困惑に近い思いで目を閉じると、木々のざわめきと共に霄雲と龐公達がやって来た。


「ご無事でしたか」

 霄雲の言葉を聞くと、織史の心は揺れた。唇を噛み締め、込み上がる想いを抑える。

 瞳を合わせることが辛くなり、俯き加減に視線を逸らすと不安げな表情で霄雲は織史の顔を覗いた。

「どこかお怪我でも…?」

 正座した織史の前に霄雲が膝を付き、爪の間に残る血糊を一瞥する。織史は静かに首を振り、方頬を緩ませる。

 ぎこちないその微笑みに、霄雲もまた哀しげな笑みを返した。

 もう、顔を上げることはできなかった。

「娘。あの剣はどうした?」

 二人の間に上から声が掛けられた。そこには枝の合間から差し込む陽を受けて立つ龐公の姿がある。

 織史が首を振ると、訝しげに眉を寄せ、少し声音が下がる。

「…無くしたのか…?仕方ない。皆に剣を捜す旨を伝えよ」

 龐公は傍らに控えていた従者に命令を出すと馬に似た獣に跨り、座ったままで居る織史を見下ろす。

「今一度、黰宮へ戻るぞ。処遇はその後に決める」

 馬首を返して走り出した龐公を追うようにして、霄雲と共に織史は再び薫衣達の居る黰宮へと向かった。

 無心で必死に駆けた道のりは意外と長く、屋敷まで半刻ほどの時間を費やした。

 そしてその道中、獣の背には黙り込んだ織史と霄雲の姿があった。

――もう逃げる気はないのだけど……。私に信用なんてないか――

 重い空気の中で、織史はそう思った。

 チラリと霄雲の顔を見上げると、あの時のように強い眼差しが在り、自嘲気味に息を吐く。

 獣の足が土を駈る音が、ひどく耳に響いた。

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