此の身さきても(一)
「龐公様っ」
唐突に襖が開かれ、一人の男が入って来る。
見れば男の手には黒く艶光する一振りの刀剣が握られていた。
――その剣…――
剣に目を走らせた瞬間、織史の脳裏に幾つもの場面がフラッシュバックのように断続的に現れた。
黄金を基調とした装飾には、瑠璃、玻璃、螺鈿、晶石の類が散りばめられている。それぞれが眩しいほどに光輝く中で、一際目を引くのは漆黒の鞘自身だ。一見単調な黒色に見えるのだが、鋭く、そして妖しく光を放つ。周りを彩る玉石がその異様さを一層引き立て、不思議なほど艶めきを見せる。
様々な角度から、様々な距離で写し出された写真のように、それは浮かんでは消えていく。そして脊髄に電流プラグを差し込まれたかのように、鋭い痛みが全身を駆け抜けた。
“――の剣を…なしては…――…決して…放しては…らぬ…――”
“私は、貴女様に付き従います。必ずお役に立ってみせます…。どうか私を――の剣と共にお連れ下さいませ。このルリを…――”
――ルリ……? 誰。この声は一体、誰?――
視界が激痛に呑み込まれ、意識が朦朧とする中で織史は再びあの“声”を聞いた。
断片的で何を言っているのか解り難かったが、とても重要な何かであった気がする。
そしてもう一つ、少女の声が頭の中に響いた。聞き覚えのある、愛らしい声音。しかし何処で――
織史は床に着いた掌を握り締め、消え行こうとする意識を必死に繋ぎ止めようとした。
ここで気を失う訳にはいかないのだと、強く思う。倒れてしまったら、妖として龐公たちに始末されてもおかしくないのだ。死ぬことが怖い訳ではないが、死ぬことで、とても大切な何かを失ってしまう想いに駆られた。
「控えよっ!」
突然辺りに鋭い声が響き渡った。
「南帝が妃、朱妃様の御前なるぞ。控えよ!」
再び空を割くように発せられた言葉に、廊下や庭先に居た者達は慌てて跪き、両手を地に着いて叩頭する。
霄雲もそれに続き、膝を折った。けれど唯一人、龐公だけはその場に憮然として立ち続け、声のした方を睨み据えている。
微かな衣擦れの音と、シャラン、シャランと金属の重なり合う音がゆっくりと近付き、目線を上げると障子戸に数人の人影が映る。戸が開かれると薫衣の姿が見えた。
続いて入って来た人物は、髪を高く結い上げた女性に手を引かれた、波打つように揺れる長い髪の女性だ。
「御久し振りで御座います。セイシンコウ殿」
その女性は龐公に向かって頭を下げながら挨拶した。と言っても、簪や玉飾りを付けているためか、膝を曲げた会釈のような礼である。
しかしその動きは何とも優雅で、気高さを感じさせるものであった。
それに対して龐公は、不機嫌さに眉根を寄せたままの表情を返す。
「お元気そうで何より。こちらにどのような御用かは存知ないが、見ての通り今は取り込んで居る。挨拶は後にしていただきたいのだが?」
「御心配には及びません。私は貴殿に御用があるのではなく、そちらの娘に用があるのです」
「この娘に?」
「然様ですわ。私は叶君に頼まれて、その娘を診に参ったのです」
より一層眉間に皺を刻む龐公を他所に、その女性は織史の前に腰を下ろした。
織史は苦痛に耐えながらその顔を上げて、女性を見た。
近くで見ると、女性の髪は夕焼け空のように赤く、黄金の簪が見事な色合いを放っている。そして自分の顔を覗き込むその瞳は、黄金の光を帯びた夕日のように紅く、優しく揺らめいている。
「――確かに、叶君のお話しの通り、この娘は呪をかけられているようですわね」
「呪だと?」
「はい。その呪によって、声と記憶を封じられておられますわ」
「だから自分の正体も忘れているのか。とんだ妖物だな」
「正体とは、一体どなたの正体ですか?」
せせら笑うように織史を見下ろす龐公の言葉に、目の前の女性は小首を傾げた。
「この娘の正体に決まっておろう。呪によってとはいえ、何ともまぬけなものだ」
「この娘が、妖物?」
「いかにも。先刻、その証をこの目で確かめさせてもらった」
「それはおかしなことで御座いますわね。この娘からは妖気など少しも感じられませんわよ」
「それは織史殿が人間であるということですか、朱妃殿?」
二人の間に霄雲が割って入る。朱妃と呼ばれたその女性は、霄雲を一瞥して再び織史に向き直ると、穏やかな口調で答える。
「人間であるかどうかは断言できませんわ。この部屋には神氣が満ちていて、人間の氣など薄過ぎて呑み込まれておりますもの」
微かに笑みを浮かべると、朱妃は織史の手を取った。
「あなたの声を取り戻すためには、部屋を移っていただきますわ。心の底からご自分の声を取り戻したいと願うならば、私についていらして」
朱妃は静かに立ち上がり、織史を見た。
龐公と同様に何を考えているのかわからない眼と、柔らかく微笑むその深い表情に、織史は一瞬だけ戸惑う。
本当に自分の声を取り戻せるのだろうか。けれど今はどんな可能性にも縋りたいのだと、頭の中で声がする。現状の打破は、自分が強く願っていたことだろうと、背中を押してくる。
織史は見えない何かに引かれるように、立ち上がった。
朱妃に従い、通された部屋は床一面に墨字で陣が描かれている場所で、中央と壁際にだけ、ぼんやりと蝋燭の明かりが浮かんでいた。
室内に一歩足を踏み入れると身体中をゾクリと何かが駆け巡った。血流とも違うその感触は、不快以外の何物でもないのだが、初めてのものではない感じがする。
まだ頭痛と気だるさの残る体で、織史は朱妃の言葉に従い円陣の中央に座る。
「少し、苦痛を感じるかもしれませんが、気を楽にしてお待ちくださいませ」
織史が頷きを返すと、朱妃は何やら不思議な音の羅列をその口から紡ぎ出し始めた。
鈴のように感じた声が今は灼熱の気体となって体に染み込んでくる。同時に、身体の内で何かがざわつき始めた。それが何なのか織史には判らない。けれどゾワゾワと肉体の内側で駆け回るそれに対し、次第に織史は別の感じを覚えた。初めは自分のものと感じていたモノが分離し、引き剥がされたような、そんな感覚だ。
織史の頬を汗が伝い、滴る。気付けば渇いた喉を鳴らして、全身を打ち震わせている。
そして朱妃が最後の言葉と印を結ぶと、織史の体は跳ねるように起き、腹の中心から黒い塊が飛び出した。
ビチャリと湿った音を立てて、それらは一塊になって床に倒れ着く。そして織史もまた、その場に倒れ込んだ。
「織史殿っ」
霄雲が陣内に入り、織史の身体を抱き起こす。その腕の中で織史は、消え行く意識の片隅で自分の身から吐き出された黒い獣の塊を、視界の隅に捕らえていた。
――私の ――
「ご加減はいかがでして?」
甘く囁くような朱妃の声で目が覚めた。
見ると、薫衣と霄雲の顔が側にある。そして金の簪を挿した朱妃の姿。天井も御簾も、もう見慣れた物である。
一瞬だけ、全てが夢で目を開けると元居た世界が在るのではないかと思っていた。
「――まだご無理はなされず、お休みください」
起き上がりかけた織史に、霄雲が声を掛ける。心配そうに曇らせた顔が、目に入った。
その言葉に織史は再び横になり、辺りを見回す。瞳を巡らせるその様子を見て取り、霄雲が優しく語りかけた。どうやら、織史が自分から生み出されたあの獣を気に掛けているものだと思ったらしい。
「あれは、黒狻猊の仔どもでした」
織史は、体内に三頭の黒狻猊の仔を宿していたらしい。
何故黒狻猊が居たのかまだ明らかではないが、その影響を朱妃から聞かされた。
獣の仔が居たために、傷口が塞がり治りが早く、ものの気配に敏感であったりするという妖獣の特性が現れていたらしい。何時ぞやの夜のことを思い出して、織史はそういうものなのかと静かに受け止めた。
しかし、抜け出た今も、織史の声はまだ戻っていない。
朱妃は声に関しては必ず戻ると言ったが、何時とは断言できなかった。
室内に重い空気が漂い始めた頃、数人の侍女と共に龐公が姿を見せた。縹色の織物を召し、飴色の髪を煌めかせて相変わらず澄んだ青い瞳で織史を見る。
「気がついたようだな。記憶はどうだ。戻ったのか?」
「まったく…。女子の部屋にずかずかと踏み入り、そして病み上がりの者に掛ける第一声がそれとは…。これがセイシンコウのなさる事かっ」
嘆かわしいと、眉根を寄せて朱妃が声を荒げる。しかし龐公は飄々とした体でその場に腰を下ろす。
「これは失礼した。朱妃殿はまだこちらに居られたのであったか。しかし事態は急を要するのだ。で、どうなんだ?」
「声が戻っておりませんので、今は何とも申せませんわ」
「何だと? 声を戻す為に参ったのではなかったのか?」
龐公の強い物言いに、朱妃は眉をピクリと動かし、手にしていた扇を音を立てて閉じる。その様子に薫衣は視線を逸らし、霄雲は慌てて口を開いた。
「ほ、龐公殿。先程表が騒がしかったようですが、何かあったのですか?」
「あぁ。賊がうろついておってな」
溜息混じりにそう答えると、龐公は侍女に持たせていた剣を取り、織史の前に差し出す。
「娘。この剣に見覚えがあるようだったな。これはお前の剣か?」
厳しく問いただす視線を向けられ、織史は首を振った。
確かに見たことはあった気がする。その剣を目にした時見えた映像は、きっと自分の記憶だ。今は失っている、誰かと会っていた部分の記憶。ルリと名乗った少女と、大地を響かせるような“声”の存在が自分に話し掛けていた。その時に剣の姿を見た気がする。
――剣がどうのって言っていたけど、この剣のこと…?――
だが自分のものではないだろう。この剣はおそらくあの“声”の主のもの。織史はそう思った。
「では、この剣をどこで見た。誰が持っていた?」
この問いに関しても、織史には答えることができなかった。
「記憶は…まだ戻っておらぬようだな」
龐公は重く息を吐き、短い挨拶を残して部屋を後にした。その後を追うように、薫衣を連れて朱妃も出て行き、室内には織史と霄雲のふたりだけとなる。
織史は獣のことが気になったが、どう表現すればよいのか分からず、かと言って眠る気にもなれずに天井に視線を泳がせていた。すると霄雲が口を開いた。
「織史殿。もしよかったら、また街へ行かれませんか? 勿論、体調が戻られて、気分が良くなったら……」
――街…――
先日赴いた街の風景が脳裏に浮かび、同時に華星のことが思い起こされる。
胸が痛んだが、織史は霄雲に微笑みを浮かべて頷いて見せる。その様子に霄雲は心を弾ませ、少年らしい明るい笑顔を見せた。
「五日も眠り続けていましたから、少しは体を動かした方が良いでしょう」
――五日……。あれからもう、五日も経っているの――
霄雲の言葉に驚きもしたが、自分の身体が鈍く感じるのは疲れだけではなかったのだと少々納得した。しばらく動かさなかったために、感覚に違和感が生じているのだろう。
織史は身体から時の経過を感じると共に、黰宮の人達にも、霄雲や朱妃、龐公にもどれほどの迷惑を掛けてしまったことかと、詫びる気持ちでいっぱいになった。
自分は何も変わっていない。あの頃から少しも。他人に負ぶさり、縋り、そして自分はのうのうと生きる。まるで寄生虫のようだ。
織史は自嘲し、瞳を閉じる。そして脳裏に響くのは自分を侮蔑する言葉ばかり。
どうしてこれ程までに“自分”を弱く思い、そして蔑むのか。
狂気にも似たその念いは、誰にも解らなかった。
だが確かに、織史を蝕み侵食していくものであった。