縺れた羽(二)
霄雲に連れられて乗り込んだ帰りの馬車でも、織史は華星をその手で温め続けていた。
何度、霄雲が慰めの言葉を掛けて止めようとしても、織史は決して華星の亡骸を離そうとはしなかった。
涙は枯れたように流れず、ただずっと包み続けているだけ。
黰宮に着いた後もずっと、部屋の片隅で華星を抱き続ける織史の姿に見兼ねた薫衣がその晩、織史を外に連れ出した。
織史は訳もわからぬまま薫衣に続き、裏の森の奥深くまで歩いて行く。日は既に入り、辺り一面は闇と化している。薫衣の持つ手持ち燈篭の明かりだけが、ほんのりとゆらめいていた。
木々と草叢の中を進んで行ったその先に、開けた場所が見えた。
「……この場所は、精霊の眠る場所と云われております」
薫衣がゆっくりと口を開いた。
「いつまでもそのままでは、華星も安らかにはなれますまい。この地に還し、再び新しい生命を受けることこそ、幸せではございませぬか?」
織史は手元の華星に眼を移し、微かに頷く。
一度命を絶った者が、再び息を吹き返すことなどあり得ないと、自分のいた世界で嫌というほど解っている。認めたくないと強く願っても、叶えられない現実。それを頭は残酷なほど理解している。だから、薫衣の言葉に従ったのだ。
月明かりに照らし出されたその場所に、穴を掘った。
素手を通して伝わる土の感触は、どこか懐かしさを含んでいる。
――ごめんなさい。華星――
滲む視界の中で、織史は華星に別れを告げる。穴に入れた華星の軀に、一滴の涙が零れた。その瞬間――
「どうか悲しまないでくださいませ。涙は眼に毒で御座います」
鈴の音に似た愛らしい声と共に童女の姿が現れ、目の前で微笑んでいる。身体の中心から光を放つような輝きに包まれたその童女は、碧と翠の衣を身に纏っていた。
「死ぬ運命にあった私を、貴女様は助けて下さいました。私は微力では御座いましたが、貴女様のお力になれて本望で御座います。ですからどうか、お泣きにならないで下さいませ」
童女はそう言って、袖口で織史の頬から目元を拭う。真綿のような、羽毛のような感触だ。
「貴女様の記憶が戻らぬうちに、お側を離れることとなってしまい申し訳御座いません。…お早く、記憶を取り戻されることに重ね、貴女様の道に幸多からんことを願っております。どうかあの御方のもとへお急ぎ下さいませ。…あの御方をお救い…できますのは…貴方様を置いて他にはおりません…。ですから…どうかお早く…」
童女の身体から無数の光が放たれ、その姿を覆っていく。声も薄れ、言葉が聞き取れない。微かに動いたその口は風に掻き消されてしまう。そして童女の身体も、風に舞う星砂のように崩れ、飛び去ってしまった。
織史は言葉を失う。困惑と動揺、そして様々な想いが混ざり合い、眩暈を起こす。
「久し振りに視せてもらったぞ、氣精霊の姿」
倒れかけた織史の体を背後から支える力強い腕が呟いた。その声は、昼間に聞いた声と同じものである。脳髄に響く男の甘い声音。振り向くとやはり、飴色に輝く髪が目に入った。
「龐公殿。いつからそちらに?」
穏やかな声で薫衣がその人物の名を呼ぶ。
改めて見ると、今朝方、間近で目にした美しく整った顔がそこにある。切れ長の青く澄んだ瞳の持ち主は、織史を視界の隅に捕らえて眼を細める。
「この娘に用があってな。しかし、わざわざ出向いた甲斐があった。万物の魂とも言える氣精霊の姿を眼にすることができたのだからな」
――キセイレイ? 万物の魂? それじゃあれは、やっぱり華星の姿なの……?――
「さて、もう此処での用は済んだのであろう。屋敷に戻っていただこう」
言いながら龐公は織史の体を抱え上げようとしたが、織史は地に足を着き、自ら歩くことを主張した。
織史の態度に、龐公は眉を上げて軽く口の端を緩める。その表情が何かを企むようなものに見え、織史は引き上げた衣の裾を握り締めていた。
――この人は、油断できない――
朝のこともそうだが、心の奥まで見透かすように光る瞳と、薫衣や霄雲、叶君とも違った氣を放つ龐公に、織史は警戒心にも似た感情を持っていた。そのため、屋敷への道中でも龐公から距離を取って歩いていた。
屋敷に着くとすぐさま織史は奥の部屋へと案内され、通されたその一室には霄雲の姿があった。
「お前、字は書けるか?」
前を歩いていた龐公が、霄雲の前に用意されている文机を指しながら言った。
織史は勿論とでも言うように頷き、文机の前に腰を下ろす。用意されていた一本の小筆を手に取り、反物のように巻かれた紙を前にする。書道の経験はある。服装や霄雲に教えてもらった文字からすれば、自分の言葉が通じるとも考えられる。
織史は密やかに息を吐いて龐公の言葉を待った。
「昼間、街で会った男達を知っているか?」
てっきり自分のことを聞かれると思っていたため少し驚いたが、織史はゆっくりと首を振る。
「だがあの男達は以前、お前と会ったことがあると言っていた。本当に知らないのか?」
顔を上げて龐公の瞳を見返しながら、織史は頷いた。
宙吊りにされていた男も自分を見たことがあると言っていたが、何度思い返しても記憶には無い顔だった。
「では、お前が此処に来る前……そうだな、八日ほど前まで、お前は何処で暮らしていた。親や家族は?」
――ここへ来る前は、日本で暮らしていた。――
硬筆に慣れた手ではあまり上手く書けなかったが、質問の答えを記して見せる。
霄雲がそれを取り、読み上げようとする。
しかしその口からは意外と言うべきか、それともやはりと言うべきか、織史の書いた文字が読み上げられることはなかった。
「確かに文字は書けるようですが、我々の識るところの文字とは違うようです」
「仕方ない。筆談は諦めよう」
言葉とは裏腹に、龐公声は落ち着き払っている。
やはり、自分がこの世界の者ではないことに気付いているのだろうかと、織史は心内で呟く。
「次の質問だが、これに見覚えはあるな?」
龐公は脇に置かれていた箱の一つを紐解き、織史の前に広げて見せる。織史はそれを凝視し、静かに頷いた。
確かに見覚えはある。所々が裂け、黒いシミのようなものが付いてはいるが、それらを除けば見慣れた衣服の形が浮かんでくる。黒のブラウスに濃緑のベストとチェックのプリーツスカート。自分の高校の制服だ。
「これは、叶と薫衣が七日前――つまり、お前を発見した折にお前が身に纏っていたものらしい」
食い入るように見詰めている織史に、龐公は笑みを含んだ声で続ける。
「その黒い跡は、血だ」
――血…?――
言われて、もう一度そのシミを見ると乾いた血の痕に見えなくも無い。けれど、織史は納得できるものではなかった。否、納得したくないと頭の奥で何かが囁き続けていた。
これが何を意味するのか。龐公が何を云わんとしているのか。ソレは解っていたのかもしれない。
「これは間違いなく血の痕だ。薫衣たちがそう証言している」
裏付けるように薫衣の名を出す龐公の声は、どこか嬉々としている。
「女官たちの話によれば、お前はおびただしい血に塗れていたそうだ。それには納得も行く。お前が倒れていた森…カンシと云うのだが、その森には多くの獣が棲みついている。昼間であっても常人は近付かぬほどだ。夜など無防備に近付けば森に引き込まれ、命を失くす。問題は、そこでお前は助かったことだ」
龐公が立ち上がり、織史の横に屈む。
嗅ぎ慣れた甘い香りが鼻先を流れ、冷ややかな澄んだ香りに変わった。
「腕や脚、腹部や背中、頬、首筋に至るまで、掻き傷が負われていた。それでもお前は助かった」
袖口から出した蝙蝠扇の先を織史の手先に降ろし、不意に広げる。
そしてその手で織史の髪を払い除けるように振り切った。
あまりの勢いに空を切る音が響き、織史は目を閉じて顔をそむけた。
「龐公殿っ?!」
突然の出来事に霄雲が声を上げる。
露わになった織史の頬に、朱が一閃、燈篭の明かりに照らし出された。
赫い、玉のような雫が白い頬に浮かび上がり、艶めいた光を放つ。
「龐公殿、何をなさるのですかっ!」
「まぁ待て霄雲。これくらいの傷、この娘には何とも無いようだ」
駆け寄ろうとした霄雲を止め、龐公は楽しげに答える。
その言葉に苛立ちを覚えながらも、織史は自分の頬に手を伸ばしたその瞬間、指先に何やら温かくふわふわとした感触を覚えた。
「見ろ、もう跡形も無い」
龐公の傍らで、霄雲が驚きに表情を固めている。しかし当の本人もまた、その言葉に驚愕の色を見せていた。
手を視界に戻してみれば、薄く血の跡が付いている。けれど頬には痛みも、傷口に感じる熱も何もかもが消えていた。もう一度、傷が付いたであろう辺りに手を伸ばしてみるが、ただ自分の素肌が広がるばかり。血の一滴すらも指に触れることはない。
「もう良いだろう。そろそろ正体を明かせ、妖物よ」
――妖物って…。私が妖怪だって言いたいの!?――
龐公の物言いに織史は立ち上がり、声の出ないことも忘れて抗議の態度を示す。
――私が妖怪ですって? 失礼にも程があるっ。私から言わせれば、よっぽどアンタ達の方がおかしいわっ!――