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黒鶺鴒  作者: 美紅
20/20

「確か、朱妃殿とは面識があるのだろ? 叶君や霄雲殿からその辺りの話を受けずとも、彼女と会った折に説明は……受けなかったのだな、その様子じゃ」

 瞬きも忘れて自分を見詰めている織史に、薫水は窺うように言葉を掛けたが、自分の予想がその姿から否定されて気の毒そうに溜め息を吐いた。

 さすがのキツネも失笑気味で、何も口にしていない。

 だがそれは当の織史だって同じだ。むしろ眩暈がしそうだ。

 確かに、朱妃が叶君の依頼で自分と対面した時に、「南帝が妃」とかいう言葉を耳にした気がする。その時の龐公らの態度があまりすぎて記憶の奥底においやられていたけれど。

 その朱妃に対して鷹揚な態度を取っていた龐公の姿を思えば、それなりの地位にある人物だと察しはつく。だがまさか、“神”の位だなどとは微塵も考えていなかった。確かに、思い返せば言われてみればその手の要素はたくさんあるが、それでもまさか“神”とは予想外で、言葉が出なかった。

 薫水は「仕方ない」と僅かに眉根を寄せてお茶を一口飲むと、織史の肩に手を置いた。

「まぁ…あの二人や叶君はともかく、朱妃殿に関しては知っておいた方が良いだろうから、簡単に説明しよう。彼女はその名の通り、朱帝――南帝と呼ばれる南大土の皇帝妃だ。元々は、以前に少し触れたと思うが、朱姫シュキと呼ばれて皇帝の娘御だった。私たちが出会ったのはその頃だから、今でも朱姫殿とお呼びしてしまうことがあるが、これは一種の号らしい。皇帝はその名の前に治める大土、もしくは色を付けて称され、妃も同様に称される。在任中の子どもは、娘の場合は“姫”で息子は“皇子みこ”と呼ばれるのが通例らしい。ただ、皇太子という存在がないため、皇子は幼名で呼ばれることが殆どらしい。そうだったな、キツネ?」

「ああ。皇帝はその大土に坐す主神が任命するものだからな、世襲制ではないためにその血縁者も他の民と同様という訳だ。だが、娘御に関しては政治的な利用を避けるために、親が任期中は名を隠されているのが普通だ。かくいう朱妃殿も、我らが出会った折には仮の名を名乗っておった」

「勿論、例外はある。敢えて名を明かし、皇帝からの庇護を否定する者もいるし、またその逆も然り」

「皇子にしても、幼名ではなく別名を付けて皇族位とは別に自身の職務を持つ者もいるしな。兄弟姉妹などは特にそのような体裁を取っている場合が多い」

「まあ、簡単に言ってしまえば親の七光りを利用する人間は少なく、単純に実力主義の地位らしい。人物相関に関してはまた追々話してやる。朱妃殿にしたって、その身分をひけらかすような方ではないし、此処へ来られるのもお忍びだから、そう畏まる必要はない」

「確かにな。今夜は特に、東の者がいるから堅苦しさを嫌がるであろう」

 キツネが付け足すと、薫水も頷きながら「安心しろ」と続けた。

 どうして東の者がいると気にしないのかは気に掛かったけれど、織史は既に顔色を変えていた。

 龐公の正体だけでも畏れ多いというのに、朱妃ほどの大それた人物にまで会っていたなんて、考えただけでも卒倒しそうになる。あれだけ気さくに接していたから、確かに気品や威厳のようなものを感じはしていたが、これほどまでとは思いもよらなかったのだ。

「…おい、織史。大丈夫か?」

 一気に話を聞いた所為か、頭がぼうっとし始める。それを認めた薫水が声を掛けるが、勿論返答はない。

 織史は頭から湯気でも出そうな状態で、何とか頷こうとは思っていたが、結局そのまま前のめりに卓の上に倒れこんだ。


 自室に運ばれた織史は、その後暫く寝台の上で苦しそうに眉間に縦皺を刻んでいた。

 同じ頃、突然倒れた織史を心配して霄雲と例の少年が部屋の前に訪れた際、同じく通り掛っていた龐公が「貴殿の職務怠慢がゆえだ」と薫水に冷めた視線を向けられて、さらにそこから白熱した口論に発展したことは、言うまでもない。

 そして日が入る頃、南帝の妃である朱妃が華殿に到着し、織史は蝉舞によって仕上げられた正装で、朱妃と対面した。

「お久しぶりでございますわね。ご加減はいかがでして?」

「ヨシトキ殿。まだ声は戻っておりません」

 返答に戸惑っていると、横から薫水が声を掛けた。

「まぁ。ですが、私が診たところでは、もう治る筈ですわ。それに、以前よりもお顔の色も優れていらっしゃるようですし、安心しましたわ」

 朱妃は艶やかに微笑み、薫水たちと共に宮殿の奥へと入って行く。

 その背を見送っていると、不意に背後から溜息が聞こえた。

 驚きながら振り返ると、同じく朱妃の向かった先に視線を流しているキツネの姿が在る。

「あれは当分、薫水のことを放さぬな…」

 ポツリと呟かれた言葉に首を傾げていると、目の前の織史に気付いたキツネは苦笑いを浮かべた。

「さて、庭園にでも行かぬか。池の東屋で月見酒も良いだろう」

 良いながらキツネは織史の腕を掴み、薫水たちとは逆の道へと向かい始めた。

 庭に着くと、早速酒の用意を持ってこさせてキツネは直ぐに一杯目の杯を空ける。

 ぼんやりと漂う月と水面に浮かぶ月影。二つの月に照らされて、溜息が漏れるほどの姿を見せる月桂樹の木々。紺青の空には踊るような旋律を奏でる星々が煌き、全てが絵画的で動画的な美しさだ。

 そして何よりも、杯を片手に月光を受けるキツネの姿は魅惑的で幻想的である。

 横目に何度もその様子を窺ってしまうのは、キツネの妖術にでもかかってしまったのだろう。どんなに止めようと思っても、キツネに向いてしまう自分の視線は、そうとしか思えない。

 やがて織史の眼に気付いたのか、キツネがその白銀の瞳を織史に向けた。

 まるで夜空を支配する満月がそのまま見る者を射抜くように、キツネの瞳は織史の姿をその内に捕らえている。そして艶やかに微笑まれると、心を奪われてしまったかのように、身動きが取れなくなった。

 頬が紅潮していくのがわかる。

 先程手渡された杯を持つ手がどこか危うく、震えているように感じる。

 こんなにも美しい人であっただろうか。

 織史は微かな眩暈を覚えていた。

「どうしたのだ。さぁ、もっと飲め。お主のは果実酒だ。薫水にも気兼ねはいらぬだろう」

 言いながら、まだ半分以上も残っている杯に、織史用にと用意させた橙色の徳利から林檎酒を注ぐ。

 なみなみと注がれた杯に唇を寄せて、言われるままに飲むとやはりアルコール特有の香りと苦味が広がり、少し気が引けた。しかし林檎のさわやかな酸味と甘さがそれを抑えてくれるお蔭で、飲むこと自身は苦に感じることは無かった。

 話をすると普段通りのキツネなのだが、月を見上げる姿は別人だ。

 不思議な魅力を放っているとは思っていたが見れば見るほど、考えれば考えるほど、その奥深い美しさに心を奪われていく。

 叶君や朱妃が持つ美しさとも、宮中の女性たちのそれとも、勿論龐公の放つ絢爛たる美しさとも異なり、強いて挙げれば妖艶という言葉が合うのだろうが、何かが違うようにおも思える。

 そう思案していると、次第に自分がここに居て良いのだろうかと不安に思えてきた。

 目に入る景色も、夜風に流れる花の香りも、傍らに座す麗人も、自分では不似合いな気がして息苦しささえ覚える。どうにかして、この場を離れようかと思い始めると、唐突にキツネが立ち上がった。

「酒が切れた。少し行ってこよう」

 ほろ酔い状態でキツネは短くそう告げると、一人建物の中へと入って行く。

 その背中を見送り、織史は再び景色に視線を投げる。

 先刻までと変わらぬ月と樹林の姿。ただキツネが居なくなっただけで、こうも見方が変わるのかと思うほど、その景色は違って見えた。

 織史は静かに喉を潤す。少し、苦味を感じた。

――もう、慣れたと思っていたのに――

 ある一点に意識が向けられ、織史の表情に影が掛かる。

――……――

 ポツリと口先から零れたのはある人を想う言の葉。呼んでも、届くことなど無いと知っているのに、何も変わらないと解っているのに。

 あの頃は、家族を始め人が居ることが当たり前すぎていた。そして一歩踏み出した、全てから離れた世界は新鮮で、明るくて、自由に見えた。けれど知ったのは汚さと嫌悪の塊だった。そして略奪という名の喪失。それが自分に突き刺さり、悲しくて、どうにかして逃れたかった。これ以上の苦痛は無いというくらい、全てが辛く思えた。

 しかし存在するかしないかという次元での“離れ”はある感情に気付かせた。

 全てを失ってから、人を失ってから気付いた感情は、鋭利に心を攻め立てる。

 膝を抱えて、織史は顔を埋めていく。

「織史殿?」

 不意に声を掛けられ、織史はビクリと肩を震わせた。

 振り返るとそこには霄雲の姿。手には金細工の鳥籠を持ち、織史の反応に少し戸惑っている。

「どうかしましたか…?」

 ただ驚いただけなのだと首を振ると、霄雲は安堵しながら隣に腰を下ろした。

 霄雲も朱妃に会うためなのだろう。昼間見たときよりも、正装と呼ぶに相応しい服装を身に纏っている。

 格好に拘らず、いつも気品を持ち得ているために、どんな衣服であっても霄雲への見方は変わらないのだが、やはりそれなりの格好をするとどこか違った印象を受ける。勿論、それは全く悪いものではなく、とても気持ちの好いものだった。

 きっとそれは、立ち居振る舞いにその意識が感じられるからだろう。現に今も、何気なく帯や裾を払いしなやかに座すその姿が、慣れたものに見られた。

 その視線を受けた霄雲は、織史の関心が鳥籠にあると思い、口を開いた。

「この鳥籠のことですか? 先程、東宮庭に伝書を飛ばしたものですから。流石、華殿の物ですよね」

 きっと、伝書用の鳥のことであろう。同時に先刻霄雲と龐公が何かをしたためていたのを思い出す。

 見ると伝書鳥の鳥籠というよりも、ただそれだけで鑑賞に堪えるような見事な細工の施された鳥籠である。針金のように細い筋が花や葉、蔓を象り美しい曲線を描いている。そして取手部分には蝶を模した銀細工が、まるで鳥籠という花に止まっているかのように飾られている。以前に見た、霄雲の宮にある鳥籠も煌びやかで豪華な代物であったが、これもまた意匠を凝らした物だ。

 織史は霄雲の言葉に頷きを返し、目を細めた。

「織史殿は、こちらで何を?」

 問われて、手元にある杯を軽く上げて見せる。

「お月見…ですか? 確かに、今宵の月も綺麗ですね」

 夜空を見上げて霄雲は息を吐くように言葉を口にした。

 たなびく雲が月影を時折覆う様もまた風情があって、織史も霄雲も自然と口許が緩む。ほんの微かに流れる甘い花の香りが一層二人の間を近くするようで、言葉を交わす必要などなくなる。

 織史は先程まで抱えていた心の靄が薄れていくのを感じ、素直に夜空を見上げる。

「あの、織史殿。あまりご自分を追い詰める必要はないですよ」

 少しして、霄雲が申し難そうに口を開いた。

「声が戻らないことも、記憶が曖昧であることも……。あまり気にしすぎると、かえって良くないと思いますし」

 霄雲が何を言いたいのかは雰囲気で解することができた。

 織史は慌てて霄雲の顔を見て、首を振る。

 確かに、それらのことが織史自身を自責の念に引きずり込むこともあるが、今はそのことを考えていた訳ではない。むしろ忘れてしまっていたくらいだ。

 霄雲の心遣いは嬉しいが、それ以上に自分の不甲斐なさを感じてしまう。

 しかし霄雲はそんな織史の態度を、謙虚さの表れと思い、一層心を砕く。

「良いですよ、隠さなくても。黰宮の頃も、宮へお呼びした頃も、貴女は変わりませんでした。どこかずっと、ご自分を責め続けているように見えました。つい先程の貴女のように……」

 向けられた視線に、織史は戸惑う。その眼が自分の内なるものに注がれているようで、胸が高鳴った。

 霄雲の眼が、強く優しく自分を温めていくような感じがあった。

 同情ではなく、霄雲自身の静かな心が真実に見えて、織史は目頭が熱くなる。泣いてなどしまったら、また霄雲は困ってしまうだろう。そんなことでは不甲斐なさ過ぎる。

 いつまでも守ってもらえると、勘違いしてしまう自分を抑えるように、織史は涙を耐える。

 しかしこんな時にどんな表情を見せれば良いのか分からず、結局俯いてしまう。

 ふわりと優しく、織史の肩が温かくなった。

「大丈夫ですよ」

――ありがとう――

 織史は心の内で何度も呟いた。

「貴女には、素敵な部分がちゃんとあります。現にあの三獣も、童子殿も、貴女を慕っている。あの者たちも貴女の良さを解っているんですよ。だからこそ、側に居る。その…僕もその一人なのですが…それでは足りませんか?」

 霄雲の言葉に顔を上げて織史は、赤くなって頭の後ろを掻く霄雲の眼と視線を合わせた。

 自然と頬が緩み、首を振りながら笑んでみせる。そして――

「ありがとう」

 掠れた、少し低めの声が辺りに響いた。

 霄雲にとっては初めての、織史にとっては聞き慣れた、声。

「あ…私…、声が、戻った…!」

 言い様の無い感情が湧き上がってくる。喜びなのか、懐かしさなのか、織史は涙を流していた。

 驚きに眼を見開き、次いで顔を綻ばせて霄雲は急に織史を抱き締める。

「やっと…貴女の声を聴くことができた。貴女と、話すことができるっ」

 腕に力を篭めて霄雲は織史を抱え上げる。瞳を輝かせて、もう一度強く抱き締める。

「――うぉっほん!」

 咳払いが一つ、二人を現実に引き戻した。

「声が戻ったのなら、まずすることがあるだろう」

 憮然として階の壁に凭れ、腕組みをしながらこちらを見ているのは龐公である。その言葉に霄雲は慌てて腕を解いた。

 織史はまだ覚めぬ感動から、頬を赤らめて高揚した面持ちで建物の中に向かう。

「それでは私、朱妃様にお礼を申し上げてきます」

 足早に階段を駆け上がり、童女のような笑顔を振り撒きながら龐公に一礼する。

「龐公様、色々とありがとうございました」

 そのまま奥へと消えて行く織史の背中に、霄雲が制止の声を掛けたが既に織史の耳には届かなかったようだ。

「今行かれても、朱妃殿は部屋に居られるかどうか…。おや、どうしたんですか龐公殿?」

 呆れたように呟き、階に足を掛けた霄雲の目に、龐公の姿が止まった。

 端正な顔立ちが固まり、龐公らしからぬ表情である。そしてそれが正気を取り戻すと同時に、霄雲の肩を掴む。

「決めたぞ」

「な、何をですか?」

「私は決めたぞ。良いな、霄雲」

「だから何を決めたのですか?」

「あの娘を嫁にする!」

「はいっ!?」

「私はあの娘を嫁に迎える。これで我が大土も安泰だな」

 一人で言って一人で納得し、龐公は霄雲を放した。

 次に表情を固めたのは霄雲である。面を喰らったと言うよりも、理解できずに周りの時間まで止めてしまったかのように、霄雲は動けないで居た。

「な、何を仰るのですか、龐公殿!」

 再び動けるようになった霄雲は、龐公の後を追って階を上がり、石廊下を駆けて行った。


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