縺れた羽(一)
「――死人かえ?」
沈黙を破るようにして、女性の声が耳を突いた。
「……いえ。息も脈もございまする」
別の女性の声。こちらは少し落ち着いた声。
もし。と体を軽く揺す振られて、初めて自分に声が掛けられているのだと気付いた。
重い瞼をゆっくりと押し上げると、見たことの無い顔が自分を覗き込んでいる。
僅かに瞳を巡らして周囲を見回せば、生い茂る木々と青く澄み渡った空。そして黒衣に身を包み、黒色の布で額の辺りを隠している人物が目に入った。
「もし。どうされたのです?」
肩口に手を置いた女性が目を合わせて尋ねる。
――ここは、どこ…?
そう訊こうとして、自分の声が出ないことに気付いた。
改めて理解すると喉が灼けるように痛い。息をすることさえも苦痛に感じる。乾いた唇を動かそうとしたが、それも微かに震えるだけだった。
「口が利けぬのか?」
「いえ。声が出ない様でございまする」
「……息があるのじゃ、連れて参れ」
黒衣の女性は軽く息を吐き、後ろに居た女達に言った。すると数人の影が動き、女性達が体の横に膝を着いたかと思うと、自分の体が宙に浮かぶ感覚におそわれた。人の手によるものよりも、雲にでも乗せられているかのような、そんな感じだ。
何が起きたのかと身動ぎする前に目の前の光景が流れだす。
目で追おうとしたが、くらりと意識が遠のき始めた。
吸い込まれるように再び闇の中に、沈んで行く。
(また、夢……)
夢の中で、何度もあの声を聞いた。
闇の中で独り立っている自分を見下ろす自分が居る。
立っている自分も、見ている自分も微動だにしない。
何を言っているのか、何を伝えたがっているのかは解らなかったが、ただその声があまりにも哀しく、胸を締め付けるように響いていたことだけは覚えている。
次いで覚えているのは、鼻先を通り過ぎる風に甘い匂いが混じり、でもどこか荒々しさを含んでいた空気。
――哀しい旋律。
何故かそう感じて、思った瞬間頬を熱いものが伝った。
「水を取り替えて参れ」
直ぐ側で声がした。先刻、自分を助け起こした女性と同じ声だ。
まだ重く閉じようとする瞼を抉じ開けるようにして押し上げ、瞳を巡らせる。
見たことの無い木造りの天井と、畳の匂いが鼻をついた。
「お気付きになられましたか。ご気分はいかがでございますか?」
柔らかく微笑まれ、返事をしようとしたが声が出なかった。相手はそれを察知したように頷き、また微笑む。
「今、あなたをお助けになられた御方をお連れ致します。少しお待ち下され」
言って、傍らに控えていた女官らしい少女に言付けた。
少女の大きく二つに結った髪が揺れて、甘い香が流れる。春の、花の香りに似ていた。
その少女と入れ替わるようにして、青い衣を身に纏った童女が入ってくる。
枕元に膝を付くと、手にしていた盥を置いて入り口付近にちょこんと腰を下ろす。童女からも、甘い花の香りがした。
あまりに自然な動作で気付くのが遅れたが、皆、着ている物は和装に似た前合わせの着物を幾つか重ねている。それは古典の授業で見た平安絵巻に登場する女性たちを連想させるような、十二単の形に良く似ていた。
もっとも、資料と実際に目にするのとでは感じるものが違ったが、少なくとも自分の住んでいた世界と同じ様相であることが、幾分か心を落ち着かせる。
「姫君が御着きになられました」
声がした方に顔を向けると、先程出て行った少女が床に手を付き頭を下げている。部屋に居た女性たちも道を開けるように端に避けて、手を付き頭を垂れる。
床を滑る衣擦れの音と共に、一人の少女が室内にやって来た。
掲げられていた簾を潜り側まで来た少女は、目元に黒い布を巻いて眼を覆っている。
自分を「死人か」と聞いたあの少女だ。
手も引かれずに一人で歩いて来た姿を見た後だけあって、その姿に驚く。
「声は、出るようになったかえ?」
笑みを含んだその声は、空気を突き破るように、そしてゆるやかに響く不思議な声だった。
「まだ、声は出ないようでございます。唇を動かすことも出来ますし、こちらの言っていることも分かっているようでございますれば、原因は喉の方かと」
「どれ、妾が診よう」
少女には枕元に腰を下ろすと、右手を差し出した。その手は蝋のように白く、細い。
左手で袖を押さえ、首の付け根から喉元に手をかざす。触れられたわけではないのに、その部分にひんやりと冷たい気配が感じられ動けなくなる。もとより痺れに似た感覚が全身を襲っていて動ける状態ではなかったが、針にでも押さえ付けられているようだ。
何度か首筋を往復し、少女は溜息混じりに言った。
「これは、妾には治せぬ。どうしたものか……」
手を戻しながら、白磁のような顔に思案の色を浮かべて、少女は小首を傾げる。
すると突然、廊下の外から元気な良く通る少年の声が届いた。
「キョウギミは居られますか――?」
開け放たれていた障子戸の向こうを見ると、庭から小麦色の肌に金色の髪を風に揺らしながらこちらへ向かって来る少年の姿が目に入った。
袴着のような格好だが、やはりそれもどこか見慣れない着物である。
「あれ、新入りさんですか?」
「先日、山道で見つけましての。して、そなたは何用じゃ?」
「兄上から文を預かって来ました」
「それだけではなかろう?」
「あ、お分かりになりましたか。実はこの仔の様子がおかしくて、診て頂きたいのです」
少年は腰に下げていた筒と一緒に、抱え持っていた小鳥を一羽、手に乗せて差し出した。
“キョウギミ”と呼ばれた少女は縁側に歩み出ると、ゆるやかな動きで腕を伸ばし、その小鳥に手を差し出した。布からちょこんと顔を出した小鳥の頭に、先程まで横たわる首に触れていた手が触れる。
その様子を心配そうに少年は覗き込んでいた。
「どうですか? 治りそうですか?」
「……うむ。この鳥、何処で手に入れられたのじゃ?」
「一昨日前に、西の山道で見つけました。ひどく弱っていたので連れ帰ったんですが、一向に泣き声を挙げないので心配になりまして」
「西の、山道――…」
「どうかされましたか?」
「いや。この鳥は強い瘴気に当たってしまったのじゃろう。宮の泉を飲ませておやり。二日もすれば元通りに鳴くことができよう」
少女がそう言うと、少年は顔をぱっと明るくし破顔する。本当に嬉しそうな表情だ。
小鳥に何か話し掛けている少年から、筒を受け取った少女は中から一枚の紙を取り出すと紙面に掌をかざす。
「うむ。クヌエ。妾は宮に参る」
「承知致しました。直ぐに車を用意させまする」
応えたのは枕元に座っていた女性だ。
クヌエが立ち上がり部屋を後にしようとすると、少年が不意に顔を上げて口を開く。
「宜しかったら、僕のを使って下さい。街に寄って帰るつもりなので、一人の方が楽ですから」
「左様か。では、お言葉に甘えるといたそう」
少年の申し出を受けたキョウギミは、来た時と同様に衣擦れの音と共に部屋を後にした。クヌエと他の女性たちもそれに続き出て行ってしまうと、この場には少年だけが残った。
少年はひとしきり小鳥を見終えると、縁側に身を乗り出して無造作に履物を脱ぎ、室内にやって来る。どうしたのだろうかと少年を見ていると、口の両端を上げて傍に腰を下ろす。
その時、金色に見えていた髪は明るい茶色だったのだと、見上げて知った。
「どうも、初めまして。あなたの名前は何と言うのですか?」
唐突に訊ねられ、困惑しながらも自分が声の出ないことを伝えようと手振りで表そうとする。
少年も一瞬戸惑っていたが、どうやら理解してくれたのか再び笑顔を見せた。
「早く、治ると良いですね。僕はショウウン。どうぞ宜しく」
右の掌に書かれた文字は、自分の知る漢字だった。
――霄雲。字の形からすると、どちらも空の意味を持つのだろう。少年の持つ雰囲気にとても合っている気がする。青く、澄んだ空のような印象だ。
しかしそれは、悲しみを膨らませるものでもあった。
――私は、また死に切れなかったのか――
服装は見たことの無い物ではあるが、どうやら自分の居た世界と何ら変わりは無いらしい。そう思うと、声が出ないままでも構わないという気になってきた。胸中は再び暗雲の立ち込める深い闇へと変わっていく。
「――あなたは、綺麗な星を飼っているのですね」
突然言われて、思わず聞き返すような視線を向ける。霄雲は相変わらず笑んでいる。
自分の方こそ瞳に星を宿したようにキラキラと碧い目を輝かせているのにと思う。時折、本当に夜空の星のごとく金色を帯びて、不思議な印象を与えている。
「黒くて、不思議な眼ですね」
「霄雲殿も、オリフミの瞳に魅せられましたか?」
廊下から柔らかな笑みを含んだクヌエの声が響いた。クヌエは二人の童女を連れて簾を潜る。
「オリフミと言うのですか?」
「はい。姫様がそう名付けられました」
「なんだ、本当の名ではないのですね」
残念そうに溜息混じりで返す霄雲に、クヌエは小さく笑いながら側に腰を下ろした。
そして持って来た急須のような器から陶器の茶碗に湯を注ぐ。湯気に紛れて甘い香が漂った。
「この娘は声が出ぬのですもの。この場だけでも名が無くては困りましょう。真名は声が出た折に聞けばよろしいのです」
「それもそうですね。――で、どんな字を?」
「機織の“織”に史書の“史”と書いて織史でございます」
「あれ、香りの名ではないのですね。じゃあ、ここに置かれる気はないのですか?」
「さぁ……。それは私ごときには量りかねまする」
「置く気が無いのでしたら、僕の所で面倒を見ますよ。丁度三人ほど辞めて行かれまして、空きがありますから」
霄雲は織史と名付けられた娘に向き直り、微笑を浮かべる。
「あなたにその気があれば、僕の宮に来ませんか?」
――どこに連れていかれようとも、構わないわ――
織史は少し眼を伏せた。
その隣でクヌエは微かに笑い声を上げる。
「辞めたのではなく、辞めさせたのでございましょう。聞き及んでおりまする。霄雲殿の小鳥を一羽、殺めたそうでございますね、その女官は」
「そうそう。あまりに煩く鳴く上に全く懐かないし、上等の絹に爪を掛けて台無しにしたからって。でも幾らなんでも飲み水に毒を入れるなんて酷い話ですよ。あの者達に世話を任せた僕が間違っていました」
眉を顰めて顔を背けた霄雲に、クヌエは淹れただばかりの茶を差し出す。その顔には、小鳥に対し少なからず憐れみを覚えたのか、笑いを止めて曇った表情が浮かんでいる。
「その点、この方なら大丈夫そうだ。なにせ、僕以外には近寄ろうとさえしなかったこの仔が懐いているようだし」
霄雲に言われて横を見ると、織史の側で首を左右に動かし、大きな瑠璃色の眼でこちらを見ている小鳥が居た。
碧と翠に黄色の混じった鮮やかな羽と、先の丸まった長い尾のある鳥だ。
小鳥は見詰め返しているとちょこちょこと飛び寄り、頭の羽を頬に摺り寄せた。
鳴き声を病んだ小鳥は華星と名付けられ、その日の夕暮れ前に霄雲に連れられて帰って行ったが、翌日の昼前には再び織史のもとにやって来ていた。
今日は霄雲の手ではなく籐で造られた鳥籠の中から、織史を見詰めている。
クヌエ――薫衣の看病もあって多少の体力が戻った織史も、今は上体を起こして華星を迎えていた。
指先に乗せて見ると、丸い瞳が何かを訴えているように見えるが、その意図を知ることはできなかった。
「昨夜からずっと羽ばたいていたものですから、きっとあなたに会いたいのだと思って連れて来たんです」
華星を籠から出し、霄雲は織史の横に降り立たせる。ちょこちょこと跳びはね時には羽を広げて、華星は織史に近付いた。
「霄雲殿のお考えになられた通りのようでございますね」
薫衣は軽く笑みを浮かべながら茶を差し出す。湯気に満たされた香は、昨日と同じ花の香りをしている。
この屋敷、シングウ――黰宮の主である叶君は、大層薬品類に詳しく、また香りのするものが好きなのだそうだ。そのためか、ここに勤める女官や侍女は本名ではなく花や香料の名を持っているという。
そう、女官長である薫衣から昨夜侍女二人を紹介する折に、織史は教えてもらった。
茶以外にも薫物は勿論、食事や蝋燭の類に至るまで香りを放つものが揃えられている。しかし、開け放たれた屋敷であるのと、風通しの良い造りであることもあって香りが篭もることは少なく、時折風に乗って鼻先をくすぐる程度のもので不快に感じることはなかった。
織史は平安時代にでも来てしまったようだと思いながら、その話しを聞いていた。
以前、平安貴族の女性たちが着衣に香を焚き染めていたという話を聞いたことがある。そうした習慣を受け継いできた者達なのだろう。だとすれば、皆の服装や言葉遣いにも頷ける。そしてきっと、都会の喧騒から離れたこの場所で暮らし続けてきたのだろう。庭から吹き込む風も空気も、とても心地良いのはそのせいだろう。
そう思い始めると、不意に家のことが浮かび始めた。
今頃家族はどうしているのだろう。突然消えてしまった娘を、どうおもっているのだろうか。気の利いたことも言えず、女の子らしいことのできなかった不器用な娘を。
けれども涙は出なかった。母の顔も家族の顔も、友人の顔も全て浮かべることができなかった。場所や雰囲気、漠然としたものは思い出すことができたが、何故か誰一人としてしっかりと顔を思い浮かべることができない。それと同時に、忘れてはならなかった何かが――否、忘れたくなかった何かを失ってしまった想いに駆られた。
――全て忘れてしまえば良かったのに――
中途半端に残った感情を押し込めるように、織史は眼を閉じた。
「おや、お顔の色が優れませんね。――…それでは僕らはこの辺で失礼させて頂きます。あまり無理をさせて、治りが遅くなってしまってはいけませんから」
薫衣と談笑していた霄雲が織史の様子に気付き、鳥籠を引き寄せながら言った。そして華星を呼ぶが、華星は織史を挟んで反対側に飛んで行き、霄雲の手から離れてしまう。
やれやれと溜息を吐いて霄雲は華星を追ったが、なかなか捕らえることができない。その姿は微笑ましく見えたが、呆れ果てたように立ち尽くし眉を吊り上げ始めた霄雲の様子に、織史は代わって華星に右手の人差し指を差し出した。
指に飛び乗った華星を頬に引き寄せ、お別れするかのように瞳を閉じる。
華星もまた、織史に頭を摺り寄せてそれに応えた。涙こそ流れはしないが、華星は哀しげに瑠璃色の瞳を織史に向けた。
微かに和らいだ織史の表情と華星の様子に、霄雲を始め薫衣までもが魅せられていたことを、当のふたりは気付いていなかった。
そしてそのままおとなしく鳥籠に入った華星を連れて、霄雲は帰路についた。
「では、叶君のご様子も後で文に記して送らせて頂きますよ。それから織史殿、もし宜しければ、明日もまた華星を見ていただけませんか?」
相変わらずの笑顔を向けられ、織史は戸惑ったように薫衣に視線を送る。すると小さく笑った口許のまま、薫衣は頷きを返す。それを見て織史もまた、霄雲に向き直りゆっくりと頷いて見せた。
霄雲と華星が屋敷を後にすると、薫衣と青い衣の童女――名を桔梗と言う彼女も、自分達の仕事をするために部屋を後にした。
そして残ったのは臥せっている織史と、桃鈴という名の少女だけとなる。
桃鈴は先日叶君を呼びに出て行った少女で、紅色の着物に白地の衣を重ね、髪を耳の横に大きく結っている。織史の食事や香の支度など、身の回りのことはこの桃鈴が世話をしてくれていた。しかし、桃鈴も織史と同じように言葉を発することは一度も無かった。
何するでもなく、僅かに目を伏せて黙って座っているだけの桃鈴を、織史は人形のような子だと思っていたが、黙っていてくれることにありがたいとも感じていた。
話しかけられたとしても、こちらに返す言葉は無いからだ。それに、変に詮索されるのも嫌だった。
今の織史にとっては、沈黙である方が助かる。
しばらくして、ふと織史は目が覚めた。
することもなく、うとうととしていたのは憶えている。風に揺れる花燈篭の明かりを見ていたら、いつの間にか眠っていたらしい。
見れば桃鈴の姿も消え、灯りも消えている。部屋の障子戸は閉められていたが、月明かりが微かに室内にまで届いている。
瞳を巡らして部屋の中を見る。昨日気付いたのだが、どうやら自分の眼は夜目が利くようになっているらしい。この暗さでも物がはっきりと見えているし、距離感もある。
織史はごくりと喉を鳴らした。
声は失ったが、新たに視力を得た。自分の体に何が起こっているのだろうか。
けれど不思議と恐怖は感じられない。そのことに対しては、だが。
もう一眠りしようと布団を引き上げて目を閉じると、ガタンと物音が響いた。
次いで風に揺れる木の葉の音と、何かに呼ばれているような音が聞こえた。あの夜に聞いた“声”にどこか似ている。
それが止み、一種の静けさが部屋を満たし始めると、織史の動悸が激しくなる。心音と自分の呼吸する音とがやけに耳奥で響く。胸が苦しくなり、無意識のうちに襟元を握り締めていた。
――早く、早く、早く――
織史は切にそれだけを呟いていた。
額を汗が伝い、強く瞑った瞼が微かに震えて指先が冷えていく。
これもまた、織史の――彼女自身の病であった。
突然音が消え始め、自分の心臓が高鳴り出す。荒い息遣いと共に脳に響くのは血脈の音だけ。次第に全身の感覚が無くなり、耳と頭だけが冴える。そして体中を駆け巡るのは決まって不快なもの。
原因が何であって、何故そうなるのか解らない。それがまた自身を追い込んで行き、ただ自分の周りを漂う空気の気配が嫌でたまらなくなる。しかし対処できない。そして吐き気にも似た嫌悪感を増幅させていく。
背中を冷たい汗が伝う。
そして心臓を直に、強く、握られていく――…
翌日、薫衣の声によって織史は起こされた。
日は空高く昇り、部屋の中にその光が注がれている。
眠っていたのか気を失っていたのか、自分では分からなかった。
目を開ければ霄雲と華星の姿が目に入った。ふたりとも心配そうに自分を覗き込んでいる。
織史は起き上がろうと腕に力を込めたが、痺れが走って崩れそうになる。桃鈴がそれを助けようと手を伸ばしたが、薫衣がそれを制した。
「無理はなさいますな。今日はどうぞお休みくだされ」
強く、有無を言わさぬ語調で言い放たれ、織史は布団に戻る。まるで母にでも叱られているようだと遠く思う。
そして額や襟元を拭われて、初めて自分がひどく汗をかいていたのに気付いた。
霄雲は織史に気を遣ったのか、早々に華星を連れて帰る仕度をした。
部屋を去る間際まで華星が羽をばたつかせて籠から出ようとしていたが、霄雲に諌められ、柵の間から自分を見つめ続けていた瑠璃色の瞳が目に痛かった。
哀しげに濡れた瞳と姿があまりにも痛烈で、自分を捕らえて放さず、早く治して遊んであげようという気さえも起こった。
しかしその日の夜もまた、織史の目は覚めた。
身に起こることは変わらず、昨夜同様意識を無くすように眠っていく。
それが三日三晩続き、外に出向いていた叶君が昼過ぎに織史の様子を見にやって来た。
初めて会った時と同じく、叶君は目元を黒い布で覆っていた。
背中に流れる漆黒の髪も、冷たい手も変わっていなかったが、その白い肌にはすこしだけ疲れが滲んで見えた。
診察が済むと、叶君は薫衣に何か伝えてまた直ぐに何処かへ向かってしまわれた。
声が出なくとも叶君ならば解ってくれるような気がして、織史は伝えたいと思うことがあったのだが、自分よりも年下に見える彼女が疲れを隠している姿に、引きとめようとする気持ちを抑えざるを得なかった。
食後に出された薬湯を口にして、織史は伝えようとしていた想いを胸の奥に仕舞い込む。
――忙しい中でも私に気を遣ってくれたんだ。こんな私に――
そう思うと、どんなに苦い薬でも甘く感じられた。
深夜、再び目が覚めてあの不快感に襲われたが、翌朝の目覚めは以前よりもずっと楽だった。
きっと叶君の薬のお蔭だろう。
薫衣と桃鈴も、織史の顔色を見て安堵の息を吐いた。
それから食後には、薫衣に勧められて織史は久し振りにお風呂へ入ることになった。少し身体を動かしてみるのも良いだろうと叶君から云われたらしい。
それまでは桃鈴や桔梗に体を拭いてもらっていたのだが、ゆっくりと湯に浸かれるのとはまた別だ。
心なしか廊下を歩く足取りも軽くなる。
案内された木戸を開けて中に入ると、花模様の衝立の後ろから、湯気が立ち昇り視界が白けていた。
衣服を脱いで籠に入れ、旅館の浴場か銭湯にでも来た気分になりながら奥へ進むと、シャワーや蛇口のような金具は見当たらず、石で組まれた小さな滝から湯が流れて来る光景が目に飛び込んだ。
石畳を少し進むと、滝壺が少し広く造られており、中に簀が敷かれている。湯は一度そこに溜まり、再び細い流れとなって出て行くようだ。風呂場というよりも露天風呂と言う方が的確で、囲んでいる塀の向こう側は鬱蒼と茂る森が広がっていた。近くに源泉でもあり、それを引いているのかもしれない。
いずれにしても、自分の土地に温泉が湧いているなんて、なんと贅沢な家なのだろう。屋敷も広いようだし、家具の調度も良いことから、とても裕福な家柄のようだ。
そこでふと、織史は不思議なことに気が付いた。
こちらに来てから一度も、薫衣以外の大人を見ていない。
叶君の親とも顔を合わせたことが無い。
二人とも多忙で家に居ないとしても、見るからに学生の身分である叶君や霄雲、桃鈴や桔梗たちが学校に行っている気配も無いというのは、どうもおかしい。毎日遊びに来てくれているのは正直嬉しいが、学校はどうしているのだろうか。
一度考え始めると没頭してしまい、他のことが頭に入らなくなる。
そんな織史を現実に引き戻したのは、一羽の小鳥の鳴き声であった。
慌てて側に置いていた衣を引き寄せ、声のする方を振り返る。ピーッ、ピーッという高いが優しい響きを持った鳴き声と共に、引き戸の開く音がする。そして湯の流れる音に紛れて、誰かが入って来た気配。それと同時に目の前に青い物体が飛び込んできた。
どこか興奮したように高々と囀っているそれは、鮮やかな翡翠色の羽を羽ばたかせて、織史の肩に飛来した。頬に擦り寄る愛らしい姿は、間違いなく華星のものだった。
「お召し物はこちらにご用意いたしました。どうぞごゆっくり、お寛ぎ下さい」
桃鈴の声を聞いたのは二度目だ。
叶君の到着を報せた時と、今の言葉。そのどちらも感情の無いアナウンスのようで少女らしさを欠片も感じさせないものだった。
しかしどう返事をすればよいかと戸惑っている内に、再び戸の開く音がして桃鈴は立ち去ってしまったようだ。
織史は少しほっとしながら息を吐き、華星を見返す。瑠璃色の瞳を輝かせて、華星はもう一度だけ高く澄んだ声で鳴いてみせた。
――声、出るようになって良かったね。ステキよ、あなたの声――
左手の人差し指に乗せ、織史は華星と向き合った。すると華星は少し照れたように一声鳴き、湯煙の中を飛び立つ。
否、そう見えただけで、別のことを思っていたかもしれない。
華星は小鳥で、自分は声が出ないのだから。
織史は気を取り直して湯から出ると、石鹸に似たもので身体を洗い始める。
何だか不思議な気分だった。見ず知らずの家で、看病してもらい、その上お風呂にまで入れてもらっている。自分の神経も相当だと思う。
――甘えて、だらけて、なんて愚かな姿なんだろう――
自分を疎みながらも、機械的に腕は動いていた。
風が吹くと少し肌寒かったが、蒸気もあって快適な風呂場である。湯に浸かると、少し熱めの湯が徐々に身体を解きほぐしてくれる。久し振りだからこんなに良く感じるのか、それとも湯の成分なのかは分からなかったが、とにかく気持ちが良かった。漂うことの心地良さを感じていると、一瞬でも、自分が生きている苦痛や感覚を忘れさせてくれるほどに。
『あまり浸かっていると、のぼせてしまうぞ』
大地を震わせ、胸の奥で波紋が広がるように響くこの声には、聞き覚えがあった。
弾かれたように顔を上げて、織史は迷わず声のした方を向く。
――あなたはあの時の――
視線の先には、先程指に乗せた華星の姿。
人の姿は、影は勿論、髪の一筋すらも見当たらない。しかし“声”は再び波紋を作る。
『いかにも。あの夜、そなたと言を交わしたは我ぞ』
――あなた、まさか華星だったの?――
『確かに今はこの者の身を借りてはいるが、我は鳥ではない』
“声”に少し憮然とした響きが混じった。
織史は、いまいちこの状況を飲み込めずに華星に向かって瞬きを繰り返してしまう。
そしてふと、湯気の中に浮かび上がった華星の瞳が、瑠璃色から黒曜石の色に変わっていることに気付いた。
『――人が、来たようだ……』
霧に消え入るように声が薄れて、戸を叩く音が響いた。
「突然済みません、織史殿。こちらに華星が来ていると聞きまして、その…お邪魔じゃないかと…」
焦りを帯び、口籠りながら声を掛けてくるのは霄雲である。
織史が華星を振り返ると、もう瞳の色は元に戻っている。一体何だったのかと思いながら、織史は湯から上がると急いで着替えを始めた。
仕切り戸は障子ではなく格子の間に板のはまったものであったが、手を伸ばして桃鈴の用意してくれた籠を引き、衝立の内側で着替えを済ませる。途中で華星が鳴き声を上げ、霄雲は困ったように何か呟いていたが、戸を開けるような無礼は決してせず、中から開かれるのをじっと待っているようであった。
“声”の言った通り少しのぼせてしまったのか、頭がぼんやりとしてなかなか思うように急ぐことができず、長く待たせてしまった。
織史がそろそろと戸を引くと、鳥籠を抱えて座り込んでいた霄雲は慌てて立ち上がる。しかし隙間から飛び出した華星を取り逃してしまい、呆れたように大きな溜息を吐いた。
「まったく……。本当に済みませんでした。ご迷惑をおかけして」
頭を下げてくる霄雲に、織史は首を振る。その顔には微笑が見て取れた。
ふたりで空の鳥籠を揺らしながら部屋に戻ると、華星は庭先でその歌声を披露していた。
とても優しく、美しい響きに、薫衣たちも和んでいる様子だ。
織史は心の中で華星に賛美の言葉を贈り、同じ様にその声に耳を傾ける。チラリと横を見ると、霄雲も満足げに目を細めていた。
午後になると、昼の天気とは打って変わって雲が空を覆い、雷鳴が轟き始めて嵐が屋敷を襲った。
ひどくなる前に退出しようとした霄雲であったが、華星が織史の側を離れようとせず、籠に入れようともがいている内に風雨が強さを増し、今夜一晩は屋敷に留まることとなった。
華星は声と共に元気まで取り戻したようだと苦笑いを浮かべる霄雲の後ろで、桃鈴や桔梗たちが安心したような面持ちになっているのに、織史は気付いていた。
この屋敷は木造のようであるし、周囲は木々が立ち並んでいる。雷が鳴るとそれなりの心配があるのだろう。そうでなくとも、桔梗たちはまだ幼い。平静を装ってはいても、心細いのは確かな筈だ。
夜になると一段と嵐は強まり、華星は織史の胸にうずくまってしまった。翼を固く閉じ、微かに震えている。
以前、鳥類は空気の波、簡単に言えば音や大気の変化に敏感であると聞いたことを思い出した。
鳥に限らず、自然の中に生きるものたちはその僅かな変化を見逃さぬように、常に耳を傾け視線を注ぎ、神経を鋭敏に保っている。
愚鈍な人間には見えない世界を、捉えているのだ。
華星もまた、自分には分からない何かを感じ取っているのだろう。そしてその影響で、自分の身体も震えているのだと、織史は言い聞かせるた。冷えた指先を握り締め、打ち付ける雨と雷鳴に耳を澄ませながら、心がざわめくのは、華星を胸に抱いているからだと。
霄雲は桔梗たちと共に何処かへ行ってしまった。
かと言って華星を籠に押し込めてしまうのもしのびない。
そう思い身に着けていた薄手の帯を解き華星を包むことにした。雀ほどではないにしろ、華星は小さな身体をしているから、直に抱くのは少し危うい気がして、圧力が掛からないようにと織史なりの配慮だ。けれど華星はそれを嫌がり、結局両手で包むことにしたのだが、そのお蔭で華星の心が掌から伝わってくるようで、自分まで震えてしまっている。
しばらくして、花燈篭一つだけを残して部屋の明かりは消えてしまい、織史は困り始めた。
時計がないために正確な時刻も分からないが、まだそれほど時間は経っていない筈だ。
手持ち無沙汰に、寝てしまおうかとも考えたが寝具がどこにあるのかも分からない。
廊下に出て人を呼ぼうかとも思ったが、声が出ないのではどうしようもない。
第一、どこへ行けば桃鈴や薫衣に会えるのかも分からないのに、勝手に他人の屋敷内を出歩く気などにはなれなかった。
仕方なく織史は華星を抱えて奥の壁にもたれ掛かって腰を下ろし、初めは室内を見たり華星を見詰めたりしていたのだが、その内にうとうとと眠気を覚えて、強くなる風と雨の音に包まれながら、結局織史は眠り始めていった。
…カタン…
ふと気が付くと、外の音が聞こえた。
雨は止んだようで風と木の葉のざわめきだけが響いている。それに紛れて物音が耳に入った。次に障子戸の開く音がして、誰かが入ってくる気配がした。
――霄雲……?――
雲の合間からのぞく月明かりが、室内に差し込む。
重い瞼を薄く開くと、すだれを上げて誰かがこちらを見ていた。
逆光で顔は判らないが、その人物は織史に何かを話し掛けてくる。しかし再び雷鳴が轟き、月は厚い雲に隠され、風が荒れ始めてその声は掻き消された。外の喧騒に紛れた声が睡魔で意識の朦朧とした織史に届く筈も無く、遠くにその人物を感じながら織史は呑み込まれるように寝入ってしまった。
「織史殿、申し訳ございません!」
ドタバタと慌しい足音が近付き、勢い良く障子戸の開く音と同時に霄雲の声が響き渡った。
「――何だ、騒々しい…っ」
目を擦りながら身を起こそうとした織史の頭上から突然声が降り、一気に眠気を吹き飛ばした。
顔を上げると直ぐ目の前に、露骨に眉を顰めた顔がある。勿論初めて見る顔であったが、それよりも何よりも、自分がその人物の膝の上に頭を乗せていた事実に織史は絶句し、急ぎ身体を離す。
しかし当人は、織史よりも突然騒がしく起こされたことに対する不満からか、頭痛を宥めるような仕草で額に手を伸ばす。
天井では、どうして今まで気付かなかったのだろうかと思うほど、華星が室内を飛び回りながら騒いでいる。
「失礼――っ」
短く断りを入れて霄雲が障子戸を開けると、差し込んだ朝陽に照らし出され、目の前の人物の髪が輝く。
キラキラと、星屑を零すような飴色。その髪が織史の言葉を奪った。
端正な顔立ちを不機嫌に歪めてはいるが、石膏像のような額から鼻梁にかけて、長く繊細な指を這わせたその姿は、一枚の宗教絵画から抜け出したような神々しさを放っている。
「龐公殿、何故こちらに!?」
霄雲はその人物を龐公と呼び、室内の様子に驚いた表情を見せた。
そんな霄雲の言葉よりも彼は織史の視線に気付き、髪を掻き揚げながらそちらを向く。
織史は開いたままの口許に手を当てて震える唇を押さえた。
――誰、この人――
正面から見ると、解かれた襟元から男性らしい体躯が覗いている。
顔付きも、優美なだけではなく精悍さも兼ね備えたていた。
霄雲が織史の様子に気付き慌てて何かを話しかけ、その後ろから薫衣たちの驚く声が上がっていたが、それすらも織史の耳には入らなかった。織史は龐公の眼と髪に、釘付けになっていたのだ。
街を歩いた時や学校の中でも脱色によって髪の色を変えていた者を何人も見たことはある。茶や金だけで無く、赤や青といった色に染め上げていた人物も。けれど龐公と呼ばれるその人物の髪は、見事なまでの黄金だ。陽光を返す流水のように煌めく髪の毛を目にしたのは、初めてだった。その上瞳は金を帯びる澄んだ青。心まで見透かされそうな瞳は、見る者を捕らえて放さない力が感じられる。恐ろしいまでの美しさ、という言葉が、正に合う姿態である。
それに加えて、何故この男性の膝で自分が眠っていたのか、その困惑で頭がいっぱいになる。
織史の混乱を見て取った薫衣は、織史に朝の湯浴みを勧めて桃鈴と一緒に部屋から退出させた。
相変わらず桃鈴は何も話はしなかったが、今の織史ではどんなことも素通りしてしまう様子で、そんなことは気にもならなかった。
途中、織史の後を追って飛んで来た華星が入り口の手前で霄雲に捕まり、戸が閉められると先程と同じように羽をばたつかせながら騒いでいる華星の声が聞こえたが、それも織史の耳を通り過ぎてしまった。
一浴びすると気持ちが冷静になったのか、湯の中で深呼吸をして脱衣所に向かう。
用意されていた衣に袖を通していると、戸の向こうから霄雲の慌てている声が聞こえた。身支度を整えながら耳にしたのは、件の龐公と霄雲のものである。
「――ですから、まだ織史殿が使用中なのです。いくら貴方でも此処をお通しするわけには参りませんっ」
「別に私は構わん」
「そういう問題じゃありませんっ!」
霄雲の怒りを帯びた声が響き渡るが、ホウコウの方には届いていない様子だ。
「昨夜の雨を流したいのだ、其処を退け」
「龐公殿っ!」
諌めるように声を荒げる霄雲の後ろから、織史がゆっくりと戸を開く。するとすぐさま華星が肩に止まり、頬擦りをした。
「その鳥……」
華星の様子に口を開いたその言葉を遮るように、霄雲の声が重なる。
「さあ龐公殿。ごゆっくりと湯殿をお使いください」
やけに明るく言って、さり気無く織史を背中に隠す。それを目にして何か口にした龐公は、霄雲を鼻先であしらい、戸の奥へと消えて行く。
それを見送り、霄雲はホッとしたように息を吐き、織史の手を引くように歩き出した。
部屋に戻る廊下で、朝雲は思い出したように昨夜のことを話し始め、織史に何度目かの謝罪の言葉を口にした。軽く微笑み首を振って返すと、少年らしい明るい笑顔が浮かぶ。
そんな霄雲の髪も、金色に輝いている。
龐公よりも静かな光だが、先ほどの話し振りからすると、ふたりは血縁関係があるのかもしれない。
もしかすると、昨夜の嵐が心配で様子を見に来たのではないだろうか。
霄雲と龐公の親しげな様子に、小さく笑いが零れる。
それをまた、霄雲もやわらかく微笑んで返す。
言葉は無いのに、暖かな時間が流れる。
華星は相変わらず織史の肩に乗って、そんなふたりの様子を見ていた。
その日、織史にもう一つの転機が訪れた。
朝食後に霄雲が街への外出を切り出したのである。
――街……。遂にこの時が来たか――
織史は自分の心内を隠し、ゆっくりと頷きを返した。それを見て霄雲の顔がパッと晴れ、薫衣も頬をほころばせる。
――連れてくるのではなく、連れて行くことにしたのね――
少しだけ気分が沈む。
ずっとこの状態が続くなどとは思ってもいなかった。けれど現実に戻るのだと思うと、苦い想いが込み上げてくる。警察と、親の姿が脳裏に浮かぶ。
――逃げようなんて、思うんじゃなかった――
来る瞬間を予想して、両手を握り締める。
一度深く瞼を閉じて逃げ出したい気持ちを押し込めると、衣服を整えて霄雲と山を降りた。
そこで初めて織史は馬車に乗った。歩いて行くつもりだったのだが、織史の足に合う履物がなく、有り合わせで山道を歩くというのは危険であるからと、薫衣から止められたためだ。
中は雛壇飾りで見た牛車のように座敷風のものであったが、造りはとてもしっかりとしているようで、速度が上がっても振動をあまり感じなかった。もっと音も騒がしいものだと想像していたのだが、これなら車の乗り心地と大差ないかもしれないと思う。
道中、霄雲は龐公の話をしたり街のことを聞かせてくれたりと織史に気を遣ってくれたが、その殆どが織史の耳を通り抜けてしまっていた。
そして、人々の話し声が耳に入り始め、織史はごくりと息を呑み込む。
覚悟を決めてこたえる言葉を何度も繰り返しながら、ゆっくりと、ゆっくりと瞳を押し開ける。
――!?――
霄雲が格子戸の布を上げ、街の様子を見せてくれている。
何度瞬きをしてみても、その光景が変わることはない。
高く昇った陽光を受け、人のざわめきに包まれているその街並み。行き交う人々。商いをする店々。全てが想像に反して目に飛び込んで来た。
「取り敢えず、履物を調達しましょうか」
霄雲の言葉に慌てて頷いて、織史は外の景色から目を放した。
御者らしき男に何かを伝えている霄雲を横目に、織史は今見た風景を思い返す。
――ここは一体……?――
立ち並ぶ店には、電飾の付いた看板も、硝子扉も無い。建物も平屋作りがほとんどで、木造のものばかりだ。街灯も無ければネオンも無く、電線も無ければ電柱も見当たらない。人々の服装だって、着物のような前合わせのものが目立つ。黰宮の人が特殊と言うわけではなかったようだ。
まるで時代劇のセットに入り込んでいるようで、時代を遡ってしまったのかとも思ったが、霄雲や龐公の姿を考えるとそうとも思えない。
では自分は、一体どこに居るのだろうか。
織史が心の中で自問自答を繰り返していると、しわがれた老人の声が耳に入った。
「作るのは、どの足じゃ」
店の奥から暖簾をくぐって店主らしき老翁が歩いて来る。口許に白髭をたくわえた厳格そうな人物だ。
先に降りていた霄雲に呼ばれて織史がおずおずと簾を上げると、店主は眉を顰めた。
助手らしき青年が織史の前に箱と椅子を置くと、店主はそれに座り足を出すよう命じた。言われた通りに箱の上に足を乗せると、三つの定規が合わせられたような物差しで足の大きさを測り始める。気難しげな顔を動かし、角度を変えて目盛りを読んでいく。
「名前は?」
唐突に訊ねられ、織史は唇を動かした。けれど声が出ないので、店主には届かない。代わりに応えたのは霄雲であった。
「織史と申します。声が少し……」
「病か?」
店主は眼だけをギョロリと上げ、織史を見る。
「いえ、そうでは無いようです」
「ならばもっと歩け。この足は大地を知らな過ぎる」
叱るような口調で言われて、織史は身を固くした。
確かに自分の足は歩くことが少なかった気がする。どこへ行くにも車を使っていたし、人混みを避けていたために家の中で過ごすことが多かった。けれどそれ以前に、自分の住んでいた街は“土”というものが少なかった。片田舎ではあったが、道はアスファルトに舗装され、コンクリートで固められていた。木などの自然はあったが、手が汚れるのを嫌って直に触れることも少なく、まして裸足で“土”を感じた記憶も無い。幼い頃から、そういう環境だった。
織史は言葉も無く、じっと店主の手を見詰めた。
指先に染料の付いた皺だらけの手。骨ばり節だって、岩のようにも見えるがとても温かく見える。職人の手だとそう思う。
「――おい。あの箱を持って来てくれ」
店主が言うと、助手の青年が店の奥に一度引っ込み、飾り気の全く無い木箱を持って来た。
蓋を開けると中から一足の履物が姿を現す。薄桃色と金糸で小花模様を織り込まれた結び紐と、濃紺の鼻緒。黒く艶のある台部分には鮮やかな色彩で蝶々が描かれている。
「これは昨夜仕上がった、“人形沓”じゃ」
店主はそれを箱から出し、結び紐を解いて織史の前に差し出した。
「お前さんと同じ、“土”を知らぬ。本来なら大地に触れることのない代物であるが、これも運命じゃろう」
履物に注ぐ店主の眼はとても優しく、愛しい我が子を眺めているようだ。
見れば、金色に光る紐留めや鼻緒、蝶の絵姿も細部に至るまで意匠が凝らされており、とても高価な物に思われる。
織史の思いを汲み取ったのか、霄雲が店主に尋ねた。
「失礼ですが、本当にお売り頂いても宜しいのですか?」
「構わぬ。この娘さんに合うものは、これ以外に無いじゃろうからの」
店主の顔は先刻までの厳しい表情に戻っていた。
言われて鼻緒に足を通すと、店主の言う通り織史の足がぴたりと嵌った。
「足は飾り物では無い。動いて台地を知り、初めて真価を見せるものじゃ。価値ある足は主を正しき道へと導くとされておる。くつもまた然り。互いに己の道を創り出すが良かろう」
織史に、というよりも織史の“足”に語り掛けるように店主は言って立ち上がる。そして霄雲と共に店の奥に入って行った。
二人の背中を見送って、織史は足を地面に下ろし馬車から降り立ってみる。
底が厚めで草履よりも下駄に近い感触だ。
着物の裾を少し上げ、自分の足を見下ろすと胸が高鳴った。
――可愛いクツ。下駄って言った方が良いかも――
足を動かすと微かに鈴の音がする。本当に微かで、耳を欹てなければ気付かないような音だが、とても澄んだ愛らしい響きのする鈴だ。思わず頬が緩み、幼い子供のように飛び跳ねてみた。また音が鳴る。それがとても、楽しく、何度も鳴らしてみたくなる。
「喜んでくださるのは嬉しいですが、あまり無理はしないでください」
手元から零れた着物の裾につまずき、転びそうになった織史を支えて霄雲が優しい声で窘める。
織史は立ち直し、霄雲に向き直ると深く頭を下げた。
――どうもありがとうございます――
声は出ずとも唇を動かし、心から礼を述べる。
戸惑ったように顔の前で手を振る霄雲の言葉で面を上げた織史は、それまでに見せていた微笑とは違う、すっきりとした笑顔を浮かべていた。
「では、街見物にでも行きましょう」
差し出された霄雲の手に手を乗せ、織史は店の立ち並ぶ街中へと進んで行った。
こうして並んでみると、霄雲は意外と背が高く少年というよりも青年と言った方が合うことに気付く。体格も、細身だがしっかりと筋肉が付き、自分を支えてくれたその腕は確かに安心できるものだった。建ち並ぶ店を案内してくれる表情には幼さを感じるが、それもまた霄雲の良さなのかもしれないと、織史は不意に思うのだった。
少し歩くと簪屋があり、隣には織物屋があった。細やかで美しい細工にキラキラと輝く色とりどりの石が嵌め込まれた物から、巧みな彫を施されたシンプルな物まで数多く店先に並べられている。陽光を返す眩しいほどの輝きは、歩く女性の目を引いた。
織史も一度は足を止めたが、店の外にまで溢れかえっている女性客の様子を見ると、店内に進もうという気持ちが失せてしまう。隣の織物屋も、商品を選んでいるたくさんの客で賑わっている。
興味はあったが、やはり混み合った中に入ることは出来そうに無かった。
気を遣った霄雲が言葉を掛けたが、織史は首を横に振る。店の外から覗くだけでも、十分に楽しかったのだ。見たことの無い造りの置物や灯篭、食べ物も売られている。人々の活気に満ちた顔も見ているだけで織史を楽しませてくれていた。
自分でも現金だと思ったが、本心から“今”を楽しいと感じていた。
それからふたりでしばらく歩くと、茶店の通りに出た。手前には甘味処。奥には食事処が暖簾を下げている。
「少し休みましょうか」
霄雲に言われて、織史は頷きを返した。
店を選びながら歩いていると、後ろから人の声に紛れて鳥の鳴き声が耳に入った。振り返ると翠の羽を広げ、一羽の小鳥がこちらに向かって飛んで来るのが目に入る。思わず両手を広げて織史はその小鳥を受け止めた。
――華星? ごめんなさい、華星――
籠に入れ、馬車に置き去りにしてしまっていたのを思い出し、織史は何度も呟く。
霄雲は感心しながら華星に声を掛けたが、当の華星はひどく打ちひしがれたようで、そっぽを向いてしまった。
それからしばらく華星は織史の肩に止まったまま離れなかったので、さすがに店内にそのまま入ることは憚られて、食事を諦めて馬車に戻ることにした。
しかし先程よりも人が増え、思うように進めずにいる内に、気付けば織史は霄雲とはぐれてしまった。
声が出ないために名を呼んで探すこともできず、人並みに流されて立ち止まることもできない。仕舞いには、人混みに酔って気分が悪くなり始めた。
仕方なく脇道に逸れて一息ついていると、不意に日が翳り、顔を上げると数人の男に囲まれていた。
「お嬢さん、気分でも悪いのか?」
言葉とは裏腹に、声音は愉しげな笑みを含んでいる。
気丈に振舞おうと唇を固く結び、首を横に振った。そして敢えて突き進もうとしたが、仲間であろう男達に道を塞がれてしまう。
――弱さを見せてはいけない――
心に言い聞かせて男達を睨みつける。ところが男達は怯むどころかせせら笑うかのように織史を見据えて、一歩も引こうとしない。
「あ。あんた、この前の女じゃねぇか? 服が違うんで気付かなかったぜ」
前に立っていた男が一人、口を開いた。
男の言葉に織史は眉を顰め、顔を見返すが記憶には無い。
灰色に近い髪を後ろ手に縛り、耳に三つのピアスをしている。その男がずいっと顔を近付けて来たので、思わず後ずさってしまう。
なおも近寄ってくる男を避け、織史は男達と距離をとったが、不運にも壁際に追い込まれてしまった。
――どうしよう――
横目でチラリと人通りの方を見る。いつの間に入り込んでしまったのかと思うほど、通りまでは距離があった。男達のニヤけた顔がにじり寄る度、嫌悪感が全身を走る。
――声さえ出れば…っ――
男の手が伸び、織史の身体に触れようとしたその時、急に男が顔を覆って呻いた。
「うぁっ!」
男の顔の前で、碧い物がバタバタと暴れ回っている。それに気を取られた男達から逃れるように駆け出す。
「追えっ。逃がすな!」
織史に気付いた男が決まり文句を叫んでいる。それを背中で受けながら、必死に足を動かした。
着物の裾が脚に絡まり、思うように動かせず何度も転びそうになる。その上重ね着をしているために袂が重く、直ぐに息が上がってしまった。
――どうして人混みの方に行かなかったのよっ!――
走りながら自分の向かった道を後悔し、自分を責めていた。
織史は無意識の内に男の立っていない方を、つまり路地裏の奥へと向かってしまったのだ。けれど来てしまったものはどうしようもない。とにかく男達から逃げなければと、織史は進む他なかった。
迷路のように続く家々の壁を伝い、ただひたすらに走り続ける。足が縺れ、息苦しさに眩暈まで覚え始めた。けれども立ち止まることは厭だった。
「いい加減におとなしくしやがれっ!」
怒声と共に強い力で襟を引っ張られて、織史は地面に叩きつけられた。
痛いと思う間も無く、肩を掴まれ仰向けにされる。結った髪の間から小石が当たり、簪が音を立てながら地に転がる。心臓が早鐘のように脈打つ。胸元に伸ばされる手を必死で払い除けようと腕を動かすが、上から押さえ込まれてしまう。
後から仲間の男達が駆けつけ、脚や腕を押え付けてくる。もがけばもがくほど、目の前の男達の顔にはいやらしい笑みが浮かぶ。
突如、織史の脳裏に違和感が生じた。既視感とでもいうのか、今現実に起こっているものと重なる影がある。それが妙にリアルで、意識が揺れる。
――この光景、どこかで見た――
見上げる視界に見下げる男の笑い顔。そしてもっと暗く、騒がしい…否、音は何もなかった気がする。
しかしさらに思い出そうとすると、刺すような痛みが頭の中に走った。
「随分と良家の娘みてぇだな。この前の服は特注品か?」
汚い顔を近付けて男が言った。織史は唇を噛み締め、睨み返す。今は頭痛よりもこの状況を脱するのが先だ。
――こんな奴らに屈する訳にはいかない!――
挑戦的な目に男は気分を害したのか、織史の頬を打ちつける。それでもなお織史は男を睨み続けた。
「ふん。まぁいいさ。今日はとことん付き合ってもらうぜ、お嬢サマ」
ニタリと顔を歪ませて、男は襟元に手を掛ける。
そこへ、再び羽音が聞こえて上を向くと、陽光を背に受ける一羽の小鳥が男目掛けて突進してくるのが見えた。
「うわっ! 何だてめぇ。やめろ、この野郎っ!」
バシリと鋭く打つ音がして、鳥が木の壁にぶつかるのが見える。
――華星っ!――
強い衝撃を受け、その場にポトリと崩れたのは紛れも無く華星の身体であった。翠と碧の鮮やかな羽はすすけた汚れが目立つ。所々抜け落ち、四方に散った羽根が目に痛い。
織史は何度も華星を呼んだが、丸くなったその身はピクリとも動かない。全身に、震えが走った。
「――私の前で、そういう真似はしないで貰いたい」
突然、織史の足元――男達の背後から不機嫌さを露わにした男の声が聞こえた。
何事かと振り返る男の肩越しに、飴色の髪が揺れる。
「さっさと立ち去れ。その方が身の為だぞ」
「何を仰いますか。もう、手遅れですよ」
もう一人の声は織史の頭上――男達の前方から聞こえる。
見上げると、冷ややかに男達を見ている霄雲の姿。
少年らしさなど消え失せ、怒りをひた隠しにしている冷酷な笑みが浮かんでいる。
「な、何者だてめぇらっ。関係の無い奴らは黙ってろっ」
「関係無い?」
一瞬だけ、霄雲の眉がピクリと震えた。
「そうさ、この女は俺の女だ。てめぇらには関係ねぇっ!」
上に跨っていた男は言いながら織史の襟首を引き上げ、啖呵を切る。
締め上げられた織史の顔には苦悶の表情が浮かんだが、それは長くは続かなかった。
男の重みが言い終えると同時に消えたのだ。
腕を押さえていた両脇の男達の手も離れ、織史は身を起こした。
解けた髪が額や頬にかかり、かろうじて引っ掛かっていた簪も地面に付いた手元に零れる。
その手の向こうで、男が一人震えているのが目に入る。何か一点に視線を奪われ、恐怖に顔を歪ませ、小さな童のようにガタガタと震えている。
視線の先を追うと、宙に浮かぶ別の男の姿があった。
両手両足を力無くぶら下げ、頭を垂れている。それは先刻まで自分の上で笑っていた男の変わり果てた姿に他ならなかった。
男の異様さに目を奪われた織史の横で、事態に耐え切れなくなった別の男が喉を鳴らし、動けるようになった足で走り出す。
「この僕から、逃げられるとお思いですか?」
笑みを含んだ声で霄雲が呟く。その瞬間、織史の背後から一陣の風が男を捕らえて、目の前の男と同じように宙に浮かべる。違ったのは、縛られたように腕を硬く閉じ、足をばたつかせている部分だけだ。
「済みませんでした、織史殿」
後ろから謝罪の言葉と共に優しく布が掛けられる。青い衣は、ふわりと甘く香った。叶君の屋敷で嗅いだ匂いと少しだけ似ているその香りは、気持ちを宥めてくれる。
助かったのだと実感する。同時に織史は気付いたように顔を上げて、華星の横たわる壁の下へと急いだ。
土の上に散らばった羽根と青い軀。微動だにしないその様に、苦い思いが込み上がる。そっと手に抱き、出ない声でその名を呼ぶ。
――華星…――
やはり反応はない。
もう一度名を呼ぶが、掌からぬくもりが消えて行くばかりである。
病が治ったばかりで、あんなに嬉しそうに歌を聞かせてくれた華星。美しい羽と美しい声で、もっと空を飛ぶ筈だった。その自由を、自分が奪ってしまったのだ。華星の自由――命を。
自分の所為で散らしてしまったその命に、織史の目から哀しみが溢れて華星の軀に零れる。
――私は、また、罪の無い者を苦しめてしまった――