標
「――キツネっ」
龐公らと一緒に部屋を出た薫水が再び織史とキツネの所へ姿を見せたのは、蝉舞が改めて淹れたお茶に手を付け始めて直ぐのことだった。
てっきりまだ話しているとばかり思い、気を抜いていたキツネは、突然響いた声に眉を顰めた。
「何故もっと早くカンジュのことを思い出さなかった!?」
「……本気でそれを言っているのか?」
「当然だ」
呆れた視線を投げるキツネに、薫水は即答する。
足を踏み鳴らしてこちらに歩み寄る姿は、怒っているというよりは、悔しがっているようだ。
席に着いた薫水の態度に長く息を吐き、キツネはこめかみの辺りを指先で押さえながら、静かに言った。
「……ならば言わせて貰うが、記憶が抜けているなど、どうして私が判るのだ? むしろお前こそ、どうして気付かなかった?」
「それは勿論、織史が叶君の屋敷に来たのが“最初”だと思ったからだ。思い込んでいた、と言って良いな」
「私とて同じだ。お前の登場を目の当たりにした訳ではないが、お前は朱妃の水盤に降り立ったのは知っている。だからこそ、叶君の領域ならば有り得る、そう考えていたのが我らの失念を生んだ。そうは思わぬか?」
「もっともだ」
そう口にしながら、薫水の態度は変わらず尊大な様子で、今度は側に佇んでいた少年に目を向けた。
「という訳であるから、我々も彼女の話を聞けている状態ではない。それ故、これから少し話をしようと思う。そなたには部屋を用意させたので、暫らくそちらでお待ちいただけるかな?」
「……同席は、許されないと仰いますか?」
「彼女の戸惑いを拭うのに、その原因があっては簡単には行くまい。そのための協力、とお考えいただきたい」
「……承知致しました」
「では蝉舞。彼を案内してやってくれ。室は怜永に伝えてある」
「かしこまりました。ご案内させていただきますので、こちらへどうぞ」
蝉舞はゆったりと微笑んで、少年を扉の向こうに促した。
それは決して強いものではなかったが、少年は織史を一瞥して頷くように瞼を閉じると、黙って蝉舞に従った。
何か、とても言いたげな何かを感じさせる視線。少年の瞳は、それを織史の胸に残して行った。
同時に広がる、言い表せない胸の疼きに、織史はもやもやとした気持ちを抱く。
どうして、そんな視線を向けられたのだろうか。
どうして、自分はその眼に応えなくてはならないと、思ったのか。
そんな織史の胸中を払拭するように、薫水の声が響く。
「さて、これで取り敢えずは奴らの言葉を押さえ込めるな」
「……そのための問答だったのか、あれは。それにしては、随分私にばかり責任を押し付けておったようだが?」
「私も似たようなことを言われたのだ、少しは分かち合え」
「だからと言って、最後のはごり押しだろうに……」
「童子殿はあまり反発しそうになかったのでな。それに、どうせなら連れて来た奴らと一緒にいるべきだと思ったのだ。奴め、あのまま織史の側に置いておこうとしたのだぞ? 身元も明かさずに、図々しいだろ」
「それは、既に判っているからではないのか? 捜していた件に関しても、“確かな筋”と申しておったろう」
「その“筋”とやらを私に明かそうとせんところがムカツク」
「……気に食わぬからと、八つ当たりはよせ、薫水」
「良いじゃないか。織史とて、知らぬ…もとい、覚えておらぬ人間が、ぼーっと立っていて美味しくお茶が飲めるとは思えないからな」
「……もっともらしく言いおって……」
薫水の言い分に、キツネは呆れながら溜め息を零した。
けれどその口許は微かに笑っているようで、何だかんだと言い合いながら、その意図を汲み取って話を合わせていたのだと、織史は思う。
流石に喧嘩腰で現れた薫水には驚いたけれど、どうやらあれは演技だったらしい。キツネの言葉から織史が察するに、ではあるが。
何より、目の前でお茶を口にしている薫水の表情が、入ってきた時とは一転して綻んでいるのだから、そうなのだろう。……ほくそ笑んでいる、とも言えるところが、少しだけ気に掛かるが。
ともあれ、三人は蝉舞のお茶を各々口にしながら一息ついた。
「まぁ、一先ずカンジュの到着を待つばかりだな」
長椅子に深く腰掛けたキツネを見て、織史は思い出したように薫水の袖を引いた。
先刻から皆の口に上っている、聞き慣れない名称が気になって仕方がない。
しかもそれが自分に関わりあるようであるから、なおさらだ。
――カンジュとは、何ですか?
唇だけを動かしたが、薫水は織史の聞きたい事を分かった様子で、軽く眉を上げて答える。
「カンジュは、こちらの世界での特殊な道具のことだ。神器の一つらしい」
「ああ。紺珠と言って、東の宝物だ」
薫水の言葉に目を見開くと、付け足すように横からキツネが声を掛ける。
それが思いの外平然としていて、ふたりとも気に掛ける素振りがないことに驚いてしまう。
「東の地に伝わる宝物の一つで、記憶を呼覚ます力が秘められていると言われている。今のお主には丁度良かろう」
「宝物だからと言ってそう畏まることもない。有り難くその恩恵を授かる方が、霄雲たちも喜ぶ」
「主神が許可を出したのだ、それが有意義というものだな」
――主神、て神様?
「そうだ。この話は聞いているだろう?」
薫水の問いに、織史はぶんぶんと首を振る。
まさか神と呼ばれる存在がいるなど、初耳だ。
そもそも、世界の在り方を知ったのも薫水との絵本で、だ。
「おいおい、根本の話であろう」
「まあ、言葉が伝わらなかったのだから、詳しいことは話していないと思っていたが……それにしても、奴らは何も織史に伝えていなかったのか……?」
織史は、彼らと会った経緯を含め、彼らが自分をどのように捉えていたのか思い出した。
それを踏まえると、そのような話題が上らなかったのはむしろ自然だ。この世界の生き物だと、彼らは考えていたのだから。
記憶を失くしている、もしくは戸惑っている、というよりも、惚けていると考えていたに違いない。
特に龐公などは、そう決め付けて正体を暴こうとした。あの日の一件は記憶に新しい。
ただ、剣呑に眉根を寄せた薫水に、織史は自分が妖物と間違われていたことは、伏せておこうと心に決めた。
そのような話をした途端、それぞれの関係に亀裂が走るような気がしたからだ。
「この世界が東西南北の大陸と中央の地、それから天空域からできているのは以前に話したな。人が住むのは主に、東西南北の大陸で暮らしている。大陸…大土には、それぞれの“主神”と“皇帝”が存在するんだ。いわば、人々の生活を統治する者と、大土そのものに影響を与える存在がいるということだ。皇帝は民から選ばれ、主神と心を通わせることで大土を治めている。まあ、主神によって皇帝が定められると言っても過言じゃない。対して主神は、聖地より任命される尊い存在で、その名の通り“神”に等しい」
「自然神であるから、人の願いを叶えたり、逆に罰したりするような存在ではなく、その力を持って大土の状態を保つ要の存在だ」
「まあ、日本の土着神に近いと私は思っているよ。自然の力をその身に宿すが故に、尊く偉大だが、決して人を振り回す存在ではないからな。密着してはいるが、実際の統治は“人間”である皇帝が行うのだから」
「そうは言っても、皇帝とて戴冠すれば普通の人間とは異なってくるぞ。外見や…――」
「その話はまた今度な。取り敢えず、この世界の人々は己の暮らす大土の主神を信仰するものが殆どだ。中には主神の持つ気質で信じる神を決める者もいるが、恩恵や慈悲のために信じているのではないところが、少しややこしい。彼らにとって主神とは、信じる対象というだけでなく従うべき指標なんだ」
――指標……?
「それと言うのも、私達のいた国の“神”とは異なり……そうだな、生き神に近いかな。主神とは、神氣を宿している尊い存在だが、決して掛け離れた存在ではないのだ。何せ、現在の生活をしていられるのはその主神の存在があってこそだと、彼らは知っている。つまり、主神が居なくなると、大土の平穏が揺らぎ、生活に困難が来たす事実を彼らは理解しているんだ」
俄かには信じられない内容を、聞いているのだと思った。
無神論者とは言わないまでも、神様という存在を身近に感じない生活を送っていたために、突然「神様が実在して、生活圏を支えてくれている」と言われても、直ぐには実感できない。
そう、思っていた。
けれど織史の心は、薫水の言葉をするりと呑み込んだ。
それは渇いた砂に水が染み込むのと同じくらい、当然のことのように織史の意識に浸透した。
「まあ、既にその一柱神と出逢っているから、否定のしようがないと思うが…――」
――既に会っている? 神様と?
「なんだ、それも聞いていないのか……本当に奴ら、何も伝えていなかったのだな……」
「だが、東宮庭におったのだろう?」
キツネの問い掛けに、聞いた事のある地名が上がり、織史はこくりと頷いた。
まさか、あの地にも特別な何かがあるのだろうか。
知らずに過ごしていただけに、聞くのも少し恐い気がして、思わず両手を握り締めてしまう。
「東宮庭は東の宮。東は龐公の管轄だ。その時に説明されていると思っておった……が、それもなかった様子だな」
「ああ見えても奴は、東大土の主神だ。性格に難があるが、権威と神の能力は確かにある」
薫水の言葉に、織史は愕然とした。