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黒鶺鴒  作者: 美紅
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「薫水殿」

 庭に突き出る形で造らせた濡れ縁に腰掛けて、傍らの卓に並べられた花簪を手に取り眺めていた薫水のもとに、花が開くように語ると云われた蝉舞の声が、やや沈んだ様子で響いた。

「どうした、織史に付いて部屋に向かったのではなかったのか? それとも先客が居たか?」

「…ご推測の通りではございましたが。それよりも、お話ししたいことがあるのです。姫君のことで」

「織史のこと?」

「はい…。やはり、薫水殿には伝えておくべきかと思いまして」

「解った。まぁ、お前も座れ。蝉舞」

 薫水は持っていた花簪を置くと、椅子に座り直し蝉舞に席を勧めた。

「失礼致します」

「で、話しとは何だ? 長くかかるようならお茶でも用意するが?」

「いえ、それは…私の話を聞いてから、お考えいただけますか…」

 薫水はやけに沈んだ様子の蝉舞を訝しげに見る。その視線を受けながら、蝉舞はきっとお茶を用意されても、自分の話を聞いたら無駄になってしまう気がしていた。

「薫水殿。私が香りの調合で催眠をもたらすことができることは、以前お話し致しましたわね」

「ああ、知っている。だから織史の護衛をそなたにも頼んだんだ」

「では薫水殿も、姫君の眠れぬ理由をご存知でしたのですね」

「理由? いや、私は霄雲殿たちから聞いた程度だから、詳しくは――…」

「ならば、皆様はご存知ではなかったのですか…」

「蝉舞。そなた、何か見たのか?」

「…このようなこと、お話しても良いのか…」

「蝉舞。私の世界では、催眠療法と言って、眠りに誘うことで深層心理――普段は心の奥底で眠っているものを呼び覚まし、精神面での治療に用いることがある。それは、自分を守るために封印されたかつての記憶であったり、本人の預かり知らない別の人格であったりするらしい。詳しいことは知らないが、そなたの芳香を利用すればそれが可能であるだろう、と話を聞いたときに私は思った。だから、その香を用いたときに偶然にも織史の深層心理に触れたのだと言われても、私は信じる」

 薫水は真っ直ぐな視線で蝉舞を見詰める。その奥から覗く光に、蝉舞はぞくりと身震いした。

 おそらく、薫水は始めからそのつもりで織史に自分を付けたのだ。“偶然”にも織史の心の内に触れる為に。

 我が主ながら恐ろしいと思いながら、その眼に、蝉舞は紅を引いた唇を話すために動かした。

「どうやら、姫君は身近な者を眼の前で亡くされておいでです」

「身近な者…? 家族か?」

「いえ、それとも少し違った様子でございます……。“サイ”と呼んでおられたようで。唇の動きだけですから、音の確かは分かりませんが…自分のせいで亡くなったとも…。そしてその者と、こちらで再会されている様子なのです」

「ちょっと待て。それはつまり、向こうで亡くなった“サイ”がこちらで生きていた、と…?」

「そのようでございます。『また失いたくはない』と唇を動かされて、涙を流しておいででした…」

 有り得ない話だと薫水は思う。

 この世界は――確かに自分達の暮らしていた世界ではないのだが死者の世界というわけではない筈だ。

 たとえ自分が向こうで死してこちらに来たのだとしたら、自分のように生前の記憶が有る者が無に等しいというのはおかしい。それに世界の在り方が全く違う。それを、薫水はこれまでの生活で実感している。

 「眼の前で」と蝉舞が口にしていたから、それなりの様子を織史が見せたということだ。ならば自分たちのようにこちらへ来たとも考え難い。第一、そうならば何故、今一緒に居ないのか。会っているのならなお更だ。

 では、似た者と会ったのだろうか。

 けれど霄雲たちから聞いた話によれば、織史を見付けたのは叶君であり、この世界に戸惑ってもいたらしい。とするとこちらへ来た時に――叶君に見付けられる前にその人物と会っていたということだ。

 そう言えば、と薫水は霄雲の話を思い出す。

「確か織史は、呪術を掛けられていたと聞いた。声を奪われ、その身に獣を埋め込まれていたらしい。もしかすると、その“サイ”とやらがその件に関わっていそうだな」



 薫水が蝉舞から報告を受けている頃、織史は夢の中に佇んでいた。

 青い空。白いワンピースと風に揺れる黒髪。振られる白い掌。

 側に行きたいと思いながら、陽光が眩しくて、立ち止まり目を細める。

 その瞬間に、目の前が真っ赤に染まる。

 悲しくて哀しくて逃れたくて許されたくて、名を呼んでいた。

 返されることのない問い掛け。

 謝ることさえ、傲慢な気がする。それでも手を伸ばしてしまう自分が、愚かしくて涙が出る。

 ふと、名前を呼ばれて後ろを向くと、人影が見えた。

 何故かその人影が自分を呼んでいるように思えて、織史は一歩踏み出す。

 途端に黒い衣が目の前を覆って、身体を拘束される。

 もがこうとするが、身体は動かず、泥に纏わり付かれていくようだ。

 息苦しくて、口を開けると、何かを押し込まれる。

 身の内を逆流するそれが、酷く恐ろしいものだという感覚が走って、織史は必死に振り払おうとした。


――…っ!


 目を開けると、白い薄布の向こうに天井が見えた。

 何度かゆっくりと瞬きをして、呼吸を整える。

 ここが華殿で、自分に宛がわれた一室で、その寝台の中に自分がいることを、思い出してくる。

 じっとりと汗ばんだ首筋に手を伸ばし、指先で咽元を撫でる。

 声はまだ出ない。

 でも、食道に流し込まれた“何か”の感触が残っていて、ぞわりと肌が粟立つ。

 そして思い出す。

 流し込まれたのは、あの黒狻猊の仔どもだったことを。

 しかしあの人影を思い出そうとすると、頭痛とともに身体から力が抜けていく。

 再び襲う眩暈に似た睡魔に飲み込まれながら、織史は小さく唇を動かした。

――サイ……。

 閉じた瞼の上を、涼やかな花の香りが掠めて行った。

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