繋がる花(二)
「さて。そなたはまだ声が戻らぬから、気になることがあったらこの紙に書いて、私に示してくれ」
薫水は織史を椅子に座らせると、卓に白い紙と筆を置いた。
庭園に臨むテラスに戻ってきた織史は、聞きたいことなら幾つかあると、指先をうずうずさせながらその言葉に頷き返す。
途中で惺永と会い、お茶を用意するよう言付けた薫水は、卓を挟んだ向かい側に腰掛け、何から話そうかと目を天上に向ける。
「順に話してやれば良いだろう。お前が知っていることはそれくらいだからな」
薫水の後ろから、長椅子の上で寛いだ格好のキツネが言った。
「確かに。じゃあ先ず、私が最初に降り立ったのは、朱妃殿の水盤の上だった」
「……もう少し前の事から方が、良いと思うぞ」
「え、そうか? その前は、体育の授業で、バスケをしていた」
その言葉を聞いて、織史は早速筆を走らせた。
『やっぱり、華圉殿は日本にいたんですね?』
「そうだ。それで、外に出そうになったボールを追いかけて、跳び付いたところまでは良かったんだが、自分まで窓から飛び出してしまった。うちの高校は体育館が二階建ての上だったから、これはヤバイかもって流石に思ったよ」
薫水はその時のことを思い出したように、神妙な面持ちで言った。しかし微かに口許は緩んでいて、事態を重く受け止めていないように見える。
「ああ。勘違いしないでくれ。私は別に、死ぬのが恐くなかったのではなく、むしろ死にたくなんてなくて、どうしたら生きられるか、脳細胞総動員で考えたよ。時間にすればほんの僅かな間だろうに、やたらとスローだった。それに、私はたった数秒で生死を分けられることが無性に許せなくて、もがいた。そしたらその時、目の前に手が差し出されたのさ。勿論、直ぐに摑んだ。何も考えず、まさに藁にも縋る思いだったよ。今でもその感触は忘れていない」
にっこりと微笑んだ薫水の頬に、うっすらと朱が走る。
それが本当に嬉しかったのだと織史にも分かったが、その喜びを解ることはできそうにない。
まだ倦怠感が拭えない自分では、解った気になるのが精々だった。
「まあ、それで。気付いたら朱姫殿の水盤の上に転がった」
『シュキ殿?』
「朱妃殿は、当時まだ姫君だったから、そう呼ばれていたのだ。ご婚約はされていたらしいが、妃の位を与えられたのは最近で、朱妃殿と呼ばれるようになったんだよ」
「同一人物ということだ。現在、“朱姫”はいないからな」
「紙を見ている訳でもないのに、よく織史の疑問が分かるな、キツネ」
「お前の話から察しているだけだ」
「その察しの良さは、出会った頃から変わらないな……。すまない、話を戻そう。それで私は、朱姫殿と叶君に話を聞いて、ここが日本ではないこと、自分の世界とは異なることを知った」
「なんだ、あの事は話さぬのか?」
「今は必要ないだろう。えっと…それで、一先ず部屋に入れられたんだが、そこでキツネと出会った。しかもキツネは、一目見て私を異なる世界の者だと見破ったんだ」
「纏う氣が尋常ではなかったからな。それで、水盤に降った娘の話を聞いたのさ」
『まとう、気?』
「それに関しては、私もあまり詳しくないので、霄雲あたり聞いてみるといい。喜んで教えてくれると思うぞ」
含みのある笑いを向けて、薫水は話を続けた。
「まあそれで、キツネと会った私はその後、自分を助けた“手”の持ち主を探すために南を出ることにした。勿論、私はこの世界に来たばかりだし、右も左も分からなかったのだが、その点はキツネが教えてくれた。私は気になることを口にし続けて、道を辿ったんだ」
『気になること?』
「私は、夢で何度かその手の持ち主に会っていたんだ。こちらに来てからはその回数が減ってしまったけど、導き手は無責任ではないのだよ。そなたにも、その“導き手”がいると思うのだが、心当たりはいるか?」
織史は静かに頷いた。
おそらく、自分の導き手は“声”の主だろう。
いつだったか、自分がこちらの世界に呼んだようなことを話していたことがあった。
それをすんなりと認めていたのは、どうでもいいと思っていたからではなく、織史が一度聞いた気がしたからだと、今なら思う。
おそらく自分は、一度その“導き手”に会っている気がするのだ。
「思うところがあるのであれば、それを大切にしろ。必ず、辿り着くためには持ち続けることが肝要だ」
「そうだな。薫水が途中でどうでも良いと投げ出していたならば、宮様は今も何処かで泣いておっただろうからな」
『宮様?』
「ああ。私の“導き手”は宮様だったんだ。宮様は、この華殿を所有されておられる方で、機会があれば紹介してやりたいところだが、今はお忙しい身でな。どこぞの馬鹿公が手当たり次第に雷雲を遣ったものだから、その後処理をされておられるのだ」
「そう言ってやるな。奴はあれで北との国境問題を黙らせたのだ。一悶着起きる前に小さく済んで良かったと、叶君や朱妃からも宮様に嘆願書が上がったのだろ?」
「だがお蔭でこちらばかりが矢面に立っているのだぞ。それでよくのうのうと顔を出せたものだ」
「はは。しかしその流れで此処にお前がいたからこそ、この娘とも面会が叶ったのだろ?」
「それは結果論だ。第一、私が此処にいるのは常のことだ」
「しかし謹慎中であるがために、こうして時間もある訳だが?」
「……その点は認めようじゃないか。しかし…――」
「失礼致します。薫水殿」
突然扉の向こうから声が掛けられて、薫水は話を止めると扉に向かって行く。
声を掛けたのは怜永で、ふたりは扉の向こうで二言三言、言葉を交わすと薫水は蝉舞を伴って戻ってきた。
「すまない、少し席を外す。お茶は蝉舞と過ごしてくれ」
「ご所望頂ければ、歌も歌いますわ」
髪に飾った牡丹の花を揺らし、ルビーの輝きを放つ紅い目を笑みの形に細めて蝉舞がお辞儀をした。
その向こうで、キツネが長椅子から立ち上がり薫水の側に寄る。
「呂伎はどうした?」
「今は外に居る。キツネ、お前にも話がある」
「……分かった」
溜め息混じりにキツネは返して、一足先に廊下に向かい始めた。
それを横目に、薫水は織史に向き直ると真っ直ぐな視線を注いだ。
「また話をしよう。私に答えられることは、是非聞いて欲しいからな」
『ありがとうございます。華圉殿』
「そうそう。私のことは薫水で良いよ。私も、織史と今は呼ぶ」
小さく笑って、薫水は部屋を後にした。
織史はその背を見送って、今度は蝉舞から茶の淹れ方を教わりながら時間を過ごした。