銀色の枝葉
「こちらが、貴女様のお部屋でございます」
惺永に案内され、織史は大きな扉の前に立った。
花のような紋様が彫られたその扉は、左右に立てられた松明によって上部が影に覆われ、ただでさえ荘厳な様相が迫力を際立たせている。
「惺永殿。先日の文書のことでお話しがあるのですが、宜しいですか」
「わかりました。今参ります」
突然掛けられた声に、惺永は手にしていた燈篭を声のした方に向けてそう応えた。
備え付けられた照明の仄明かりに照らし出されていたその人物は、龐公を“セイシンコウ”と呼んだ男性で、自分達を最初に案内してくれた人物でもあった。
三十代前半と言った面立ちだが、毅然とした態度と歳に似合わぬ威厳と気迫を放っていて、少々近寄り難さを与えている。
「お部屋の中はご自由にされて結構ですが、外に出られる時やご用のある際には枕元の鉦を三回鳴らして下さい。それでは、私はこれで失礼致します」
惺永は礼を済ますと足早に廊下を戻り、男性と共に何やら難しげな話をしながら奥へと消えて行った。
織史は燈篭の明かりが見えなくなると再び目の前の背の高い扉を仰ぎ、気を取り直すようにして取っ手に手を掛けた。
重い扉を押し開けると、中は廊下と対するように明るく、穏やかな光に包まれていた。
「おや、客人か?」
突然誰も居ない筈の室内から声がして、織史はビクリと身を震わせた。
氷のように澄んだ声音は女性のようだったが、聞き覚えは無い。織史は辺りを見回した。
声の主は意外と早く目に付き、寝台から少し離れた長椅子に、その人物は寝そべって居た。
青灰色の長い髪は流れる水のように肩や椅子に掛かり、絹糸のような輝きを放っている。濃紺の衣から伸びた白い手には朱色の杯が乗っていた。
「そんなところに突っ立って居ないで、こちらに来てお前も飲め」
その人物はそう言って織史を手招きし、重ね置かれていた杯を用意すると徳利から酒を注いだ。
――私、お酒は飲めないんだけど…――
そう思いながらも、織史は足を進めて手前の一人用の椅子に腰を下ろした。
「その服装からすると、東の者か?」
差し出された杯を受け取りながら、織史は首を横に振る。それを見て目の前の人物は眉を顰めた。
「東から来たのではないのか?」
これにもまた、首を振り返す。東の出身ではないが東の国から来たのは確かなのだ。
どう答えようかと戸惑っていると、その人物は椅子に座り直して織史を見る。
「まぁ、そんなことはどうでも良いがな。さぁ、飲め」
織史に微笑みながら、自分の杯を呷る。それに倣って杯に唇を寄せると、口の中に酒の味が広がった。続いてほんのりと甘い果実の味が舌の上で踊る。けれどやはり酒の香りに再び口を付けることには気が引けた。
そこへ突然、背後の扉をノックする音が響いた。
「失礼するぞ」
声と共に部屋に入って来たのは、華圉だ。華圉は室内を見て直ぐに眉を顰めた。
「どうして此処にキツネが居るんだ」
後ろ手に扉を閉めると、相変わらずの大股で側まで歩み寄り、長椅子の上の人物にそう訊ねた。そして、問いただすような強い視線を注ぐ。
「入って来て早々にそのような顔をするな、タクミ」
「何故ココに居るのかと訊いているんだ」
「こやつのことは気にせず、さぁもう一杯飲め」
華圉の怒りを他所に、織史のまだ酒の残っている杯に徳利を寄せる。
「未成年に酒を勧めるな」
言って織史の杯を卓に置き、華圉はキツネを睨め付ける。そして聞き慣れた言葉に、織史は顔を上げた。
自分は、華圉に歳を話しただろうか。それよりも、この世界でも成年という概念があるのだろうか。
「そなたも律儀に酒を受けんで良い」
「まったく…。酒の席を濁すことほど無粋なものは無いぞ。一体何の用だ、タクミ」
溜息混じりでそう訊ねると、華圉は思い出したように織史を見返し、手にしていた布袋を開いた。
「霄雲から話を聞いた。文字は書けるだろう?」
確かめるように聞かれ、織史は俯くように頷いた。
それを見てから、華圉は織史の前に書き物の道具を並べていく。細い竹製の小筆から半紙のような紙まで一通り揃え終わると、墨壺の蓋を外す。
「名は、何と申すのだ?」
言われて、織史は筆を取った。
――織史。
「オリフミという字はこう書くのか。叶殿に名付けられたと聞いたから、てっきり香りの字かと思っていたが…。まさか薫物姫を引用するとはな。流石だ」
「タキモノヒメとは何だ?」
「“薫物姫”と書き、織姫星の方が分かり易いな。以前話しただろう、七夕の主役だ」
一瞬、織史は耳を疑った。今、華圉は七夕と言った。自分の居た世界の行事を、華圉は知っているのか。それとも同じ風習がこちらにもあるのだろうか。
織史は華圉の顔をまじまじと見入ってしまう。そんな織史の視線に気付き、華圉は喉の奥で笑う。
「そんなに驚かなくとも良い。私も色々とあって……。あぁ、私の名はリョウドウ タクミと言うのだが、職業柄皆からはカギョと呼ばれている」
――凌藤 薫水 華圉。
珍しい名だと思う。こちらの世界ではあまり聞かなかった名だと。それに、凌藤というのは姓だろう。こうして挨拶されたのはこちらにきてから初めてだ。霄雲に名の字は教えてもらったが、姓を名乗られたことは無い。
「――それから、そなたの警護をする者を紹介しよう」
華圉――薫水はそう言うと、扉まで歩いて行き引き開けた。するとその向こうで男性の驚き、慌てた声が上がる。それに動じることなく、薫水は「お勤めご苦労」と述べた。
まるでタイミングを見計らったような薫水の動きに、織史も首を傾げる。
――なぜ、人が来ると判ったんだろう――
そんな織史の心内をよそに、薫水は二人の下に戻り入り口に向かって声を掛ける。
「二人とも、こちらへ来なさい」
薫水の言葉を受けて扉の前に佇んでいた女性と男性が、織史たちの方へ歩いて来る。
髪に牡丹の花を飾った女性は、まるで天女のように優雅で、舞うように軽やかな仕草で歩く。紅玉のような丸い瞳は愛らしく、しなやかに伸びた手足は白く妖艶な印象を与えた。
舞姫のような女性に対し、男性はギラリと光る瞳が獰猛な獣のようで、逞しい腕と共に見る者を圧倒させる。装飾物を幾つか身に付けているものの、華美というよりも屈強さを後押しするものだ。
二人は薫水の横に立ち並ぶと、慣れた様子で膝を折る。
女性は織史と目が合うと、花が開くよりも艶やかに微笑みを返した。
「突然呼び立ててすまなかった。二人に、こちらの姫君の護衛を頼みたいのだ」
「御意」
応えたのは男性の声だ。薫水はそれに軽く微笑む。
「名は織史殿だ。今は口が利けないが、言葉は解る」
「ご病気で?」
「いや、何者かに呪をかけられているらしい。そして今も、命を狙われているそうだ」
「それは大層お気の毒でございますこと…」
「だからこそ、二人に頼みたい」
女性は話を聞き、顔を曇らせた。そして静かに織史の前へ進み、その手を取る。
「貴女様のことは、私たちがお守りいたします。どうぞご安心下さいませ」
近くで微笑まれると、それは本当に天女の笑顔のようで眩しく感じられ、織史はその表情にドギマギとしながら頷き返した。同性だけれど、思わず見惚れてしまう。
「こちらがセンブ。そして――」
「某はリョギと申します。この身に代えましても貴殿をお守り致します。ご安心召されよ」
呂伎は蝉舞と同じ様に織史の手を取り、額に当てた。