蓮の音(二)
闘いの場面になります。
流血描写はあまりありませんが、突飛的な部分かもしれません。。。
声のする方へ駆けて行くと、そこは織史が初めて東宮庭で案内された池のある中庭である。その東屋で、彬矢の演奏を聞いたのは記憶に新しい。
白木を基調とした舞台の少し手前、東屋とは逆の位置に繋がる石造りの橋の上に、彼らは居た。
五人の黒衣の者たちと、あの黒狻猊が対峙している。
さらに進むと、三人の術者らしき者の手からは青白い光が伸び、それぞれ黒狻猊の体に巻きついているのが見えた。それを囲むように、数名の兵士が一緒に居たが、彼らは宙に浮いた中心者たちの出方を窺っているのか、なかなか近付けずにいるようだ。
事実、ここに至るまでに暴れていたのだろう。辺りには血が点々としていて、白木の欄干にもその痕が跳ねていた。
そして今も、目の前で黒狻猊の体からは、赤い花弁のように鮮血が散っている。これでは容易に近付くことはできそうになかった。
しかし、三頭の姿を目にした瞬間、織史の体がざわついた。気付けば傍らの兵士から剣を奪い、織史は血が騒ぐままに大地を蹴って、彼らの前に躍り出た。
「――おぉっと。本命のご登場か」
一人の黒衣の者が言った。声音からすると、年配の男のようだ。摺鉦でおろしたようなざらついた声が、小さく笑っている。
金属が空気を走る音がしたが、織史の目的はこの男ではなかった。
黒狻猊に術を掛けている黒衣の者。彼らこそが最優先対象だ。
故に、男の剣は空を切り、織史は術者の両手に剣を振り下ろす。
それを寸でのところで避けた術者だったが、手から放たれていた光は織史の剣によって断ち切られた。
光の鎖から逃れた黒狻猊は、その場で身を翻し、織史の身体を受け止めると、直ぐに二人目の術者へと向かう。まるで心が通じ合っているかのように、ふたつの動きは呼応していた。
相手の黒衣の者たちも、二人目、三人目の援護に向かい動き始めるが、それを視界の端で捉えた織史は、彼らに隙を与える前に、織史は剣を構えて二人目の眼前に跳び下り、黒狻猊は三人目に黒曜石の如き爪で襲い掛かるという同時攻撃を仕掛けた。
それが功を奏したのか、織史は二頭目の黒狻猊に受け止められながら、解放した三頭とともに五人と向き合う形となった。
奇しくも、東屋側の空には黒衣の五人。舞台側の石橋に黒狻猊を連れた織史が立っている。龍を背負った織史の姿には、居合わせた兵士達も思わず感嘆する程の気迫があった。
「ふむ。人も増え、これでは少々部が悪いか……」
中心に立つ男が、辺りを一瞥して、顎に右手を添えながら言った。
「なれば早急に片付けさせていただくとしよう。遊んでやれず、済まないな。お嬢さん」
男は言うなり両手で印を組むと、短く息を吐いて前方に手刀を放つように両手で空を切った。
途端、突風が吹きつけ、辺りを風の輪が取り囲んだ。
まるで竜巻の中心にいるかのように、風の壁一枚を挟んだ向こう側で、兵士が跳ね飛ばされて行く。
その向こうから霄雲が織史に駆け寄ろうとしたが、兵士達に抑えられているのが見えた。
他の人間を隔ててくれたのは、こちらとしても好都合だ。織史は真っ直ぐに彼らを見据え、剣を構え直す。側に立つ黒狻猊も、唸り声を上げて彼らを威嚇した。
「おお、おお。まさか黒狻猊まで従えるようになったとは……。なれば、こちらの獣は如何かな?」
男は怯む事無く口許に笑みすら浮かべて、親指を噛むと、その血で手の甲に印を結んだ。そこに術者が呪文を口にすると、光とともに大きな獣が現れた。
褐色の毛並みに虎のような顔と闘牛のような体躯。それに太くて鋭い牙が二本、鼻先から突き出ている。
その獣が咆哮を上げるのと同時に、織史の横から黒い影が走った。自分よりも大きな体の獣に、彼らは猛然と立ち向かったのだ。
鋭い爪が空を切る音。肉に触れ、血飛沫の上がる音。怒りに震える獣の嘶き。それらに混じりながら、織史は欄干に足を掛けた。
狙いは、術者の男、ただ一人だ。
辺りに立ち込め始めた血の匂いは、三頭の黒狻猊のものが多い。ならば、一刻も早く彼らの手当てをする必要があると踏んだ織史は、早急に決着をつけようと踏み出したのだ。
しかし、男の前に剣を振りかざした瞬間、術者の一人が割って入る。その体を薙ぎ払うように剣を振り抜けば、術者の体は影のように揺らめいて霧散してしまう。
思わず目を見開く織史の前で、男はにやりと笑った。
――しまった……っ!
身を返して剣を盾にしたものの、織史の左腕を獣の爪が掠める。二頭目を、召喚されていたのだ。
跳ね飛ばされ、水に落ちる直前で、黒狻猊が織史の衣を引いた。お蔭で石橋の上に足を付くことができたが、その目の前で黒狻猊の体が獣の凶牙に掛かる。
織史はすぐさま切っ先を獣に向け、その牙を突き放しに掛かるが、鋼のように硬い牙がそれを阻んだ。
金属とぶつかりあう硬い音が響き、腕に痺れるような重圧がかかる。
指先に力をこめて抑えるが、徐々にその腕も押されてしまう。
獣の口から零れた生ぬるい涎がボタボタと衣服に滴り、鼻を突く臭いが嫌悪感を誘う。
――放せっ!!――
織史は叫ぶように口を開き、腹の底から発するように言葉を出す。その刹那、織史を中心に風が湧き起こり、突風となって術者にぶつかった。
辺りに木の葉が舞い、それを切り付ける風の音が細かに響く。
見れば男の作り出した竜巻の壁も、その風に押さえ込まれて、術者に反動が襲っている。
欄干に立っていた兵士達は腕で顔を覆い、線上の傷をその籠手に受けていく。
目も開けられない程に、無数の刃が飛び交っているようだ。それは霄雲や彬矢、駒羅も同じであった。
「織史殿っ」
髪や衣の裾を巻き上げながら風の中を進む織史を視線の端で捉え、霄雲は側へ寄ろうとする。しかしその腕を龐公が抑えた。
「何を!?」
「少し様子を見ろ。…感じないか、あの娘から妙な氣を…」
言われて、霄雲も感覚を走らせた。確かに不思議な氣が織史から感じられる。
このような突風を生んでいる膨大な氣。織史から感じるものなのに、どこか覚えのある氣の感覚。
霄雲は微かに眉を顰めた。
目の前に立つ彼女は、確かに織史のままであるのに、内側から沸き起こる怒りと哀しみに覆われたその空気は、全くの別人のようだ。つい先日、黰宮が強襲された折に剣を取った彼女よりも、一層鬼気迫った雰囲気を纏っている。
さらに織史は、霄雲の予想を超えた行動に出た。
右手を静かに持ち上げ、指先を払うように前へ向ける。するとその流れに従うかのように、池の水面から水飛沫が上がった。それは波というよりも、水でできた一本の刃となって、術者に襲い掛かったのだ。
それに驚いたのは霄雲だけではない。敵方の術者も、まさか織史がここまでの力を擁していたとは知らなかったのだろう。慌てて防御壁の陣を組もうとするが、既に遅い。
一気に術者二人を呑み込んだ水柱は、さらに黒狻猊を抑えた獣に向かう。
最初はその表皮に阻まれた水流も、次第に威力を上げ、まるで一閃の槍のように獣の身体を貫いた。
そこからは、ほぼ一方的になるかと思われたが、中心の男は急に身を翻し、後ろに控えていた人物が陣を描くと、ふたりともその陣に吸い込まれるようにして消えてしまう。
追うように水流を飛ばしたが、収束する光に跳ね返され、雨となって辺りに散った。
術者が居なくなって、織史は気が抜けたのか、その場に崩れるように膝を付いた。
額には玉の汗を浮かべて、顔色も血の気が失せている。それでも、彼女は身を奮い起こして、倒れた黒狻猊のもとににじり寄った。
「――さて、これは急がなければならないようだな…」
風の止んだ周囲の様子を見回しながら、龐公は溜息混じりに言った。
織史はそんな龐公の言葉も知らず、黒狻猊たちに寄り添い、血の流れ出る傷口に手を当てている。指の間から滲み出るその血と温もりに震えながらも、織史は声の出ない口で彼らを呼び続けた。
――しっかりして!――
この光景は、嫌な記憶を甦らせる。
錆びた鼻を突く臭いと、指先に触れる生温かい液体。掌を介して伝わってくる鼓動と体温が、自分の感覚までも凌駕する。視界が揺らいで、目の前の姿が変わり行くのを許したくない。
涙を流しながらも、織史は必死に彼らの魂を繋ぎとめようと、衣を裂いて止血しようとしていた。
その様に周囲の兵士達は驚いていたが、霄雲や駒羅、彬矢たちの指示を受け、黒狻猊の手当てを優先的に行ない始める。
いくら戦闘や騎獣として能力の高い黒狻猊と言えど、所詮は獣だ。今は出血量が多く、気を失っているようだが、これほどの怪我を負ってしまうと、本能的に気が立って人など近付けなくなる。手当ては困難を極める。
しかも黒狻猊は誇り高く、弱みを晒すような種族ではない。少しでも気を抜けばこちらが跳ね飛ばされて痛手を受けるだろう。このような場合には、暴れる前に安楽死をさせる薬を打つのが常套手段である。
それでも、主からの命に従い、兵士達は治癒術師を呼び、麻酔針を打ちながら懸命に処置を施していった。
中には織史の姿に感化された者も、少なくはない。
声は聞こえずとも、彼女が黒狻猊に寄り添い止血を行なう姿は、確かに胸を打つものがあった。
自らも、腕や頬に傷を負っているというのに、その瞳は目の前に倒れる獣に向けられている。献身的な姿は、光さえも纏っているようであった。
次回で、別の場所に移ります。