序~囚われの夜~
人名以外のルビが控えてあります。また、若干の時代劇要素を含んでいるため、言い回しが読み難い場合(人物・名称)があると思います。
何か疑問やお気づきの点があれば、気兼ねなく教えて下さると助かります。
――我を殺して浄化し給え――
何度も何度も呟き、何度も何度も書き綴った。
しかし声は届かず、地に埋もれるばかり。
涙すら流れない。
血脈すら温もりを感じない。
目の前に広がるのは闇ばかり。
「誰か、私を殺して…」
何度と無く吐き続けた言葉を再び口にした。
今にも泣き出しそうなほど潤ませた目からは涙が零れることも無く、ただただ虚空を見詰め、何かに訴え続けている。そして膝を抱えて、小さな身体を丸めながら俯いた。
漆黒よりも深い闇を携えた瞳と、言い様の無い感情に歪められた林檎色の唇。月明かりに映える紅潮した白い肌と鴉の濡れ羽のごとき黒い髪。
少女というよりも大人びた、乙女というには幼さを感じさせる、曖昧で形容し難いその姿態と容貌は少なからず人目を引く。
陽が入り、夜の闇の中で月明かりだけに照らし出されたその躰は、太陽の下で目にするよりも数段と輝きを増している。しかしそんなことは、本人にとって何ら関心のあるものではなかった。
心を動かすものはただ一つ。
「…私を、殺して…」
掠れた、震える声でもう一度呟いた。
その声は変わらず冷えた闇の空気に溶け込む――筈だった。
『その願い、真に心の声ならば、汝が魂、我が貰い受けようぞ』
「え……?」
誰も居る筈の無い部屋に、自分以外の声が響いた。
顔を上げて周囲を見回す。当然ながら目に映るのは無人の場所。見慣れた家具と部屋の様子だけだ。
ただ少し、息苦しさを覚えた。
大地から湧き上がってきたように低く、重たさを感じさせるその声に聞き覚えは勿論無い。
しかし優しさと親しみを感じ、冷静にも似た気持ちがその身を包んだ。
『――その願いに、偽りは無いか?』
「……それは、あなたが私を殺してくれるということ?」
『今の汝を殺め、新しき汝を生む』
「私を生まれ変わらせようということ?」
『汝が望むのなら、それも良い』
「私は、生まれ変わることなんて望みはしないっ」
強く芯のある声で言い放つと、息を吐くように空気が揺らいだ。
『では、何を望む』
「私という存在の、完全なる死」
淀みの無いはっきりとしたその言葉に、“声”は再び揺れる。
『何故、死を望む』
抑揚の無い“声”だけのそれがあまりにも優しく、包み込むように胸に響いた。
「……この世界は腐りきってる。けど私には成す術もなく見ていることしかできない。どんなに声を上げても、聞き入れてくれる者も居ない。嘆くことしかできない身で、この世界に必要ともされない存在でありながら生き続けることなど無意味だわ。…だけど私は自分の手で死ぬことが出来なかった。理由は分からないけど、今もこうして生きているのはその所為。だから、私を殺してくれる存在を、この世界から排除してくれるその手を、ずっと望んでいる……望みはそれだけよ」
懺悔のような彼女の言葉に返事は無く、沈黙が拡がった。
(あの声は、ただの夢ね……バカみたい、惨めだわ……)
自嘲しながらこつりと壁に額を当てると、突然その場所が光り始めた。
丸く、月の影がそこに映し出された様に輝くその場所に、そっと手を伸ばす。
(温かい……?)
指先から感じたその温もりに眉を顰め、真っ直ぐに見詰めると、硬質である筈の壁が水面のように揺らいだ。
『汝が魂。我が貰い受ける。異存は無いか』
壁からあの“声”が聞こえた。
夢ではなかったのだと思うと、ゴクリと喉が鳴る。
「……この世界の、私の存在を消してくれるのなら……」
『心得た』
短く“声”が答えると、水中に引き込まれるようにして光る壁に吸い込まれる。
室内には、再び静寂が訪れる。何事もなかったかのように、変わらぬ宵闇が満たしている。
異なるのは、主を失くしたことだけ。