第7話 お前の態度次第だよ
真紀と会う約束は、前からしていた。
花のことは直樹に頼んであったけれど、金曜の夜、私はもう一度確かめた。
「明日、お昼前に出て夕方までには帰るね。花のこと、お願いしてた通りで大丈夫?」
「……真紀さんね」
「うん」
「ああ、いいよ」
返事を聞いて、息をついた。
制服のことを真紀に聞いてほしかった。自分の見間違いなのかもしれないと考えては、電話中の直樹の顔を思い出す。その繰り返しで疲れていた。
翌日、花の昼食を用意してから着替えた。
鞄を肩に掛け、ソファの直樹に声をかける。
「じゃあ、そろそろ行ってくるね。花、お昼はパパと――」
「あ、今日は無理」
玄関へ向かいかけた足が止まった。
「え?」
「俺も予定ができたから」
「今から? 昨日も大丈夫って言ったじゃない」
「急に決まったんだよ」
私は時計を見た。真紀も、もう出る頃だ。
「何時から? 私、早めに帰ってくるから」
「そういうの、いいから。お前が断れば済むだろ」
「でも、もう――」
「だったら、早く連絡してやれよ」
花が鞄の紐をつかんだ。
「ママ、行かないの?」
「……ちょっと待ってね」
娘の前で言い合いを続けたくなかった。
廊下へ移り、真紀に電話をかけた。直樹が急に花を見られなくなったと伝えると、真紀は驚いたあと、分かったと言ってくれた。
「本当にごめんね」
通話を終えたとき、居間からゲームの起動音が聞こえた。
直樹はコントローラーを握っていた。
「……出かけるんじゃないの?」
「何で?」
「予定があるって」
「今日はゆっくりゲームする予定なの」
私は入口に立ったまま、夫を見た。
靴も履いていない。服も着替えていない。最初から、ここを出るつもりなどなかったのだ。
「ゲームするから、花を見られないってこと?」
「疲れたから、今日はゆっくりしたいんだよ」
画面の中で、明るい音楽が流れた。
花が私のそばに来たので、私は唇を結んだ。ここで娘の世話を押しつけ合うような言い方は、したくなかった。
鞄を下ろしかけたところで、スマートフォンが鳴った。
『花ちゃんも一緒に来ない? 少しでも会えたらうれしい』
真紀からだった。
私は画面を二度読んで、花の前にしゃがんだ。
「真紀おばちゃんに会いに行こうか」
「ママと?」
「うん。一緒に」
「行く!」
直樹と二人で食べるはずだった昼食を片づけ、娘の外出の支度をした。少し遅れることを真紀に伝えると、待ってると返ってきた。
その短い返事のおかげで、靴を履けた気がした。
「結局、行くんだ」
直樹が廊下に立っていた。
「花も一緒にって、言ってくれたから」
「また俺の悪口の相談?」
花の手が、私の手の中で動いた。
「……友達に会いたいだけだよ」
私は娘の手を握り直して、ドアを開けた。
*
喫茶店で、真紀は最初に花へメニューを見せた。
「何にする?」
「オレンジジュース!」
娘がケーキの写真を眺め始めると、真紀が私に目を向けた。
「……大丈夫?」
「うん」
「何か、あった?」
聞いてほしいことは、たくさんあった。
けれど、花の隣で父親の話をする気にはなれなかった。私は娘の髪を耳にかけ、それから真紀を見た。
「あとで聞いてもらってもいい?」
「もちろん」
「ありがとう。今日、顔見られてよかった」
「私もだよ」
花はジュースの氷をストローで動かし、学校の友達の話をした。
真紀は相づちを打ちながら笑っている。
椅子に深く腰を掛けたのは、店に入ってから、ずいぶんたってからだった。膝に抱えたままだった鞄を、隣へ下ろした。
花がいるので、大人同士の話はできなかった。
それでも、来てよかったと思った。私が訪ねてきたことを、うれしいと言ってくれる人がいる。そのことを、家にいると忘れそうになっていた。
*
夜、花が寝てから、直樹に聞いた。
「今日のこと、わざとだったの?」
「何が?」
「私が出かけられなくなるって、分かってたんでしょう」
直樹はしばらく私を見ていた。
「……お前だって、分かっててやっただろ」
返事が出なかった。
はぐらかされると思っていた問いに、別の出来事が結びつけられた。
「あの日のこと?」
「俺が困るの、分かっててやったんだよな」
「だから、制服も……?」
直樹は否定しなかった。
私は膝に置いた指を丸めた。
「私、謝ったよ。悪かったって。本当にそう思ってる」
「謝ったら終わりなのか? それ、お前が決めること?」
その言葉には、すぐに答えられなかった。
許してほしいからといって、許す時期を私が決めていいわけではない。
でも、いつまで怒っているかという話と、私を遅刻させてもいいかという話は、同じなのだろうか。
「俺に、やられた方の気持ちを教えたかったんだろ。だったら、お前も分かってよかったじゃん」
「……いつまで、こんなことするの?」
「お前の態度次第だよ」
直樹は迷わず言った。
「私が困れば、気が済むの?」
「嫌なら、俺を怒らせるようなことするなよ」
何をすれば、怒らせずに済むのか。
謝ったら足りないと言われ、友達に会えば悪口だと言われる。制服を触らないでほしいと頼めば、善意を疑うのかと言われた。
次の朝、何がなくなっているのか。次の約束は、守ってもらえるのか。
夫の顔を見ながら、そんなことを考えていた。
翌日の夕食で、直樹は私の皿を見た。
「これ、もらうぞ」
「待って。私、まだ食べてる」
止める声を聞きながら、箸が伸びてきた。
肉を口へ入れた直樹は、私から目を離さなかった。
「お前だって、俺にやったじゃん」
もう、気づかなかったのではなかった。
私が食べるつもりだと知っていて、取っていた。
「……もう取らないって、言ったのに」
花の声がした。
「花のは取ってないだろ。パパはママと話してるんだよ」
娘は自分の皿を抱えた。
二週間かけてようやく離れた両手が、また縁に戻っていた。
「花、こっちにおいで」
私は娘の椅子を隣へ寄せ、二人の皿を夫から遠い側へ移した。
「そんなに警戒しなくてもいいだろ」
直樹が笑った。
私は笑えなかった。
私が黙っていれば済むのではない。
隣で花が、その黙り方を覚えてしまう。
その夜、食卓を片づけてから、家計のメモを開いた。
夫の食費をどう減らすかを考えるためではなかった。
花と二人で暮らすのに、いくら必要なのか。
私は初めて、その計算をした。





