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第8話 孤児院の闇 ― 逃げる子らの声

「……お願いです。助けてください」


 厚い扉がきしみを上げた刹那、痩せこけた少年が膝から崩れ落ちた。黒い石床に小さな掌がぶつかり、乾いた音がひとつ跳ねる。


 まだ十歳ほどか。頬はこけ、唇は裂け、泥にまみれた素足は震えている。腕には縄の痕が赤く残り、怯えきった瞳だけが闇の中で大きく光っていた。


「大丈夫……? 怪我してるわ」


 私は椅子を蹴って立ち、裾を払って少年へ駆け寄る。黒のローブが床でさざめき、肩に手を置くと骨の細さが掌に刺さった。彼は体をすくめ、擦れた声を途切れ途切れに絞り出す。


「ぼ、僕……孤児院から……奴隷商人に……売られそうになって……逃げて……追いかけられて……」


「落ち着け。ここは安全だ」


 低い声。カインが黒衣の裾を翻し、私の隣へ影のように立つ。黒曜の瞳が少年を掬いあげるみたいに射た。彼が顎をわずかに引くと、部屋の空気がきゅっと引き締まる。


「水だ。温かい布も」


「はい」


 私は走って湯を汲み、ヴェラが薬草を一片落として香りを和らげる。布を温めて少年の額に当てると、こわばった肩が一度大きく震え、呼吸が浅く整いはじめた。リディアは壁にもたれて口笛を短く鳴らす。


「孤児院が子どもを奴隷商人に? へぇ……笑えない冗談だわ」


「事実なら、看過できない」


 ヴェラの碧眼が冷たく瞬く。


「他の子達がまだ……」


 少年は涙をこぼした。指は細く、泥の下の皮膚は裂けている。


 私は静かに立ち上がり、文書庫に置かれた箱の蓋を開けた。中から因果カードを取り出すと、闇を吸った板がかすかに震える。両手にその重みを受け止め、ひと呼吸おいて少年の前へ戻った。


 ひざまずき、板をそっと差し出す。私の魔力に呼応し、因果カードの底で淡い光が脈動し始める。


「これを握って。名を胸の内で呼んで。恐怖も、悔しさも、全部そのままに」


 少年はおそるおそる両手でカードを受け取った。瞬間、目に見えないはずの糸が、血脈のように空気を走る。私は呼吸を数え、掌から糸を落とす。黒の底に、薄い蒼が滲んだ。


 ――証言の糸。


 院長室の扉の向こうで震える声。太った男の笑い。少女のすすり泣き。

「娘は処女でないと高値がつかん。奉仕はさせるが最後までは駄目だ」――冷たい言葉の刃。


 ――記録の糸。


 寄付帳簿の不自然な支出。「清掃」「修繕」の名で流れる金。印影の新旧の違い。紙の繊維の若さ。書記局の印の不在。


 ――物証の糸。


 荷馬車に押し込まれた擦り傷。鎖の輪が腕に残した赤。倉庫の札に刻まれた符丁。「未使用」「保留」「戻し」の冷たさ。


 三本の糸が立ち、空にまっすぐ伸びる。私は指先をそろえ、ゆっくり束ねた。絡まらず、遠ざからず、橋脚に向かって収束させる。糸が一瞬きしむ。私は呼吸へ戻り、四つ吸い、四つ止め、四つ吐いて、結び目をほどかず締める。


 因果カードの面に淡い光の帯が走った。黒の底から浮かび上がる、白い一行。


 ――ノエル。


 依頼者の名が光に刻まれる。罪の署名ではない。返却の橋に結ぶための媒介の誓名。光は静かに薄れ、板の底へ吸い込まれた。


「……確かに、因果は繋がっている」


 私は立ち上がり、仲間たちを振り返る。


「この子の言葉は真実よ。孤児院の院長が、子どもたちを売っている」


「記録する」


 エリアスが眼鏡の奥で瞳を光らせ、卓上の記録帳へ細い文字を走らせる。


 ジークは無言で拳を握り、ゆっくりと開いた。


「相手に奴隷商人がいるなら、武力の備えも要る」


「要るが、刃は最後だ」


 カインが短く告げる。声音は低く、揺れない。


「掟は守る。“三系統が揃うまで断罪しない”。“私情で動かない”。“身元は秘す”。“奪ったものは返すが、余計なものは奪わない”。“仲間は見捨てない”。――今夜から動く」


 白銀の髪を結ったヴェラが軽く頷く。その仕草とともに薬草の香りが漂った。


「指示を」


「リディア。裏路地の奴隷商人を追え。“灰の路地”に縄張りを持つ連中だ。合言葉は『月夜は重荷を軽くする』――そこから口を割らせる」


「了解。刺さない刃も、私の得意よ」


「ヴェラ。寄付帳簿を洗え。印影、紙質、インク。二重帳簿があるはずだ」


「書記局の夜窓口に顔が利く。原本の写しを取ってくる」


「エリアス。孤児の出入りを“記録”に変えろ。住民登録、収容名簿、病院の搬送記録、行き先不明者――時系列で可視化する」


「薄紙を重ねれば山が見える。やる」


「ジーク。孤児院の外周を偵察。見張りの癖、出入りの車の流れ、夜間の灯りの増減。内部へは入るな。橋は公の場で架ける」


「承知した」


「セリナ。お前はノエルの守護。媒介者は狙われやすい。彼を安心させ、力を磨け。――明日は一緒に外塀まで行く。糸は近さで強くなるが、踏み込みは舞台まで待て」


「わかったわ」


 言葉に応じると、胸の奥に小さな熱が灯った。昨日まで“追放された娘”だった私が、今は“返却者”としてだれかの足場になっている。


 ――因果は巡る。返さねばならない。


 心の奥で、掟が私自身の声になっていた。


 ノエルを客間の寝台へ移し、湯で温めた布を額に置く。毛布の端を整え、因果カードを袖へ戻す。まだ薄く脈打っている。恐怖の熱が、黒い板に残滓を刻んだまま。


「じゃ、歌ってもらってくる」


 リディアが扉へ向かい、振り返って片目をつぶる。


「合言葉が合えば踊りも始まる。――心配しないで。刺さないから」


「殺すな」


 カインが短く釘を刺すと、リディアは肩をすくめた。


「口を閉ざす死体は証言にならない、でしょ。わかってる」


 ジークは大扉を押し開け、夜気を一口吸い込む。


「警邏の間合いと見張りの足並みを見てくる。白い鳥が二度走ったら集合、灯が三つで離脱」


「札は十、予備に五」


 ヴェラが結界札を渡す。ジークはそれを懐へ滑らせた。


「私は書記局へ」


 ヴェラは黒のフードを深くかぶり、静かに身を翻す。エリアスは羊皮紙と薄紙の束を抱え、地図の上に透明な層を一枚重ねた。


「消えた子の“線”を見えるようにする。山の前後に寄付の波が来ているなら、そこで”在庫”を軽くしている」


「言い方」


 ヴェラが眉をひそめる気配を、既に扉の向こうへ消してしまっていた。



 夜。拠点の灯が一つずつ落ちる。私はノエルの寝台の脇に椅子を引き寄せ、魔力の呼吸を静かに刻んだ。額の汗が引き、頬にわずかに血色が戻るころ、扉がこん、と短く叩かれる。


「ただいま」


 リディアが黒猫のように滑り込む。頬に煤、口元には“やってやった”の笑み。


「歌ってくれたわ。正確には“歌い始めた”。三本の繋がり。取りまとめ役は“ハルツ商会”。合言葉はさっきのとおり。受け渡し場所は港の旧倉庫“七番”。――で、これ」


 テーブルに小箱が置かれた。中には刻印入りの札が数枚。鎖の輪、重さの数字、符丁が刻まれている。


「“未使用”“保留”“戻し”。……戻し?」


「“返品”よ」


 リディアの口元から笑みが消えた。


「院長、女の子には“奉仕だけをさせて最後まではさせない”。理由が分かった。価格を保つためよ。気が変わった客が『未使用で』って戻してくることがある。――吐き気がする」


 私は拳を握りしめ、皮膚の下で冷たい怒りがゆっくり燃えるのを感じる。怒りは刃になりやすい。私は橋だ、と自分へ言い聞かせた。


 ほどなく、巻物筒を抱えたヴェラと、薄紙の束を抱えたエリアスが戻る。


「寄付帳簿、原本の写し」


 ヴェラが簡潔に言い、印影の照合結果を並べる。


「印は合っている――はず、でも紙の繊維が新しすぎる。表向きの“綺麗な帳簿”とは別に、“黒い帳簿”。『清掃費』『修繕費』に化けている大口出金――後から書き足した痕がある」


 エリアスは薄紙を地図の上に重ね、細い線を光でなぞる。


「消失の山は三つ。ちょうど寄付金の増加と重なる。――寄付が集まる時期に合わせて、子どもを“動かしている”」


 その時、窓の外で白い影が二度、斜めに走った。白い鳥。ジークの合図だ。


 私は外套を羽織り、カインと目配せして回廊へ出る。冷えた夜気。角を曲がった先に、ジークが立っていた。肩に夜露、灰色の瞳に怒りの火。


「見た」


 彼は短く言う。


「院長室と、裏庭。夜間に“奉仕”させていた。扉一枚の向こう。――刃を抜きかけたが、踏みとどまった」


 かすれた声。拳が白くなるほど握られている。


「子どもは?」


「今は部屋に戻された。見張りは二人。……俺が抜けば、二人は即座に斬れる。だが、それでは橋にならない」


 私は一歩、彼のそばへ寄る。


「踏みとどまってくれて、ありがとう。あなたが抑えたから、私たちは“公に返せる”」


 ジークは視線を落とし、深く一度だけ息を吐いた。


「明日、表彰式の段取りを詰める。逃がさない」


 私たちは拠点に戻り、卓上に証拠をすべて並べた。小箱の札、黒帳簿の写し、印影の照合票、薄紙に写した時系列の地図、そしてエリアスの幻視筆記の準備具。沈黙の中、カインが指先で卓の木目を一度叩く。合図の音。


 ――証言の糸。


 ノエルの供述、元炊事係の証言、ハルツ商会手代クルトの自白。日付・場所・関与者、三方向から一致。


 ――記録の糸。


 二重帳簿の存在、印影一致と紙繊維の年代差、港湾管理局の荷役記録。孤児院宛ての“寄付物資”と同じ便に、符丁“K”“R”“U”と記された無記名の荷が積まれていた。表と裏の荷が併走していた証だ。


 ――物証の糸。


 刻印札「未使用・保留・戻し」、倉庫“七番”の符号、院長室と裏庭の現場位置――保全の座標を確定。


 区切りの言葉が落ちるたび、因果カードの奥で細い光がひとすじずつ強くなるのを、私は掌で感じた。


「揃い始めた。――段取りだ」


 カインが全員の顔を順に見渡す。簡潔な陣形図が描かれ、駒の位置が置かれていく。


「舞台は“慈善事業表彰式”。孤児院と寄付元が一堂に会す。清らかさの化粧が最も厚く、最も剝がれやすい場所だ。リディアは上手の廊下で証言を供述。ヴェラは帳簿の原本写しと印影照合の結果を提示。エリアスは幻視筆記で物証を投影する。ジークは観衆側の退路と対象者の逃走路を同時に制する。――セリナと俺で“返す”」


「法の根拠は“王都児童保護令第十三条”」


 ヴェラが淡々と続ける。


「『児童に対する売買あらため斡旋、または性を強いる行為は、加害者・斡旋者・管理者を等しく罰する』。没収、資格停止、施設解体、禁固刑。書記局の判で法務院の即日認証が取れる。第三隊のルグラン隊長に根回し済み。“三系統が揃えば即応する”と明言」


「入口は三つ。貴賓口、来賓口、物資口」


 エリアスが指で地図を弾く。


「ジークは来賓口に結界。私は物資口で幻視機材を守る。リディアは貴賓席裏。いつでも“口”を足せる位置取り」


「任せて。四つでも五つでも足してあげる」


「足す前に言葉を選んで」


 ヴェラが小さく笑った。


 私たちは散り、準備へ入る。私はノエルの寝室へ戻り、枕元に白い紙を置いて“橋”の紋を小さく描き、今日の日付を書き添えた。依頼人の枕辺に“橋の印”を置くのは内規。私たちが“刃”ではなく“橋”である印。


「セリナ。甘いものを焼けるか」


 扉の向こうから、ぼそりとカインの声。振り返ると、彼は照れくさそうに目をそらした。


「……砂糖は、多めでいい」


「ええ」


 私は台所でバターを温め、粉をふるい、砂糖を測る。焼き上がりを冷ましていると、黒い影が音もなく現れ、焼き菓子を一枚つまんだ。噛みしめ、二度頷く。言葉はないのに、それで十分だった。



 翌朝。王都は淡い霧に包まれる。石畳が薄く光り、魚売りの声が遠くで揺れる。私はカイン、エリアスとともに孤児院の外塀の向かいにある廃屋の二階へ潜み、双眼鏡で園庭をのぞいた。古い鐘が鳴り、小さな靴音が庭を渡る。裏口から牛乳屋とパン屋が出入りし、塀の角には見張りが一人、皮袋を背負って所在なげに立つ。


「地下に鍵が多い」


 私は小声で言った。魔力の糸が石の下で固い点を叩く。


「食料庫の鍵の数じゃない。扉が二重。隠し棚の気配も」


「“黒い帳簿”の本丸だろう」


 エリアスがメモに走り書きする。


「位置と形状だけ固めておく。保全は式のあとに治安府と一緒に」


「見張りの足の置き方、軍じゃない」


 ジークが階下から合流し、低く告げる。


「荒事専門じゃないなら、崩れるのは早い。……だが橋を渡すのは舞台。今日の踏み込みはしない」


「約束」


 私は視線だけで頷いた。霧が薄れ、屋根瓦が鈍い光を返す。私たちは拠点へ戻り、最後の準備に入った。ローブ、舞台袖に仕込む幻視の鏡。帳簿の封緘。ヴェラは法文を三部写し、観衆掲示用、治安府提出用、記録用に分けた。


「目覚めた?」


 昼過ぎ、ノエルが目を開けた。私は椅子を引き寄せ、視線を合わせる。


「昨日、君は勇気を出してここへ来た。明日、君の声を“公”にする。怖いだろうけど、ここにいれば大丈夫。君の名は因果カードに結ばれた。橋は崩れない」


「……僕、逃げない」


「逃げなくていい。守るのは私たちの役目」


 彼は小さな拳を握って頷く。その指の震えが、次の呼吸で少しだけ止まった。


「配置、最終版」


 エリアスが扉を叩き、紙束を渡す。


「セリナはカインと正面。ヴェラは右で帳簿。リディアは上手、ジークは下手。僕は背面で幻視。――カインの宣言の後にセリナの言葉で糸を束ねる」


「順序を崩さないこと。それが様式美で、私たちの”迷い除け”」


 ヴェラが微笑を一瞬だけ見せる。私は因果カードを胸に抱え、小さく息を整えた。心臓と同じ速さで、板がそっと脈を打つ。


 夕刻、ヴェラが治安府の承諾書を机へ置いた。ルグラン隊長の名がある。


 カインが立ち上がる。黒のローブのフードの影が彼の口元に落ち、低い声が部屋の木目に沁みた。


「明日、“慈善”の化粧を剝がす」



 夜。私は回廊を一巡し、風の匂いと石の温度を確かめた。裏口の蝶番のきしみ、階段三段目のわずかな沈み。舞台で余計な音を立てないための小さな確認。

 寝台に横になり、天井の梁を見上げる。掌を胸に当て、四つ吸い、四つ止め、四つ吐く。魔力の河床が静かに沈み、糸は髪の毛より細くなって、心拍に寄り添う。


 ――因果は巡る。返さねばならない。


 明日は、子どもたちの“未来と尊厳”を返す日。


 目を閉じた。

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