日常編① はじめての休日
朝の鐘が鳴る。
私は机の上に予定帳を探した。だが、そこには何も置かれていなかった。昨夜読みかけの本だけが開きっぱなしになっている。
「……どういうこと?」
食堂に降りると、皆が揃っていた。
ジークは片肘を卓に乗せ、湯気の立つスープを大口で啜っている。ヴェラは落ち着いた手つきで薬草茶をかき混ぜ、リディアはパンを指先でちぎってスープに沈め、くるくると笑っていた。
エリアスは眼鏡の奥で新聞を追い、団長カインは端に座って静かにこちらを見ている。
「今日の任務は?」
問いかけると、リディアがくすっと笑った。
「任務は、ないよ」
「……ない?」
「そう、任務は、なし! きょうは――セリナに“休み方”を教える日!」
ジークがパンを飲み込み、豪快に笑った。
「たまにはこういう日もねえとな。お前、いつも肩に力入りすぎなんだよ」
ヴェラはカップを置き、落ち着いた声で言った。
「あなたは頑張りすぎるの。長く走るには、息継ぎが必要よ」
エリアスが新聞を畳み、ふっと口元を上げる。
「僕も市場で見たいものがあるんだ。ついでに寄る」
カインは何も言わなかった。ただ、黒曜石の瞳でじっとこちらを見つめる。
視線の奥に「従え」という意志が見えた。
◇
朝食からしばらくして、広間に集まった皆はいつもの任務服ではなく、思い思いの服装をしていた。
ジークは亜麻色のチュニックに革のベスト、胸元はゆったりと開いていて、逞しい体格を隠そうともしない。大剣の代わりに編み籠を抱えている姿が妙に似合っていた。視線は無意識に出入口や窓の方へ流れ、癖のように周囲の気配を量っている。
ヴェラは銀髪を低い位置で編み、青灰のドレスに黒いショールを羽織っていた。首元で揺れる水晶のペンダントが光を柔らかく返す。いつもより薄く微笑んでいるだけで、部屋の空気が不思議と落ち着いた。
リディアは淡い桃色のワンピースに小花柄のエプロン。髪には白いリボンを結び、手には小さな布袋。椅子に座るだけでも裾が揺れ、無邪気な仕草に視線をさらっていく。
エリアスは紺のジャケットに生成りのシャツ。眼鏡を外し、髪を後ろでまとめている。理知的な雰囲気は残しつつ、意外に軽やかで若々しい印象を受けた。
そしてカイン。白シャツに黒のズボン。袖を肘まで折り上げ、革靴は磨かれているのに履き慣れた艶があった。武器も外套もないはずなのに、一角に立っているだけで場の空気を支配する。胸元から覗く鎖骨の影が、不意に目に悪いほど艶やかだった。
「じゃあ、行こうぜ!」
ジークの声に導かれ、私たちは街へ出た。
◇
市場は賑やかだった。果物や布が山のように並び、屋台の香ばしい匂いが漂っている。
「セリナ、これ」
リディアが花を一本差し出した。髪に挿してみると、彼女は満足げに笑った。
「やっぱり似合うと思った!」
ヴェラが横から覗き込み、静かに頷く。
「色の調和が悪くないわ」
ジークは肉の串焼きを三本抱え、一本を無造作に私へ渡した。
「食え。旨いぞ」
「ありがとう……」
口に入れると塩気と肉汁が広がり、自然に笑みが浮かんだ。
「いい顔したな」
ジークがにやっと笑い、さらに二本目を頬張った。
古書店の前でエリアスが足を止めた。
「ちょっと待ってて」
中へ入り、分厚い地図帳を抱えて出てきた。
「ほら、河の流れが百年前と変わってる。地形の変化って面白いだろ」
ページを指でなぞりながら語る姿は熱心で、つい聞き入ってしまった。
大道芸の輪に足を止めたとき、リディアが袖に忍ばせた小さな呪具を取り出しかけ、ヴェラに耳をつままれてしゅんとする。
「いたずらは後にしなさい」
「へへ……」
ジークは子どもに木剣の構えを教えていて、その大きな手が小さな手を包む様子は温かい。
ヴェラは薬草を小瓶に分けながら私に説明してくれる。
「この香り、覚えておきなさい。発熱に効くわ」
「はい……」
リディアは芝生に寝転び、空に手を伸ばして雲の形を数えている。
「見て、あれなんか猫のしっぽみたい」
言われて空を見上げると、確かにそう見えて、思わず笑った。
エリアスは眼鏡を外したまま、詩集を開いて短く朗読した。落ち着いた声が木陰に響き、穏やかな時間が流れた。
川辺では小石を拾い、水切りをした。私の石は二回、リディアは三回。ジークが背後から角度を直してくれ、四回跳ねたとき、思わず声を上げて笑った。
カインがその瞬間、わずかに目を細めたのが見えた。
◇
夕暮れ、皆は「夜に集合」と言ってギルドの拠点へ戻っていった。
残されたのは私とカインだけ。
「……カインは戻らないの?」
「戻ってもやることはない。お前は?」
「まだ……休むって分からなくて」
カインは短く考え、石畳を歩き出した。
「なら、寄り道だ」
王都の外れの石段を登る。風が冷たくなり、草の匂いが濃くなる。
頂に出ると、眼下に街の灯が広がった。屋根が橙に染まり、川は金属のように光っている。
「……綺麗」
思わず漏らすと、カインが欄干に肘を置き、視線を下げた。
「戦場じゃ、景色を見る余裕なんてなかった。目を離せば仲間が倒れる気がしてな」
「今は?」
「今は背中を預けられる仲間がいる。だから、こうして立っていられる」
黒曜石の瞳が私を映した。胸が熱くなり、視線を逸らす。
「休むってのは、何もしないことだ。戦わず、選ばず、ただ息をして、景色を見て……それでいい」
風が髪を揺らし、頬にかかった。押さえようとした手より先に、カインの指が一房を耳へ払った。指先の熱が残り、心臓が跳ねた。
「……ありがとう」
「礼を言うほどのことじゃない」
彼は夜景に視線を戻し、私は隣で同じ灯を見つめた。
◇
広間へ戻ると、テーブルいっぱいに花と菓子が並び、皆の声が弾んでいた。
「楽しかったね!」
リディアが声を上げる。
「セリナもちゃんと食ったしな」
ジークが笑う。
「顔色が少し柔らかくなったわね」
ヴェラが茶を差し出す。
「風向きが変わる。明日の朝は冷えるよ」
エリアスが窓を見ながら言う。
私は笑みを返し、視線をカインへ送った。
白シャツの袖を折り、黒曜石の瞳で一瞬こちらを見ると、彼はグラスをわずかに掲げた。
それだけで胸が熱くなった。
初めての休日。
戦わず、選ばず、ただ一緒に笑う時間。
その記憶は静かに、私の中で灯火となった。