表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/26

日常編① はじめての休日

 朝の鐘が鳴る。


 私は机の上に予定帳を探した。だが、そこには何も置かれていなかった。昨夜読みかけの本だけが開きっぱなしになっている。


「……どういうこと?」


 食堂に降りると、皆が揃っていた。


 ジークは片肘を卓に乗せ、湯気の立つスープを大口で啜っている。ヴェラは落ち着いた手つきで薬草茶をかき混ぜ、リディアはパンを指先でちぎってスープに沈め、くるくると笑っていた。


 エリアスは眼鏡の奥で新聞を追い、団長カインは端に座って静かにこちらを見ている。


「今日の任務は?」


 問いかけると、リディアがくすっと笑った。


「任務は、ないよ」


「……ない?」


「そう、任務は、なし! きょうは――セリナに“休み方”を教える日!」


 ジークがパンを飲み込み、豪快に笑った。


「たまにはこういう日もねえとな。お前、いつも肩に力入りすぎなんだよ」


 ヴェラはカップを置き、落ち着いた声で言った。


「あなたは頑張りすぎるの。長く走るには、息継ぎが必要よ」


 エリアスが新聞を畳み、ふっと口元を上げる。


「僕も市場で見たいものがあるんだ。ついでに寄る」


 カインは何も言わなかった。ただ、黒曜石の瞳でじっとこちらを見つめる。

 視線の奥に「従え」という意志が見えた。



 朝食からしばらくして、広間に集まった皆はいつもの任務服ではなく、思い思いの服装をしていた。


 ジークは亜麻色のチュニックに革のベスト、胸元はゆったりと開いていて、逞しい体格を隠そうともしない。大剣の代わりに編み籠を抱えている姿が妙に似合っていた。視線は無意識に出入口や窓の方へ流れ、癖のように周囲の気配を量っている。


 ヴェラは銀髪を低い位置で編み、青灰のドレスに黒いショールを羽織っていた。首元で揺れる水晶のペンダントが光を柔らかく返す。いつもより薄く微笑んでいるだけで、部屋の空気が不思議と落ち着いた。


 リディアは淡い桃色のワンピースに小花柄のエプロン。髪には白いリボンを結び、手には小さな布袋。椅子に座るだけでも裾が揺れ、無邪気な仕草に視線をさらっていく。


 エリアスは紺のジャケットに生成りのシャツ。眼鏡を外し、髪を後ろでまとめている。理知的な雰囲気は残しつつ、意外に軽やかで若々しい印象を受けた。


 そしてカイン。白シャツに黒のズボン。袖を肘まで折り上げ、革靴は磨かれているのに履き慣れた艶があった。武器も外套もないはずなのに、一角に立っているだけで場の空気を支配する。胸元から覗く鎖骨の影が、不意に目に悪いほど艶やかだった。


「じゃあ、行こうぜ!」


 ジークの声に導かれ、私たちは街へ出た。



 市場は賑やかだった。果物や布が山のように並び、屋台の香ばしい匂いが漂っている。


「セリナ、これ」


 リディアが花を一本差し出した。髪に挿してみると、彼女は満足げに笑った。


「やっぱり似合うと思った!」


 ヴェラが横から覗き込み、静かに頷く。


「色の調和が悪くないわ」


 ジークは肉の串焼きを三本抱え、一本を無造作に私へ渡した。


「食え。旨いぞ」


「ありがとう……」


 口に入れると塩気と肉汁が広がり、自然に笑みが浮かんだ。


「いい顔したな」


 ジークがにやっと笑い、さらに二本目を頬張った。


 古書店の前でエリアスが足を止めた。


「ちょっと待ってて」


 中へ入り、分厚い地図帳を抱えて出てきた。


「ほら、河の流れが百年前と変わってる。地形の変化って面白いだろ」


 ページを指でなぞりながら語る姿は熱心で、つい聞き入ってしまった。


 大道芸の輪に足を止めたとき、リディアが袖に忍ばせた小さな呪具を取り出しかけ、ヴェラに耳をつままれてしゅんとする。


「いたずらは後にしなさい」


「へへ……」


 ジークは子どもに木剣の構えを教えていて、その大きな手が小さな手を包む様子は温かい。


 ヴェラは薬草を小瓶に分けながら私に説明してくれる。


「この香り、覚えておきなさい。発熱に効くわ」


「はい……」


 リディアは芝生に寝転び、空に手を伸ばして雲の形を数えている。


「見て、あれなんか猫のしっぽみたい」


 言われて空を見上げると、確かにそう見えて、思わず笑った。


 エリアスは眼鏡を外したまま、詩集を開いて短く朗読した。落ち着いた声が木陰に響き、穏やかな時間が流れた。


 川辺では小石を拾い、水切りをした。私の石は二回、リディアは三回。ジークが背後から角度を直してくれ、四回跳ねたとき、思わず声を上げて笑った。


 カインがその瞬間、わずかに目を細めたのが見えた。



 夕暮れ、皆は「夜に集合」と言ってギルドの拠点へ戻っていった。


 残されたのは私とカインだけ。


「……カインは戻らないの?」


「戻ってもやることはない。お前は?」


「まだ……休むって分からなくて」


 カインは短く考え、石畳を歩き出した。


「なら、寄り道だ」



 王都の外れの石段を登る。風が冷たくなり、草の匂いが濃くなる。


 頂に出ると、眼下に街の灯が広がった。屋根が橙に染まり、川は金属のように光っている。


「……綺麗」


 思わず漏らすと、カインが欄干に肘を置き、視線を下げた。


「戦場じゃ、景色を見る余裕なんてなかった。目を離せば仲間が倒れる気がしてな」


「今は?」


「今は背中を預けられる仲間がいる。だから、こうして立っていられる」


 黒曜石の瞳が私を映した。胸が熱くなり、視線を逸らす。


「休むってのは、何もしないことだ。戦わず、選ばず、ただ息をして、景色を見て……それでいい」


 風が髪を揺らし、頬にかかった。押さえようとした手より先に、カインの指が一房を耳へ払った。指先の熱が残り、心臓が跳ねた。


「……ありがとう」


「礼を言うほどのことじゃない」


 彼は夜景に視線を戻し、私は隣で同じ灯を見つめた。



 広間へ戻ると、テーブルいっぱいに花と菓子が並び、皆の声が弾んでいた。


「楽しかったね!」


 リディアが声を上げる。


「セリナもちゃんと食ったしな」


 ジークが笑う。


「顔色が少し柔らかくなったわね」


 ヴェラが茶を差し出す。


「風向きが変わる。明日の朝は冷えるよ」


 エリアスが窓を見ながら言う。


 私は笑みを返し、視線をカインへ送った。


 白シャツの袖を折り、黒曜石の瞳で一瞬こちらを見ると、彼はグラスをわずかに掲げた。


 それだけで胸が熱くなった。


 初めての休日。


 戦わず、選ばず、ただ一緒に笑う時間。


 その記憶は静かに、私の中で灯火となった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ