第7話 伯爵家の簒奪 ― 燃える署名
王宮に次ぐ壮麗な建築である「碧晶光の館」の大広間で開催される舞踏会は、王都でもっとも華やかな催しの一つだ。
幾百もの灯火を抱いたシャンデリアから光の雨が降り注いでいた。壁一面には花々が生けられ、床は大理石が磨き抜かれ、楽団が奏でる調べが貴族たちの笑い声と重なって波紋を広げる。
その中央に立っていたのは、ロズベルト伯爵家の人々。
伯爵代理ヘルマン・ロズベルトは灰色の礼服に身を包み、豊かな髭を撫でつけ、いかにも立派な当主のように振る舞っている。だが、その背筋はどこか卑屈に曲がり、眼差しは群衆の顔色ばかりを伺っていた。
隣に立つ継母、エレオノーラ・ロズベルト。金髪を高く結い上げ、真珠を散らした白いドレスを纏い、慈母のような微笑を浮かべている。その姿は「慈善の令夫人」と称えるにふさわしい外観を作り出していた。
そして義妹のイザベラ・ロズベルト。
クラリッサの母の形見を解いて仕立て直した、瑠璃色の美しい布地のドレスを纏い、同じく形見である青い瑠光石の宝石の髪飾りを高く挿している。十代半ばの可憐さに、その瑠璃が清らかさの仮面を与え、周囲からは「まあ、可憐な乙女だ」と囁きが漏れる。
三人は今宵、伯爵家が長年続けてきた慈善活動の「功績」を披露し、王都の人々の称賛を浴びるはずだった。
エレオノーラが舞台に立ち、白い扇を広げる。
「皆さま。本日は、このように盛大な場にお招きいただき、心より感謝申し上げます。わたくしたちロズベルト家は、孤児や貧しき人々を支えることを誇りとしております。わたくしの娘、イザベラもまた、その心を受け継ぎ……」
その声音は甘く、涼やかで、聴く者の胸に直接染み入るようだ。会場のあちこちから拍手が湧き、賛嘆の声が重なる。
イザベラは頬を染め、小さな声で「お母様……」と呟き、母の腕に縋る。その仕草に、さらに「なんと可愛らしい」という囁きが上がる。
――その一角に、黒のローブで身を覆った集団が立っていた。
顔をフードで隠し、身元を秘す「ざまぁギルド」。
豪奢な群衆に紛れ、リディアは柱の影から視線を走らせ、ジークは退路の扉の傍に立ち、無言で周囲を見渡す。ヴェラとエリアスは舞台袖に控え、帳簿と幻視筆記を整えていた。
そして、広間の中央の空気が一瞬揺らぐ。
黒衣の青年――カインが、静かに一歩を踏み出した。
その背後にセリナが続く。
観衆がざわめく。「誰だ?」「あの黒衣は……」という声が広がる。ある者は青ざめ、震える声で呟いた。
「――ざまぁギルドだ」
その一言が落ちると、広間の空気が一瞬で凍りついた。
扇が止まり、杯が揺れ、楽団の音が途切れる。
エレオノーラとイザベラの顔が、硬直した。
カインの声が低く響く。
「伯爵家の継母、エレオノーラ・ロズベルト。義妹、イザベラ・ロズベルト。そして代理当主、ヘルマン・ロズベルト。お前たちの行いを、ここに記す」
広間の空気は張りつめ、誰一人として口を開けなかった。
カインが一歩前に出ると、その背後でざまぁギルドの仲間たちがそれぞれの役割を果たすために動き始める。
「――まずは【証言】だ」
その声と同時に、広間の空気に幻視が浮かぶ。
フードを深く被った影から、リディアの声が朗々と響いた。
「街外れの下宿に身を寄せていた侍女は震える声で証言する――『奥方とイザベラ様は、ご令嬢のお部屋を荒らし、形見までも奪ったのです』。
また、別の古参の使用人は酒場で嘆いた――『伯爵様は賭場に通い詰め、屋敷の金を使い果たして……もう見ていられませんでした』。
さらに、社交場に残った義妹イザベラの嘲笑――『クラリッサよりも、わたしの方が伯爵家にふさわしいのよ』」
読み上げに合わせ、羊皮紙の文面と証言者の影像が空中に重ねて映し出される。
――証言の糸。
「やめて! やめてよ!」
イザベラが叫んだ。
先ほどまで頬を染め、可憐な笑みを浮かべていた「清楚な乙女」の面影は消え失せていた。
ドレスの裾を握りしめ、顔を紅潮させ、地を踏み鳴らして怒号する。
「私は選ばれたのよ! クラリッサみたいな地味な女に伯爵家は似合わない、私の方がふさわしいの!」
張り裂けるような声が広間に響き、観衆の空気が変わる。誰もが息を呑み、囁きが冷たい波のように広がっていく。
次にヴェラが黒帳簿を台上へ静かに差し出した。
フードの奥から、冷たい碧眼で三人を射抜く。
「これが【記録】。出納帳に刻まれた私物化の痕、領地収入に合わぬ支出。不正な譲渡の書面。印影は二年前の古い型――そして本来は家令が署名すべき欄に、エレオノーラの侍女の癖ある筆跡」
エリアスが幻視筆記を掲げると、光の羽根ペンが虚空を走り、原本の行が一字一句、空中に拡大される。
――記録の糸。
「う、嘘よ……」
エレオノーラが顔を覆う。「そんなもの、幻術でいくらでも――」
「では、【物証】を見せよう」
エリアスが合図し、連なる像が浮かぶ。
母の形見の宝石と一致する青い瑠光石の髪飾り――留め金に刻まれた新しい擦れ跡の拡大。ごく最近になって留め外しを繰り返した痕であり、実際に使用されている証だった。
――しかも今、その髪飾りはイザベラの髪に高く挿されている。舞踏会の灯火に反射するたび、奪われた証そのものが、彼女自身を断罪していた。
裁縫室の床に残されていた青い糸屑――それはクラリッサの母の形見のドレスと同じ色合いを持っていた。解かれた縫い目の断面を調べると、イザベラが今まさに纏っている瑠璃色の舞踏会ドレスと繊維が完全に一致した。
侍女の小箱から押収された香水瓶――弱い毒(倦怠と衰弱を持続させる成分)の反応色が青光に変わる。
そして、ヘルマンが通っていた賭場の会員証。刻印と署名は、帳簿の自筆と合致していた。
嘘も言い逃れもできない“事実”が、広間全体に映し出された。
――物証の糸。
「そ、そんな……!」
イザベラが真っ青になり、瑠璃色のドレスの胸元をぎゅっと押さえた。青い瑠光石の髪飾りが震えて光を散らした。観衆は沈黙のまま、彼女を見下ろす。
その時、逃走を企てたヘルマンが背後へ駆け出そうとした。
だが扉の前には、すでにジークが立っていた。
「止まれ」
短い一言と同時に、結界札が光を放ち、目には見えぬ壁が展開される。ヘルマンは跳ね返され、床に叩きつけられた。
「ぐっ……!」
ジークは剣を抜き放ち、石床に刃を突き立てた。その灰色の瞳は氷のように冷たく、ただ一言。
「断罪の場だ。乱せば、その場で斬る」
観衆がどよめき、三人の顔から血の気が引いた。
――もう、逃げ場はない。
カインが前に進み、声を響かせる。
「証拠は三系統揃った。因果は返却される」
その言葉を受け、私は因果カードを両手に抱く。胸の奥で紫の魔力が糸となり、クラリッサと加害者を結ぶ。
橋は架かった。
「奪ったものは、娘の尊厳と家督と財。罪は公に記録される。――これが、あなたたちに返るもの!」
光が弾け、糸がカードに収束する。黒い板にまばゆい署名が刻まれる。
――ヘルマン・ロズベルト
――エレオノーラ・ロズベルト
――イザベラ・ロズベルト
燃え立つような署名の光に、観衆は震え上がる。
「名が……刻まれた……」「消えない……ざまぁギルドの印だ」
ヴェラが重々しく法の言葉を述べる。
「王都商事法第七条。相続権侵害。これにより、ヘルマン・ロズベルト、エレオノーラ・ロズベルト、イザベラ・ロズベルトの三名に対し、次を執行する。第一に、クラリッサ・ロズベルトの相続権回復および不正に移された資産の没収返還。第二に、ヘルマンの後見権を直ちに停止し、当主代理の資格を剥奪。第三に、エレオノーラおよびイザベラの社交界資格の停止。……執行は本夜付けで開始される」
「何様のつもりだ!」
ヘルマンが叫んだ。「法の執行権は王都治安府と法務院にしか――」
「その通り」
カインが返す。「だからこそ、治安府に“今ここで”通告する」
広間の扉が重く開き、銀の紋章を肩章に付けた治安府の衛兵が二列で入ってきた。隊長格の女騎士が兜を取る。長い亜麻色の髪を後ろに一括りに結び、切れ長の瞳。
「ミレイユ様だわ」
会場のあちこちから令嬢たちのささやきが聞こえる。
「王都治安府第三隊、隊長ミレイユ・ルグラン。――ロズベルト家への告示は受領済みだ。ギルドからの三系統と照合した法務院の即日認証も、ここにある」
彼女は羊皮紙を掲げ、王印と法務官の署名を示す。観衆のどよめきが、今度は確信の色を帯びた。
ルグラン隊長は一歩前に出て宣言する。
「ヘルマン・ロズベルト。エレオノーラ・ロズベルト。イザベラ・ロズベルト。三名を不正資産移転ならびに相続権侵害の容疑で拘束する。反論は法廷で聞こう。――連行せよ」
隊士が前進する。
イザベラが泣きわめきながら引き立てられる。
瑠璃色のドレスは乱れ、結い上げた髪からずれた瑠光石の髪飾りが傾き、舞踏会の灯火を受けてみじめに揺れた。
エレオノーラが隊士の手を払いのけようとして腕を押さえられる。
ヘルマンは蒼白のまま、最後まで周囲の視線だけを気にしていた。
「私は、私は当主代理だぞ……!」
「代理は剥奪された」
ルグラン隊長が冷ややかに告げる。
「貴殿の名は――今、そこに刻まれた」
彼女の顎の示す先で、因果カードはなお微かに光っている。
――ヘルマン・ロズベルト
――エレオノーラ・ロズベルト
――イザベラ・ロズベルト
燃え跡のように赤銅色の署名。
イザベラはそれを見た瞬間、全身から力が抜けた。
「消して……お願い、消して……!」
「消えないわ」
フードの奥から、リディアの声が囁く。
「それは“逃げられない証”。あなたが自分で返すまで、残るの」
三人は隊士たちに左右を固められ、群衆の視線を浴びながら無残に連れ出されていった。
観衆の中から、震える声が漏れる。「ざまぁギルドだ……」「あの署名は本物だ……」
恐れがやがて秩序に変わり、視線は一斉にクラリッサへ向かった。
「クラリッサ・ロズベルト殿」
ルグラン隊長が振り向き、恭しく礼を取る。
「相続権回復の仮執行により、屋敷の封印を行う。あなたの同席が必要だ。移送の手筈は整っている。ギルド諸氏、同行を願えるか」
カインが短く頷いた。
「行こう」
クラリッサはしっかりと立っていた。涙の跡は残るが、瞳はまっすぐだ。
「……ありがとう、セリナ様」
彼女はかすれ声で言い、深々と頭を下げた。
「あなたのおかげで伯爵家の誇りが取り戻せました」
喉の奥が熱くなる。――私も、奪われたものがあった。名誉、居場所、未来。
それでも今、誰かの“返還”に手を添えられたのだ。
「こちらこそ」
私は微笑んで答えた。
「あなたが握ってくれたから、橋が架かったの」
広間の片隅で、音楽が判断を迷っている。楽団の老指揮者が譜面を閉じ、弓を下ろした。
「今宵は、踊りより記録を書く夜のようだね」
エリアスが肩を竦め、幻視筆記を丁寧に閉じる。
「署名の描線、保存完了。帳簿写し、保全完了。――これで“なかったこと”にはならない」
ヴェラは法文の束をまとめ、クラリッサに手渡した。
「読めるところからでいい。今夜は眠れないかもしれないけれど、眠ろうとしなくていいの。体は正直だから」
「ありがとう、ヴェラさん」
フードを深く被ったまま、リディアは気の抜ける調子で手を振る。
「やるじゃない、新入り。最初の橋にしては上等よ。ね、団長?」
カインは視線だけで答える。黒い瞳が一瞬和らぎ、
「上出来だ」
と短く言った。
「――行くぞ」
カインの合図で、私たちはそれぞれの持ち場に戻る。ジークが結界札を回収し、観衆の動線を解き、ルグラン隊長が衛兵たちに短い指示を飛ばす。事務的な徴税官が二人、小走りで現れて没収目録の作成に取り掛かるべく隊士たちの列に加わる。
館の光は相変わらず眩しいが、その輝きは違う意味を帯びていた。
――シャンデリアの光ではなく、公開の光。
退出の直前、背後で低い囁きが続く。「ざまぁギルド――」「因果は返された」
恐れと、救いの混じる声。
私は振り返らず、歩いた。外気は少し冷え、早春の香りが夜気に溶けている。
石畳の上でクラリッサが立ち止まり、深く頭を下げた。
「皆さま。本当に、ありがとうございました」
「礼は法廷で言えばいい」
ルグラン隊長が言う。
「あなたが生き直すこと、それ自体が礼になる」
クラリッサは泣き笑いになって頷く。
「はい。……生き直します」
馬車が待つ。隊士が先導し、屋敷封印のための行列が組まれた。
カインが私に目で合図する。
「来い。返却は途中でやめない」
私は因果カードを抱え、彼の隣に並んだ。歩き出す前に、カインが小声で付け加える。
「様式美の披露は、観衆のためだけじゃない。俺たちの“迷い除け”でもある。――よく守った」
「はい」
短いやりとりが、胸骨の裏側に落ちていく。私は四つ吸い、四つ止め、四つ吐く。魔力は静かに糸へ戻り、板の奥で脈動を落ち着けた。
碧晶光の館の扉が背後で閉まる。その向こうで、社交界の囁きが新しい物語を紡ぎ始めているだろう。
“ざまぁギルドが来た夜”“署名が燃えた夜”。
救われた者にとっては、帰還の夜。失墜した者にとっては、記録の夜。
石畳の上、私たちは列の最後尾に続いた。先頭を歩くクラリッサの横顔は、まだ細いが、確かに前を向いている。
彼女の拳は小さく握られ、その指先には母の形見を取り戻すまでの強い意志が宿っていた。
――因果は巡る。返さねばならない。
今夜、ひとつ返した。明日、またひとつ返す。
その反復の先に、奪われたままの世界は少しずつ形を変えていく。
私は因果カードを胸に抱えなおし、夜の風の中へ踏み出した。